第三話 魔法学園
この国の首都、播須市までのフライトはわずか十分足らずの短い旅だったが、智観には驚きの多い旅であった。
普段地上から見上げるばかりだった雲が眼下に広がっているという光景もその一つだった。
眼下に白く広がる雲と、無限にも思える広がりを見せる青い空。
言い知れぬ解放感に包まれた智観は、甲板に出て風を受け、その目で空を見上げたくなった。
「甲板に出て良いですか?」
そこでそのことを水島少尉に伝えてみたのだが。
「あはは、気持ちは分かるわ。でも時速七百キロも出てる艦の甲板に出たりしたら吹き飛ばされて一巻の終わりよ? それにこの高度だと呼吸だってままならないわよ?」
見事なまでに笑われてしまった。
しかし水島の明るい笑い声には嫌味なものは感じられかった。
「あ、あはははは。確かにそうですよね……」
それどころか智観までつられて笑ってしまっていた。
だが笑いながらも、言われて見れば確かにその通りだ、と浮かれすぎていた自分を恥ずかしく思った。
外は水島の言うように強風と酸素不足はもちろん、それに加えて極寒の世界のはずだ。
村でごく簡単な教育しか受けていない彼女だが、高度約一万一千メートルまでの対流圏では千メートル毎に約六度の割合で気温が下がることくらい、話には聞いていた。
浮かれていた気分を落ち着かせると、彼女は景色を眺めて残りのフライト時間を過ごすことにした。
こうしている間にも窓の外の景色は飛ぶように後方に流れて行く。
途中で雲の切れ目から海を見ることも出来た。空の青よりも濃い青色だ。
村の近くの湖も決して小さくはなかったが、そんなものとは比較にもならない広大さに、彼女は圧倒された。
彼女は常々、いつか海に行ってみたいと思っていたのだが、まさか陸地から見るよりも前に空から見ることになるとは思ってもいなかった。
海や緑の大地をバックに流れる雲を見ていると、やがて智観達の乗る艇が減速を始めた。
何事かと考える間も無く艇は完全に停止。続いて床全体が下がっていく感覚を、智観の体がキャッチした。
「着いたわ。着陸までもう少し待っててね」
ひたすらおろおろとする智観に、水島が状況を教えてくれた。
艇が目的地上空に到着し、着率体勢に入ったのだ。
基地に到着後、智観は水島や他の兵士達に続いて地面に降り立った。
久しぶり――と言っても十分足らずだが――の大地の感触に妙に安心させられる。
それから水島は今回の任務の件で司令部へと報告に行ってしまった為、智観はしばらくの間一人で待っていなければならなかった。
待合室のソファに体を預けて水島の帰りを待つ間中、彼女はこれから始まる学園生活のことを考えていた。
(学校ってどんなものなのかな? 魔法学園の授業って何を教えてくれるんだろ? 私、魔法使えるようになるのかな?)
期待も大きいが、不安も同じくらいに大きい。
しかし高性能の鉄騎兵をいとも簡単に撃破出来る程の優秀な魔道士になれるというのなら、例え苦しいことがあっても乗り越えられる気がする。
復讐のつもりなどはさらさら無かった。
ただ強くなること。それだけが、彼女の望みだった。
机に向かって勉強する自分。クラスメイトと魔法を撃ち合って戦闘訓練に励む自分。
想像上の学園生活を満喫していると、報告を終えた水島が戻ってきた。
「お待たせ、終わったわ」
智観は水島のその声で現実に引き戻された。
それから彼女の車に乗って、いよいよオーランティア魔法学園へ入学届けを提出しに行くこととなった。
余談だが首都の超高層ビル群と行き交う人や車の群れもまた、十分に智観を驚かせるに値するものだった。
とにかくこの街の人の数は、智観から見れば尋常ではない。
ぐるりと三百六十度を見回して目に入る人の数だけでも、彼女の村にいた全住民の数を軽く上回ってしまいそうだったからだ。
智観にとっては見るもの全てが新鮮で、その度ごとに驚かされている。
水島はそんな智観の反応を微笑ましく思っていた。
一時間ほど車に乗って郊外に出ると、遠目にも分かる広大な施設とその敷地を囲う赤煉瓦の塀が視界に入ってきた。
「あれが魔法学園ですか?」
