泣きたい時は泣けば良い
下校中に史稀を見つけた。葵と一緒の帰り道、川土手をいつものように歩いていると、下の川辺に突っ立っていた。
「弟が神経質でね、受験近いから分からなくはないけど、色々面倒なのよね。」
今日の話題は日常の些細な不満。受験間近の弟くんがナーバスだっていう事だ。うちも来年は人事じゃないんだよな。って思いながら聞いてたんだけど、こうなると事情は変わる。
「葵ごめん、ちょっと用ができた。」
そう一言断って、返事も待たずに土手を下りた。
「え、何? ちょっと美晴???」
「本当ごめん。でも今チャンスなんだ!」
「チャンスって何が!?」
「内緒。」
途中でカメラをポケットから出し、絶好の機会に恵まれた事を喜んだ。よっしっ! これが彼を探る第一歩だー!!
勢い込んで、芝の斜面を駆け下りて来たってのに、史稀は気付いてもくれなかった。本当にどんな集中力してるんだろう? 半分呆れ、半分感心しながら背後から一枚撮ってみると、彼はやっと振り向いてくれた。さすがに電子音は耳に付くからね。
「お前、いつ来た?」
「ひどいなー。今来たんだよ、今。」
そしてもう一枚。真っ正面から写してみたけど……残念、これは完全にブレたな。
「ねぇ、今日は何見てんの?」
「空。」
彼は、勝手に写真を撮られて、当たり前だけど嫌そうな顔をしてる。そのくせ、文句の一つも言わないので、何だか少し調子が狂う。
ひょっとして……こないだ私が『表現方法』って言ったのを尊重してくれてるんだろうか? だとしたら、なかなか天晴れなやつだな、こいつは。
彼が見ていた今日の空は、やや曇り気味。一言で言ってしまえば全部『灰色』なんだけど、実際に見えてる色は一つじゃない。濃淡の違う色がたくさん重なり合って、空の半分以上を埋めている。
「ふーん、空はキレイだもんね、私も好きだな。風に流された雲がどんどん形を変えてさ、空の色も変わっていくし。同じ時ってのが無くて見てても飽きない。見逃すのが勿体無いなって気になるんだよね。」
「……そうだな。」
たったそれだけの言葉だったんだけど、嬉しかった。一方的に喋る私に、面倒そうに答えるてくれるのとは違う。向こうが一方的に言うのとも違う。初めて普通に会話が手来たような気がしたからだ。
「でも史稀みたいに、ずっと見てる訳にもいかないんだけどさ。」
「悪かったな。」
おー? 本当に会話が出来てるぞ。どうしたんだ史稀、何があった?
けどその後は、お互い空を見上げたまま、しばらく会話の無い時間が続いた。だって、向こうからは喋ってくれないし、私は何を喋ったらいいのか、逆に分からなくなったんだもん。変に緊張するし……何か私妙だ。
「……あー、弁当ありがとう。美味かった。」
しばらく経った頃、その重い沈黙は彼が破ってくれてホッとした。けど、そんなに直球で礼を言われるとは思ってなくて、ドキッとした。
「当然。私が作ったんだから、美味しいに決まってるじゃないか。」
だから動揺を隠すために、つい……強気な返事をしてしまうんだけど、素直な謝辞は嬉しい。本当に嬉し過ぎて、頬がやたらと緩んでしまう。
「すごい自信だな?」
「そりゃもう、何年もうちのご飯係やってるもん。あぁ、もう5年くらい? そっか、そんなになるんだ。」
小6の冬に父さんが死んで、それから母に替わって台所に立つようになった。『母さんは私達のために外で働いてくれているんだから、家の中の事くらい出来る限り私達でやろう。』って、妹と話して決めたんだ。
史稀の顔を見上げても、その表情からは何を考えているのか分からなかった。彼がうちの事をどのくらい知ってるのかも知らない。でも、何故とは問わない。私は名前を名乗ったんだ。世間は広いようで結構狭かったりする。訊けば噂くらい耳に入ってくるものだろう。
ただ、もし彼が同情してるのなら勘弁して欲しいとこけど、でもそういう感じはしなかった。
「……お前は偉いな。」
「そう?」
「俺なんか、全然だ……。」
そう呟いたっきり、今度は彼が喋ってくれなくなった。『全然だ』ってとこで終わられても、何がだ? こんな風に黙り込まれてしまうと、隣にいてどうしたらいいのか困ってしまう。
「あのさ……お弁当、良かったらまた作ろうか?」
だから困った挙句に、こんな事を言い出してしまった。礼を言われたのが嬉しかったのと……そう言ってくれるくらいなら、作ってもいいのかな? って。
「いいのか?」
「うん、構わないよ。って言うかさ、菓子パンばっかの食生活ってのは、何か腹立つんだよね……それに、どうせ私は世話好きですから。」
「……お前、根に持つタイプだよな?」
「うん。」
「否定しないのか?」
「しないよ? それよりタッパー。あれ無いと次持っていけないから、取りに行っていい?」
事が決まると二人でマンションまで戻り、史稀の家に上がり込む。今度も階段に向かってくれたけど、今度はペースを合わせてくれた。
これが2度目のせいなのか、最初よりはドキドキしない。知っているから不安も無くて、今回は完全に探検気分だ。
