人は本当の事を言い当てられると腹が立つ
うちだとこの部屋は現像室の場所になる。だけどここではアトリエとして使われているらしい。なるほど……この部屋に漂う匂いの正体は、油絵の具や洗筆用のオイルだったのか。そういえば、美術室で嗅いだ事があるかもしれない。
ここは他の部屋と違い、かなり雑然としててホッとした。整然とし過ぎた場所というのは、何だか逆に落ち着かない。もし彼が、平然とそんな場所で生活出来るのだとしたら、私はきっともう、彼を捜す事は無いだろう。
その部屋の中央にはイーゼルが置かれ、その前に円椅子がある。見た事も無いのに何故か、私には彼がそこにいる姿を容易に想像する事が出来た。右側の、手を伸ばせば届く位置にあるテーブルには、たくさんの画材が置かれ、それも自然だ。左の壁にはキャンバスが詰め込まれたラックがある。部屋の入り口傍に置かれたソファには、タオルや脱いだ上着が乱雑に置かれ、その前のセットになったテーブルには、コップやパンの袋、ペットボトルが転がっている。
なるほど。外で何かを眺めている時同様、彼は家でも集中する事が多いらしい。要するに、『目的の事以外はどうでもいい』きっと彼にはそんな所があるんだろうな。と、私はそう判断した。
それにしても、これを見る限り、まともな食事をしているようには見えない。そして、家にいるほとんどの時間を、ここで過ごしているんだろう。……アトリエで生活ってのも、何か違う気はするけどさ。
「ほら、そこのイーゼルのやつだ。」
珍しい彼の様子に戸惑いながらも、私は指された場所を見た。イーゼルの上には確かに1枚のキャンパスが立てかけられている。が、そこに描かれているのは人物ではない。じゃぁ何なのかって言うと、それは荒れた野に建つ堅牢な城だ。そしてその楼閣から咲いた、可愛らしい一輪のオレンジがかった黄色い花。
一見してキレイな絵ではあるんだけど、ダリやマグリットのようなシュルレアリスムの雰囲気がある。きっと何か意図する所があるんだろうけど、私には分からない。って言うか、私の絵じゃなかったのか???
いくら寄って眺めてみても、表したい事は分からない。もちろん絵だって変わらない。完全にお手上げの状態で、振り返って史稀を窺うが、彼は満足そうな笑みを浮かべていて面白くない。
「これがお前の絵。俺が見たお前の姿だ。」
「は?」
……本当に意味が分からない。もう一度穴が開くほど眺めてみるが、彼の言う事はピンとこなかった。
「まだ乾いてないから、触るなよ。」
絵に触れようとした矢先に注意が飛ぶ。そっか、だから家に呼んだ訳ね。その部分だけは納得出来た。
彼は私の傍まで来ると、絵を見ながら口を開いた。
「一見、人懐っこそうに見えるけど、実際にはそう心を開いちゃいない。傍若無人な振る舞いで人を煙に巻くのは、都合の良いようにコントロールしようとしてるんだろ? 積極的に見えて、実の所は一歩退いた場所で眺めてる。……そうやって距離を置く事で、弱い部分を隠してんだよな? そのくせお前、相当お人好しだろ? 根は凄く真面目で、責任感が強くて頑固だな。それに、あれこれ世話焼いたりするのが好きだったり、お前そんな感じだろ?」
このひどく失礼な人物に、私はもちろん反論したかった。……けど、そんな言葉は出て来ない。急に血の気が引く思いがして、全身が冷えていく。
「見ず知らずの俺に、こんだけ構ってんだからな。」
彼の笑う声は、冷えた心に突き刺さる。ゆっくりと、もう一度改めて私は視線を絵に戻した。それだけ聞けば、この絵の意味が分かる気がした。
その黄色い花は、華奢で可愛らしい。これが私……私の人に見せないようにしている部分なんだろう。堅牢で無骨な城壁で自身をよろい、必死にそれを隠している。だけど、ただ籠もっているだけではなくて、それでも人と関わりたくて、城から姿を覗かせている……って所か。
人に弱味なんか見せたくもない。世話好きは否定出来ない。大袈裟に振舞う事も、人を都合良くコントロールしたいのも事実だ。
