第二十六話 願いの力
「待ちなさい、智観。よく考えて」
目を閉じて静かに消える瞬間を待っていた智観の耳に、ふとそんな言葉が聞こえた。
懐かしくて優しい声音だった。まるで自分を優しく包みこんでくれているようだ。智観にはそんな心地がした。
そこまで考えて、智観はようやく声の主に気付いた。
目を開けて身体を起こす。
智観の目に映ったのは懐かしい肉親の姿だ。やはり彼女の姿も、闇の中でありながらはっきりと見えている。
半年ぶりに母に再会した懐かしさで、智観の目には自然と涙が溢れてきた。
何か言おうとしても、すぐには言葉が出て来なかった。
何度か詰まりつつ、やがて喋れるようになると。
「お母さん。ごめんね」
彼女は開口一番に謝った。
「結局私もこっちに来ちゃった……また会えたのは嬉しいけど、ごめん……」
彼女の命は母――友恵によって生かされた命だ。本来は母の分をも生きなければならない命である。にも関わらず、彼女はたった半年で死んでしまった。
いざ母に会うと、途端にそれが申し訳無く思えてきたのである。
「でもこれからはずっと一緒――」
「それは違うわ、智観。あなたは死んでない」
「えっ?」
ところが不意に母の口から、智観の考えを根底から崩す言葉が飛び出してきた。
驚きに目を見開く智観。そんな彼女を正面から見据えて友恵は続ける。
「あなたはまだ生きてる。このまま死んではいけないわ」
「でも私、確か右胸を貫かれて……」
「それは本当よ。でもあなたは死んでない。もっと言えば、死ぬ前にあなたの友達が助けてくれようとしてるの」
母の言葉を聞いてすぐに智観は事情を察した。致命傷を治す力のある友達と言えば二人しか知らない。
「友達って言うと……千秋と悠里のこと?」
「その二人だけじゃないわ。智観を治す時間を稼ぐ為に、皆が力を貸してくれてるのよ。今もずっと」
「皆? 明日華や麗奈、先輩も?」
その質問に、母は何も言わずに頷いた。
「あ、でも……」
「どうしたの?」
「皆、今も戦ってるんだよね? 私なんかが戻っても足手纏いなだけじゃないかな?」
智観は戻れるのならすぐにでも現世に戻りたかったが、その思考が彼女を躊躇させた。
白兵戦の腕は凡庸。魔法の腕はまだましだが得意とは言い難い。
そんな自分が今戻ったところで何の役に立つだろうか。
「智観」
友恵は躊躇う娘にそう呼び掛けて歩み寄ると、無言のまま彼女を抱き締めた。
それはまさしく子供を宥める母親の姿だった。
懐かしい母の温もりを全身で感じていると、自然と気持ちも安らぐ。
先刻の悩みなど途端につまらないことのように思えて、すうっと溶けるようにして消えてしまった。
(お母さんの腕の中、心地好い……でも行かないと!)
決意を新たにした智観は、一度だけ強く母を抱き返す。
「お母さん、私決めた」
それだけで全てを悟ったのだろう。母は智観の身体から腕を離して正面から向き合う。
智観も母を見つめると続けた。
「私、皆のところへ戻る。それで、伝えたかったことを伝えて、やりたかったことをやり切って、お母さんの分も生きる!」
「……後悔しないわね? どうしてもと言うなら、今から私のところに来ることも出来るのよ?」
母はすぐには了承せず、念を押すように尋ねた。
だが智観はもう迷わなかった。
「しないよ。仮に後悔するとしても、お母さんはこう教えてくれたよね? 『やらないで後悔するよりは、やって後悔する方が良い』って」
「うふふ、覚えててくれたのね。嬉しいわ」
そう微笑みかけてくれる母。それが智観に一層の勇気を与えてくれた。
「それに成長した智観とこうして話せたのはもっと嬉しい」
「私もだよ、お母さん……」
微笑みに微笑みで返す智観。嬉しいはずだが、母の姿が涙で滲んで見える。
それから二人はもう一度、強く抱き合った。
実際にそうしていたのは二十秒にも満たなかったはずだが、智観には永遠のような時間だった。きっと生涯忘れられない瞬間になるだろう。
やがて体を離すと、智観はもう泣いてはいられないとばかりに涙を拭った。
しかしそこで重大な問題に気付く。
「あれ? でもどうやって戻ればいいんだろ?」
この空間から脱出する方法が分からないのである。
「ねぇ、お母さん知ってる?」
「よくは分からないけど、もう一度会いたいって願う人の姿を思い浮かべたら良いんじゃないかしら? ほら、あの青い髪の子とか」
「麗奈の? ……ってお母さん何で知ってるの!?」
いきなり麗奈の名前を出されて、智観は赤面した。
自分自身、正直な気持ちに気付いたのは昨晩なのに、どうして母がそれを知っているのだろうか。
母はクスリと笑うと、そんな彼女の疑問に答えた。
「あら。私は空の向こうからずっと智観を見守ってるのよ。知ってて当然じゃない」
「え? いつも?」
「えぇ。応援してるから頑張りなさいよ、色々と」
全てを見透かしたような母の言葉に、智観はますます顔を赤らめる。
「違うよー! 麗奈とはそういう関係じゃ……」
「はいはい。そういうことにしておいてあげるわ」
完全に母のペースに飲み込まれてしまっていた。
この先幾つになっても彼女には敵わない。智観にはそんな気がした。
そこでふと、それまで微笑みを浮かべていた母は、途端に真剣な顔になる。
「さて、お別れの時間ね。次に会う時は、私より年上になっていないと承知しないわよ?」
表情からも口調からも、今までの軽い調子が消え去っている。