部屋をぐるりと見回して、一番気になるイーゼルに目を止めたものの、置いてあるキャンバスは真っ白だった。……となれば、やっぱり次はあのラックだろう。
「ねぇ、これ見ていい?」
台所に向かった彼に『これ』が通じるかはわからないが、一応断りは入れた。
「あ? ちょ、ちょっと待て。」
だからそんな声は無視だ。彼が他にどんな絵を描いてるのか気になるもん。私は詰め込まれてるキャンバスを慎重に引っ張り出して、一枚ずつ眺めた。
喋っているサザンカの赤い花々。池に浮く蓮と映り込む男の子。川を流れていく時計。木に繋がれた小鳥。うん、全部キレイなのはキレイなんだけどさ……。
「勝手に出すなよ……。」
慌てて来た彼を見ると、言いようの無い様子だったけど、取り上げるような事はしなかった。だからもう少し好きなようにさせてもらおう。
「私はこれが好き。」
他は元に戻し、池の絵だけを手にとって眺めた。この絵には蓮の花の咲く緑の池と、その池の傍で遊ぶ男の子が、水面に映る形で描かれている。
「何でこれなんだ?」
「この絵が一番素直な気がする。」
そう、この絵だけは意味を考えなくても、描かれているものがはっきりしていた。子供はのっぺらぼうだけど、楽しそうに遊んでる様子はちゃんと伝わってくる。
「複雑だな。」
「これ、ひょっとして史稀?」
昔の写真と違って、面影があるとかそんなのじゃないけど、何となくそんな気がして訊いてみた。
「……正解。よく気付くなそんな事? 確かに小さい頃の、何も考えて無かった頃の俺だよ。微かに残ってる古い記憶だ。」
「ふーん。」
「近所の神社の境内でよく遊んでたから、たぶんそこなんだと思う。」
「ふーん、じゃぁ何で複雑なの?」
自分の記憶。しかも遊んでた記憶と言うのなら、楽しい思い出だと思うのに、何がどう複雑なのか? 私にはそこが分からない。
「訊くのか?」
「言いたくないならいい。」
もったいぶったのか、本当に言いたくないのかは知らないけど、私は史稀をそのままにして絵を収めた。前者なら気に入らないし、後者なら言葉の通りだ。変わりにサザンカの絵を出して尋ねる。
「これ下の植え込みだよね?」
「あ? あぁ、うん。」
たぶんこれは、初めて会った日に考えてた絵のような気がする。一階のロビーから、じっと外を見ていた、何をしてるのか分からない邪魔だったこの男。この絵こそがその答えなんだろう。
「ねぇ、何を喋ってるの?」
「世間話。通行人とか、その辺の見える場所や、見えない場所を想像しながら色々と。」
「ふーん。」
答えが聞けて満足した。けど、私の反応に彼の方が不満そうだった。
「お前は驚くとか、何か無いのか? 」
「何で? 絵は自由に描けばいいものでしょ?」
何をどう考えてその絵になったのか? それが分かれば私は満足だ。彼の絵は丁寧でキレイに描かれてて嫌いじゃない。でも、あと足りないのがその意味だった。
「私を花に喩えるくらいなんだから、花が喋ったって不思議は無いよ。」
この後ソファに移動して、史稀はびっくりするほど自分の絵について語ってくれた。って言うかさ、これだけ喋れるんなら最初から喋ってくれればよかったのに。
って、思ってたんだけど……でも、途中から私の記憶は無いんだなー、これが。
白い壁と天井。床は薄いピンク色をしてるのに、その廊下はひんやりと冷たい。端に置かれた長イスに座る母さんは、息を殺すように泣いていて、何だかひどく小さく見えた。
「どしたの?」
幼い私が声をかけると、母さんは慌てて涙を拭いた。そして笑ったんだ。
「大丈夫よ美晴。何でもないから、」
何でもない訳がない。今朝父さんが倒れて、こうして病院に運ばれたんだ。処置してる間中、私は何も分からなかった。さっきようやく会えたけど、私はやっぱりどうしたらいいのか分からない。
「父さんそんなに悪いの?」
だけど母さんは、無言で微笑んだだけだった。
これは……夢なんだろうな。この先を私は知ってる。何度も見た夢ならいいんだけど、残念ながらこれは記憶だ。
今なら分かる。言葉が出てこなかったんだ。そしてとても無理をしてた。この壁の向こうの病室で、父さんは眠っている。結局一度も目を覚まさないままだった。
父さんの体中に機械や管が色々取り付けられていて、部屋には機械の音が交じり合っていた。その音も、何よりその現実を直視するのが嫌で……廊下に出たら、母さんが泣いてたんだ。
……ずっと。ずっと父さんは目を覚まさない。だから母さんは、辛そうなのに無理してて、そんな姿を見るのが苦しかった。
父さんだって、生きてるんじゃなくて、無理やり生かされてるような気がしてた。もちろん父さんがいなくなるのは嫌だった。けど、このままの状態は父さんも苦しいんじゃないかなって、私は言ってしまったんだ。
「父さんを楽にさせてあげない? 母さんがずっと辛そうにしてるのは、たぶん父さん困ってると思う。……だからさ、ちゃんと眠らせてあげない?」
あの時はそれが正しいと思ってた。それできっと楽になれるんじゃないかなって。……でも、本当にそうだったのかな?