まず間違い無いとは思いつつ、智観は右隣の席で車を運転する水島に尋ねてみる。
「そうよ。大きいでしょ」
やはり正解だったようだが、それにしても大きすぎはしないかと智観は思った。
ビルも高ければ人口も多い。この街ではあらゆるものの規模が大きすぎる。
智観はある種のカルチャーショックに打ちのめされてしまっていたが、そうしている間にも車はどんどんと煉瓦塀へと近付いていた。
やがて水島の運転する車はその施設の門の前で停車した。
「到着よ。さあ行きましょう」
エンジンを停止し、智観に降りるよう促す水島。
「はい」
車から降りた智観は、オーランティア魔法学園の正門前に、学園を臨む形で立ってみた。
複雑な装飾が施された黒い鉄製の門と、赤煉瓦造りの塀や門柱とのコントラストが美しい。
門から校舎へと至る道の両側は桜並木になっており、四月の初めである今は満開の花を咲かせている。
「綺麗なところ……」
「そう言ってもらえると嬉しいわ。ここはいつ来ても心が安らぐところよ」
智観は誰に言うでもなく独り言を呟いただけなのだが、水島はまるで自分が褒められたかのように微笑んだ。
「これからここが私の学校になるんですね」
智観は感慨深げにそう言い、門を手で押して開ける。
門は少し重かった。それは自身の運命がここから変わることを象徴しているように、彼女には思えた。
人が通れるくらいの隙間が開いたところで、彼女は遂に学園の敷地に一歩を踏み出した。
水島と並んで桜並木を歩いていくと、やがて白く清潔な印象の校舎が姿を現した。
人工物であることは変わりないのだが、智観にはこの校舎が、都市部に林立するグレーのビルとは決定的に何かが異なるもののように映った。
入学手続きは校舎の中に入ってすぐの事務室で行うことが出来た。
ちなみに水島は「これも練習だから自分でやってみなさい」とだけ言うとどこかへ行ってしまった。
もっとも手続きとは名ばかりで、実際には名前や年齢、生年月日等の基本事項を書くだけだ。
一通り埋めてから間違いや記入漏れが無いことを確認し、提出する。
「書けました」
「はい。確かに受理致しました。それでは隣の部屋で写真撮影と制服の寸法をお測り下さい」
そうすると事務室の隣の部屋に通された。
今度は学生証を発行する為に必要な写真の撮影と、制服の寸法合わせをするらしい。
しかしこれらも、智観自身はほとんど何もする必要が無いままに終わってしまい、体の大きさに合った制服一式を二着手渡されてから部屋を出ることになった。
「あの、次はどこに行けばいいんでしょうか?」
次にすべきことが分からず、戸惑いがちに受付に聞いてみる智観。
すると番号札の付いた一つの鍵を手渡された。
「これで手続きは完了です。今お渡ししましたのは寮の部屋の鍵になります。四月六日の入学式までは予定はありませんので、ご自由にお過ごし下さい」
どうやら手続きは無事に終了したらしい。
今日は四月四日なので、入学式まではまだ時間もあるようだ。
学生証を受け取っていないことが気になって聞いてみたが、こちらは今撮影した写真を印刷するので発行に少し時間がかかるらしい。
入学式後に教室で渡されるとのことなので、これも心配する必要は無さそうだ。
何はともあれ、これで明後日からは晴れてここの生徒となれるのである。
それを改めて実感すると、智観の胸は自然と高鳴ってきた。
それは良いのだが、水島はどこに行ったのだろう。
不思議に思って、しんと静まり返った廊下の先を眺めたりなどしていると、彼女は近くの階段から姿を現した。
「あっ、水島少尉!」
智観が気付いて声を上げると、彼女は左手を振って答えてくれた。
そこで智観は、彼女の右手に先程まで無かったはずの細長い物体があることに気付いた。
智観のところまでやってきた水島は、妙に楽しげな顔をして尋ねる。
「どう? 手続き終わった?」
「はい。それは無事に。それよりも水島少尉はどちらに?」
「ん? あぁ、購買部にこれを買いに行ってたの」
そう言って水島は右手に持っていた細長い物体を掲げて見せる。
それは鞘に収められた一振りの長剣だった。