人の言葉を冗談だと取れなくて、融通が利かない所も、一人で全部やらないと気がすまない事も、今更人に指摘されなくたって、自分でしっかり分かっている。
私が史稀を観察してたはずだったのに、逆に私も観察されていた……という事か。参ったな、私の日々の努力は、こんなに簡単に見破られるものだったのか。
そう思うと、とても腹が立つ。それはもちろん彼にではない。自分自身に対してだ。まったく彼にはとても感謝だ。本当にいい勉強をさせてもらった。……私の努力はまだ足りないんだと。
でもその感謝を、素直に言葉で伝えるのには、まだ胸の内は複雑過ぎる。動揺と焦りと、彼に興味を示した事への後悔で、何を言ったらいいのかなんて、とてもじゃないが考えられない。出来る事ならこの場から、キレイさっぱり消えてしまいたいほどだ。
黙っていると、まだ彼は言う。
「家の事、一人でそんなに無理する必要があるのか? 意地張って強がってばっかだと、お前そのうち潰れるぞ?」
しかし私には、彼が何を言っているのか分からなかった。
「何もかんも、一人で背負い込む事は無いだろう?」
訳が分からず振り替えると、何故か史稀は優しい顔で私を見ていた。無理? 無理って何だ? ……無理なんて、私は別に……。
だけど、そう思う気持ちとは裏腹に、私の目頭は熱くなり涙が溢れる。そして、その事実に私は余計混乱した。
「ほら、少しは力を抜け。」
泣いてる顔なんか絶対に見られたくなくて、じっと俯いていると不意に頭を撫でられた。ゆっくりと、何度も何度も撫でられるのは。どこかじんわりとして、余計に涙が出る。
「お前は全部一人でやってしまうタイプなんだろうが、もう少し人を頼る事を覚えた方がいいんじゃないか? 強がってまだ大丈夫って思い続けてると、段々逃げ道が無くなるんだ。」
その声はとても優しい。けど、その優しさは腹立たしい。
家の事って、こいつは一体私の何を知ってるんだ? どうしてこんな事を言い出したんだ? 憤りを覚えて体が震える。なのに……涙は止まらない。温かいものは徐々に溢れ、頬を伝って下に落ちた。
違う、無理なんかじゃない。強がってなんかない……私は強いんだ!!
「……余計なお世話だ。」
「それはお前もだ。人が必死に悩んでるのに、邪魔しに来るから集中出来ない。おかげで、色んな決意が揺らぎそうになる。」
「……それは悪かったな。だけど、お前じゃない! 私は美晴だ。いい加減覚えろっ!!」
乱暴に顔を拭って、撫でる手を振り払う。そして彼を睨みつけた。
余裕の無い自分が情けない、八つ当たりする自分に腹が立つ。そして、こんなにも弱い自分はとても嫌いだ。
「おい、待て!」
静止の声なんか、もちろん無視して飛び出した。このままだと私は、もっとたくさんの情けない姿を、彼の前で晒してしまいかねない。足はだるいままだけど、再び階段を駆け上る。
今、ここでエレベーターを待つなんて嫌で……そもそも1階分のためだけに、わざわざ呼ぶのもポリシーに反する。
駆け上がったそのままの勢いで家に飛び込むと、勢いよく開けた扉は必要以上に大きな音を立てた。イライラしながら脱いだ靴も跳ね返って壁に当たる。
「何!? どしたの? ねぇ、おねぇちゃん!?」
廊下の奥、リビング扉の隙間から、妹が顔を覗かせた。手にした洗濯物を取り落とし、慌てたようにこっちに来る。だけど私は返事もしない。こんな顔絶対見られてたまるか! 急いで部屋に入ると荷物を投げ、背中で扉を押さえつけた。
「何でもない!! いいからあっち行ってて!」
最低だ。
扉越しの妹の声は慌てて、私を心配してくれている。だけど……私は一人になりたい。
妹の気配が無くなってから、私はベッドに倒れ込んだ。布団を引き被って、そして考える。
何なんだあいつは? どうして見事に言い当てるんだ? 私は邪魔ばっかしてたってのに、何であんなに優しくするんだ!?
とにかく色々な事が悔しかった……そう、こんなにも悔しい思いをしたのは、たぶん生まれて初めてだ。