甘い物には癒されるけど甘いだけじゃ駄目なんだ
胃が痛くなりそうなほど、悔しい思いをした翌日。学校が終わって一度家に帰ったものの、どうにも居心地が悪くて『Le sucrier』に逃げてきた。本当なら夕方にはやる事がたくさんあるんだけど、でも家にいるのは辛かった。
理由は妹。チラチラと和歌奈が私の様子を窺ってくる。何も言っては来ないけど、その視線が気になって、落ち着かなくて……でも、たとえ訊かれたとしても、昨日の事について話す気なんかまったく無い。だからあっさり逃げたんだ。
「こんにちは。」
「いらっしゃい、美晴ちゃん。」
店に入ると、マスターはいつものように迎えてくれる。その笑顔を見ただけで、私は何だかホッとした気分になれる。客がいないのをいい事に、窓側の席で油を売ってるっぽい文紘さんも、「いらっしゃい」と手を振ってくれたし。その前の席にいる美智留さんも、こちらに笑顔を向けてくれた。ここはとても暖かい。
カウンターの席に向かい、脱いだコートとマフラーをイスの背に掛ける。ここの人達も暖かいけど、店の中も暖かいからね。
「どうしたの? 今日は少し元気が無いようだね?」
普段通りにしていたつもりだったのに、席に着くなりマスターに訊かれてしまった……さすがですよ。こんなに簡単に見破られてしまうと、もう笑いたくなってくる。いや、史稀にも隠せていないものが、マスター相手に隠せるなんて思うのが間違いなんだろう。
私はカウンターに頬杖をつき、ミルクセーキを作ってくれているマスターを眺めた。その手は昔から変わらないような気がしてたけど、よく見れば皺が増えたし染みもある。それだけの付き合いがあるって事か……マスターにしてみれば、私が生まれる前から知ってるんだもんな。だから些細な違いにも、すぐ気付いてくれたんだろう。たぶんそれは嬉しい事だ。素直じゃない分くすぐったさもあるけど、私の事を気に掛けてくれているんだと思うと、やっぱり嬉しい。
だからといって、詳しく話す気になれる訳じゃないけど、『何でもない』って拒絶もしたくない。自分のおじいちゃんくらいに思ってるマスターには、何となくそんな態度を取りたくない。だからほんの少しだけ吐き出させてもらう。
「昨日考え事し過ぎて、疲れちゃっただけ。」
分かった風な態度で、偉そうな事を考えていた自分が情けなくて、史稀に内側をあっさり見破られてた事が悔しくて、色々浮かれていた自分がとても恥ずかしかった。おかげで昨夜は、いつの間にか不貞寝だ。
でもその分いつもより早く目が覚めてくれたから、朝食や朝の準備に支障は無かった……ものの、やっぱりいつもの朝とは違っていた。夕飯はカップ麺でしのいだって言った妹は、変に気を使ってくれて文句も言わない。母はたぶん妹から聞いてるはずなのに、いつもとそう変わらなかった。けど逆に、私の方が母と目を合わせる事が出来なかった。
「……そうかい。じゃぁ、そんな時にはあれがいい。」
マスターは理由も聞かず、冷蔵庫を開け紙の白い袋を取り出した。
「これ貰い物なんだけど、美晴ちゃん食べてくれるかい?」
そう言ってミルクセーキと一緒に置かれたのは、粉砂糖で白く化粧されたパリパリの皮のシュークリームだった。切り込みの入った生地の中にはカスタードクリームと生クリームの両方が詰められ、その上には半分のイチゴとブルーベリーが2つ載っている。それは見るからに美味しそうなんだけど……。
「いいの?」
「どうぞ。疲れた時には甘い物が一番だよ。それに僕はあんまり甘いものは食べないんだ。」
「じゃあ、いただきます。」
目の前のシュークリームと、マスターの笑顔につられて口角が上がる。一口齧り付くと、粉砂糖とクリームの甘さが、体にまで染み渡るような心地がした。
「食べ物ってのはね、そうやって美味しく食べてくれる人に、食べてもらえる方がいいんだよ。置いておいても、どうせそのうち文紘の腹の中に消えたんだろうしな。」
マスターはそう笑う。けど、急に名前を出された当人からは抗議の声が上がる。
「何で突然俺が出てくんの!?」
「お前が来てから、物を貰う事が増えたからな。」
「だってそれは、俺の魅力ってやつじゃないの?」
「馬鹿な事言わんでいい。客に出す店がその客から貰ってばかりでどうする?」
「んー、まぁそう言われると、そうなんだどけどさ。」
「だから、こうやって食べてもらえると助かるんだよ。な、美晴ちゃん。」
「うん、美味しいよ。」
二人のやり取りは新鮮だった。私はマスターの優しいとこしか知らない。だから、文紘さんを窘める姿に、実は少し驚いた。
「そりゃ美味しいよ。それ『緑の庭』だからね。」
当然のように言うその店は知らないけど、名前の方はどこかで聞いた事がある。いつだっけ? と、記憶を探る。
「あ、クリスマスの時の?」
「そう。よく覚えてたね。」
クリスマスコンサートの時も、その名を口にしたのは彼だった。あの日だけのメニューのケーキを特注したって言ってた店か。その時も彼は『美味しい』って褒めていた。ミルフィーユは確かに美味しかったし、妹もとても美味しそうに食べていた。