「こんなもの何に使うんですか?」
一体彼女は何を考えて剣など買ってきたのだろう。智観は理解に困った。
軍人ならこのような普通の剣をわざわざ店頭――しかも学園の購買部でだ――で買う必要は無いだろうし、そもそも彼女の武器は槍だったはずだ。
ますます理解に苦しむ。
すると水島は悪戯っぽくウインクして、困惑する智観にその剣を差し出してきた。
「智観ちゃんへの餞別に決まってるじゃない」
「えぇっ!? 私にですか!?」
まさか自分の為とは予想していなかった為、素っ頓狂な声を上げる智観。
「……でもそんな何から何まで」
しかしすぐにはその剣を受け取ることが出来なかった。
どれくらいの値段がする代物かは不明だが、命を救われ、学園まで送ってもらった上にこんな物まで貰っては流石に迷惑を掛け過ぎているように思える。
「あの。私、剣は全く使ったことがなくて……」
それは事実であると同時に、遠回しな遠慮の意思表示でもある。
しかしそんな智観の胸中を知ってか知らずか、水島は剣を智観に無理矢理押し付けて受け取らせてしまった。
「魔道士だって何だって、最後にものを言うのは体力なのよ。戦いでなくても、素振りにでも使ってくれればいいから」
意外と頑固なのだろうか、何を言っても引いてくれそうにない。
智観は仕方が無く、彼女の厚意に甘えることにした。
「……ありがとうございます。水島少尉」
「私が好きでやったことなんだから別に気にしなくていいのよ。何だか智観ちゃんのことが気になってね」
気になるというのがどういう意味で気になるのかは興味深かったが、智観はあえて深くは追究しないでおくことにした。
少なくとも悪い風には思われていないということだけは分かるので、それで十分だ。
「後、私のことは梨恵でいいわよ。将来私の部下になったとしたら別だけどね」
「少尉の下の名前って梨恵って言うんですか?」
初めて聞いた恩人のファーストネーム。
階級込みで「水島少尉」と言うといかにも軍人らしい硬い印象がするが、「梨恵」と言うとどこにでもいる普通の女性のように思えて、それが智観には不思議と嬉しかった。
「えぇ、水島梨恵。それが私の名前」
そこでふと腕時計を見て、梨恵ははっとなる。
「あっ! そろそろ戻らないと! じゃあ頑張ってね、智観ちゃん」
「色々ありがとうございました、梨恵さん!」
「また会おうね」
別れ際にそれだけ言って、梨恵は飛び出して行ってしまった。
残された智観は、取り合えず鍵に刻印された番号の部屋へと向かうことにした。
受付に聞いてみると、女子生徒の部屋は全て学園東部の女子寮棟にまとまっているらしいので、ところどころにある地図を頼りにその棟に向かう。
使うかどうかは別問題として、貰った剣は腰に差しておいた。
重量は一キロ余りだろうか。外見に反して意外と軽く、小柄で非力な智観でも大した負担にはならなかった。
智観に与えられた部屋は女子寮棟の五階の一室、五〇七号室だった。
部屋は小さく、家具と言えるものはベッドとクローゼット、それにライト付きの机と電話機くらいのものだった。
まさに睡眠と自習の為だけの部屋と言ったところだろう。
部屋に着いた智観は、まず荷物を整理することにした。
荷物と言ってもほとんど衣類だけなのだが、自宅から持ってきた分と、つい先程受付で貰った制服とがあって非常にかさばるので、先に整理しておきたかったからだ。
まず自宅から持ってきた全ての服と、二着の制服のうちの一着をクローゼットに収納する。
水島に貰った剣も、その中に突っ込んでおいた。
それから今着ている服を脱ぎ、貰ったばかりの制服に体を通してみようとしたところで、重大なことに気が付いた。
昨日の夜から事件続きで風呂に入る時間が取れなかったのだ。
まだ季節は春なので汗臭くはなっていなさそうだが、何となく気持ちが悪かったので、智観は先に軽くシャワーだけ浴びておくことにした。
荷物の中からタオルを一枚取り出すと、それと制服を持ってシャワー場に向かう。
部屋を出て適当に歩いてみると、すぐに共同のシャワー場は見つかった。流石に浴場は一階にしか無い(仮にあったところで今の時間には開いていないだろう)ようだが、軽く体を洗うくらいならシャワーだけで十分だろう。