父さんはただ静かに眠ってるだけだった。だから、そう思うのは私のエゴで、もしずっと延命を続けてたら、いつの日か目を覚ます事だってあったのかな?
そうすれば母さんは、仕事にあそこまでのめり込む事は無かったのかもしれない。
全部『もしも』の仮定でしかない。けど、だからひょっとして……って、まだ今でも心が重い。
不意に、白い世界に黒が混じる。
黒い着物でパイプ椅子に座ってる母さん。私はその背中をじっと見ていた。……今度は葬式の時か?
前には白と黄色の花でキレイ飾られた……だけど、見たくもない祭壇がある。母さんはその祭壇の、中央の写真に向き合ったままだった。
傍に行くと、母さんはきっと無理して笑う。だから私は近寄れなかったんだ。
妹はおじいちゃんのとこで泣いてた。でも、私は泣けなかったんだ。泣いたら崩れてしまうような気がしたんだ。それに、余計に母さんに負担がかかるんじゃないかって思ってたんだ。
母は無理して笑おうとする。『大丈夫よ』って。でも本人が大丈夫じゃないように見えた。だからその顔は見たくないんだ。
すぐに母は、以前にも増して働くようになった。仕方が無い事だって分かってる。生活のためでもある。けど、動いていたいんだと思った。
だから私達は、母さんの負担を減らそうって決めたんだ。
涙が溢れて目が熱い。何でこんな夢見てるんだろう?
ねぇ、母さん? 母さんも泣きたい時には泣いてよ。そしたら私、母さんが笑えるように頑張るからさ。
今みたいに、手ごたえのないまま頑張り続けるのって……もう結構辛いんだ。
「おい、そろそろ起きないと遅くなるぞ。」
目を開けると 目の前に史稀がいた。
「お前、結構寝てたんだぞ。」
見れば、ソファにもたれて毛布がかけられていた。でも、見える世界は何となく滲んでいる。
「そっか、こっちでも泣いてたんだ。」
私が呟くと、彼は隣に座って頭を撫でてきた。その動きはぎこちなくて、くすぐったい。けど、振り払う気は無かった。
「さっき少し思い出したせいなのかな? 昔の夢を見たんだ。」
「うん。」
史稀は何も訊いてこない。相槌だけでただ頭を撫でている。だから余計に涙がにじんだ。
「……寝言、言ってた?」
これにも彼は答えてくれない。ずっと撫でてくれるだけだ。
「ずるいな、史稀は……。」
「泣きたい時は、泣いたら良いんだよ。」
まるで人の夢を覗いてたかのような事を言ってくれる。
「それ、寝言で言った?」
クシャっと髪を掻き回された。ひどいなもう……その態度は分かり易いよ? それにしても、母に対して思っていた事を、そのまま言われてしまうだなんて、思ってもみなかった。
「……ねぇ、ごめん。もうどうせ2度目だし、ついでだからこっちの腕ちょっと貸して。」
「今更だな。こっちもついでだ。俺ので良いなら好きに使ってくれ。」
「ありがと。じゃぁ、遠慮なく借りる。」
もう、一度は泣いたとこ見られてるんだ、彼の前で虚勢を張るのは無駄だ。だから彼の腕に縋り付いて、しばらく泣かせてもらった。
彼はただ頭を撫でてくれたし、傍にある体温は何だかとても心地良かった。なのに、どんどん涙は溢れてくる。
もし、泣けるだけ泣いて全部出し切ってみたら、またいつもの自分に……ううん、以前の自分に戻れるかな? って、今日は最後まで泣いてみた。