「それ、どこにあるんですか?」
「港のとこの公園あるでしょ? その近くの住宅街にこっそりとあるんだ。ねぇ、入ってた袋に地図があるかな?」
シュークリームの入っていた白い袋を、マスターが渡してくれたけど、残念ながらその地図では、シンプル過ぎてはっきりとした場所が分からない。ただ、理佐ちゃんの家からは近そうだなって事だけは分かった。
妹に食べさせたら絶対喜ぶだろうなって。こんなお菓子食べてたら、どうしてもあの食いしん坊の事を思い出してしまう。気遣ってくれたお礼と、心配かけたお詫びと。何より私は、美味しそうに食べてくれるあの姿が好きだから。
だから、後でこの店に行ってみようと思い、一緒に書いてある住所を控えておいた。
ミルクセーキは甘い。クリームも甘い。けど、甘いばかりじゃしつこくなる。イチゴやブルーベリーの酸っぱさは、きっと無くてはならないものだ。マスターはいつも優しい。でも、叱る事だってある。それはその理由があるからだ。
……当たり前じゃないか。何も優しくするだけが優しさって訳じゃない。注意だって、忠告だって、聞こえる言葉は痛いけど。でも、その裏には優しさがある。
昨日の史稀はとても優しい顔をしてた。手もそして声も。だけど私は、その言葉を聞く耳を持ってなかった。図星を指されて暴れただけだ。
……本当に情けないな、私は。
「美晴ちゃん? 何か良い顔になったね?」
「うん、ありがと。何かすっきりした。」
本当にマスターは鋭い。
「それは良かった。甘いものは効くだろう?」
「うん、そうだね。」
「何が?」
状況の分からない文紘さんが不思議そうな顔をするけど、それは言えない。子供みたいに拗ねてただけの恥ずかしい事を、わざわざ教えたりなんか出来ないからさ。
「ここはミルクセーキも、お店も甘くて優しいなって事ですよ。」
「店も甘いの? 確かにLe sucrierってシュガーポットって意味だけど……甘い?」
「甘いんです。『名は体を表す』って言うけど、それ本当だなって思ったんですよ。」
文紘さんは、全然納得のいかない顔してるけど、私的には満足だ。
会話も、精神的にもひと段落すると、見つめられている事に気付いた。その視線の主は、今までまったく会話に参加していなかった美智留さん。あまりにじっと見られているので、私は思わずタジタジになる。
「……あの、何かついてますか?」
「あ、ううん、ごめんね。何かどっかで見た事ある格好だなって。」
何だ口にクリームが付いてるのかと思って、おしぼりで拭いてみたけど、そういう訳じゃなかったのか。
「クリスマスには会いましたけど?」
「ううん、あの時も思ったんだけど、そのコートとマフラー見た事あるなって。クリスマスよりもっと前なんだけど……。」
イスに掛けてあるのは、濃いグレーのコートに深紅のマフラー。まぁマフラーはよく目立つとは思うけど。コートの方はありふれている。ちなみに、マフラーは編み物がマイブームだった時期の妹が編んでくれた物だ。
「美智留、面識あったの?」
「ううん、無かったはずだけど……何か引っかかるのよね。」
文紘さんの質問には、私も同じく全否定だ。私が彼女に会ったのは、クリスマスの時が初めてだから。
「あ、そうだ。ねぇ、表の通りにコンビニあるよね。その道の反対……信号渡らずに、男の人と結構長い事話してなかった?」
「はい?」
「相手は背の高い、無精ひげの人だったけど。」
それは史稀だ、間違いない。
「あー、それなら覚えがありますね。」
絶対、絵のモデルをやらないかと誘われた日の事だ。それしか思い当たるような事は無い。
「偶然ね、コンビニの中から見てたのよ。何で渡らないのかなって不思議に思ってたの。その後、男の人の方はコンビニに来たから、ついジロジロ見ちゃったんだけど。」
「はぁ。」
「あの人彼氏?」
「違いますよ?」
何だか好奇心に満ちた目で見つめられたけど、私は普通に否定した。それにしても、そういう話は皆好きなんだな。少しそう呆れていると、更に文紘さんまで口を挟んでくる。
「じゃあどういう関係?」
だけどそれには、さっきのように即答出来ない事に気付き、私は言葉を詰まらせた。どういう? そういえば、史稀との関係って何なんだろう? 無論彼氏ではない。友人でもない。家は知ってるけど、本名は知らない。携帯の番号もメアドも知らない。会うのは偶然会った時だけ。こういう関係は何て呼んだら良いんだろう?
「……えーと、知人?」
苦し紛れの答えはこれだ。
「そうなの?」
「そうかなぁ?」
残念そうな文紘さんと、疑惑ありの美智留さん。意味はそれぞれだけど、二人の声が見事に重なっていて可笑しい。
「そうですよ。他に表現する言葉が無いんですよ。」
『知人=知ってるだけの人』
そっか。史稀と私の関係ってのは、結局そんな程度だったのか。と、今初めて気付いた事実に驚き、私は何だか残念な気分になった。