個室の中にあったシャンプーと石鹸を借り、髪も顔も体も丁寧に洗って、シャワーで勢い良く流す。
少々熱すぎるくらいのお湯が、疲れた体には気持ち良かった。
それから脱衣場に戻って体に付いた水を拭き取り、髪をドライヤーで乾かすと、いよいよ制服に体を通してみる。
真っ白なカッターシャツに赤いリボンタイ。金の刺繍が施されたライトグリーンのブレザーと、濃紺のスカート。それらを順に身に着けていく。
せっかくなので指定の黒いソックスと、茶色の革靴も合わせて着用してみた。
上手い具合に脱衣場には鏡があったので、全身を映して自分の姿を眺めてみる智観。
「わぁ! 何だかいい感じ」
鏡の中には普段の自分とは少し印象の異なる少女の姿があった。
可愛らしく、かつ動きやすく作られており、智観は何だかこれだけで一人前の魔道士になれたような気分に陥ってしまった。
この制服を気に入った智観は、そのまま学園の購買部に足を運び、最低限必要な日常品を買い揃える。
歯磨きセットや替えのタオル、筆記用具、コップと緑茶などを購入すると、合計で二千ルミナ弱になった。
千ルミナ札を二枚出して、いくつかの小銭と品物を受け取る。
彼女が家から持ってきた全財産は約十万ルミナ。
それだけあれば今日と明日の食費は充分にまかなえるし、明後日からは学生証さえ提示すれば食費も学園側が負担してくれるので心配は無用だ。
ただし朝昼晩の三食以外は負担してくれないので、おやつなどは自費で買わなければいけないのだが。
余談になるがルミナとは神暦元年に制定された全世界共通の通貨の名称である。
物価は土地によって様々なので一概には言えないが、この国の首都では菓子パン一つが大体百から二百ルミナ程度で購入出来るようだ。
少し高いかな、と地方の農村出身の少女は思った。
彼女はこの日、その後も寝るまでの間ずっとこの制服を着て過ごしていた。
ちなみにそれまで着ていた服は洗濯して部屋の中に吊るしてある。翌朝にでもなれば乾くはずだ。
ベッドで横になりながら、彼女はこれからの日々を考えていた。
明日は一日学園内を見て回り、どこにどのような施設があるのかを確認しておきたい。
明後日になれば入学式が執り行われ、明後日からはいよいよ本格的な授業が始まる。
体力も魔力も無い自分が、本当に上手くやっていけるのだろうか。
それに同年代の女の子達とどう付き合えば良いのかも分からない。
あの梨恵のようになると勇んで入学を決意したのは良いが、やはり不安は消えなかった。
翌日の昼、智観は学園の敷地内を散策してみた。
今は春休みの最中であり、かつ今日が日曜日ということもあって、残念ながら生徒はまばらにしか見られなかったが、それでも見所は多かった。
入学式の会場になるという講堂や屋外の魔法演習場等も智観の目に留まったが、何よりも興味を惹いたのは広場にあった一本の大木だった。
あまりの高さの為に智観には一体何メートルあるのか見当が付かなかったが、優に十メートルはあるように思われた。
傍にはこの大木の由緒らしきものが書かれた看板が立っていた。
「えーっと何々……創立記念の金木犀?」
読んでみると、この木――金木犀の木だった――は学園創立の年、神暦五十二年に植えられたもののようだ。
オーランティアという学園の名もまた、これが由来となっているらしい。
現在は神暦百八十二年であるので、この金木犀は百三十年もの間この場所に植わっているという計算になる。
(あなたはその間、色々な人を見守ってきたんだね……)
不意に智観には、自分が時間という名の長く激しい流れの中で揉まれる、小さな存在に過ぎないように思えてきた。
この木が過ごした時間と、この木が見てきた人々の辿ったであろう運命を思うと、否応無しにそんな気分にさせられる。
言い知れぬ想いに包まれた智観は、ほとんど本能的に目を閉じ、金木犀の木に向かって手を合わせた。
(どうか、私のことも見守っていてくださいね)
金木犀の大木は、そんな彼女の願いに答えるかのように、小さく風に吹かれて揺れた。