真剣でありながら、どこか悲しみを湛えた雰囲気が感じられる。きっと娘である智観と話せる時間が終わってしまうのが寂しいに違いない。
智観もその想いは同じだった。例え現世に戻りたいという気持ちの方が強くとも。
「最後に言っておくけど智観。あなたは自分が思ってる程に弱くはないはずよ。私とあの人の子供なんだから」
「? どういうこと?」
最後の最後に一体何を言い出すのだろう。何を伝えたいのだろう。智観は頭に疑問符を浮かべた。
「戦い方を知らないだけか、無意識に力をセーブしてるだけ。心の底から願えば、きっと自分の力は応えてくれるはずよ」
「そんなことないよ。私はお母さんと違って弱いから……」
自分は弱い。智観はそう思っているし、それが間違いだとも思っていない。だからこそ彼女は否定した。
しかし母は首を横に振って続ける。
「あなたが初めて魔法が使えた時のこと、思い出しなさい。それにどうしても無理な時は私が手伝ってあげるから」
「あ、そう言えば……」
智観は五月のあの夜を思い出す。あの時、自分は命の危機に瀕していた。そしてその危機の中で、魔法の使い方を掴んだのだ。
以降は同程度の威力の魔法に限ればだが、すんなりと身につけることが出来た。
なるほど、自分に無かったのは能力ではなく、それを発揮するきっかけだったのだ。
それを想うと、智観は少しだけ自信を持てた気がした。
「……うん、お母さん。私、頑張るよ。だからずっと見守っててね」
「もちろんよ。じゃあ、またいつの日か会いましょう」
智観の見ている中、その言葉を最後に残して母の姿は霧散してしまった。
母が消えた後。
智観は闇の中で一人、現世に残してきた大切な人の姿を思い浮かべた。
初めてできた友達である明日華と千秋。
無口だが面倒見の良い悠里。
頼りになる神田先輩。
女性として、戦いに身を置く者としての憧れである梨恵。
そして……。
「麗奈、今そっちに行くから待っててね!」
最後に麗奈の姿と、その隣にいる自分を思い浮かべる。
彼女の意識はそこで不意に途切れた。
どことも知れぬ場所で母と過ごした後。
次に智観が目を覚ました時、彼女の目に映ったのは空をバックに自分を覗き込む千秋と悠里の顔だった。
「? ちあ、き……ゆう、り……?」
最初は二人とも顔面蒼白という言葉が相応しい顔をしていたが、智観の無事を確認すると。
「わぁぁぁぁん! 助かったんですねっ、智観ー!」
「良かった……」
千秋は地面に仰向けになったままの智観の胸に泣き付いてきた。悠里も静かに目元を拭っている。
この態勢だと起きるに起きられない。が、智観には悪い気はしなかった。
智観も彼女達に再会できて、嬉しいような懐かしいような気持ちで一杯だったからだ。
しばらくそのままでいると、不意に振動と地鳴りのような音が智観を襲った。
「何、今の!? あ、ごめん。千秋」
反射的に上体を起こす智観。千秋が巻き添えを食らったようなので、先に謝っておく。
その際、右胸を中心に制服が深紅に染まっているのが視界に入った。あまり気分の良いものではないので、智観はなるべく自分の胸元を見ないようにした。
疑問に答えてくれたのは悠里だった。
「麗奈達三人が敵を足止めしてるの。今のは麗奈の大地の高等魔法だと思うけど……」
そう言えば、あの世界で話した母もそんなことを言っていた。智観を蘇生する為の時間を稼いでくれていると。
「そっか。皆、私の為に……ありがとう。世話かけてごめんね」
智観は感謝とともに謝罪の言葉を口にする。
自分一人の為に全員に手間を掛けさせてしまったことが、申し訳無く思えてきたからだ。
しかし悠里は遮るように言った。
「謝ることなんて無い! 智観がいなかったら、皆悲しむから……」
千秋も頷いて続ける。
「そうですよ! 私達はずっと一緒なんですから!」
彼女達を友達に持てた自分は幸せ者に違いない。
これまでにもそう思ったことは何度かあった智観だが、今回ほど強く実感させられたのは初めてだった。
しかし今は状況が状況だ。いつまでも再会を喜んでいる場合ではない。
恐る恐る立ち上がる智観。千秋達の手当てが適切だった為か、痛みがほとんど残っていないのは幸いだった。
「それで今どうなってるの?」
智観は気を失っている間に何があったのかを尋ねた。
「明日華達が敵を足止めしてくれてますけど……」
千秋の口調からはあまり状況がかんばしくないことが窺えた。
「少し苦しいと?」
「はい。残念ながら」
その時悠里が立ち上がり。
「私、先輩に報告してくるから」
そう言って智観達が身を隠している岩壁から飛び出していった。
彼女はすぐに神田先輩を連れて戻ってきた。
「あぁ、生きとったか! ほんま良かった! けどな……」
先輩は智観の無事を喜んでくれたが、すぐに声のトーンを落とした。
「状況ははっきり言ってかなりまずい」
これは千秋の件で予想ができていたので、智観は特に驚かなかった。
神田は続けて現在の状況を説明してくれた。
「あんたを撃った奴ならうちが真っ先に片付けた。けどそれで魔力使い果たしてしもたから、しばらくは白兵戦しかできんのや」
「そんなに強力な魔法使ったんですか?」
「あぁ、うちには伊藤の奴と違って高等魔法を撃ちまくるような容量は無いからな」
悔しそうに唇を噛む神田。
後輩に負けているのが悔しいのか、それとも状況を打破する力が無いことを悔しがっているのか。表情からそこまでは窺い知れなかった。
「それで一応敵の数は減らせたけど、他の三年生や教師らは別方面の敵を叩くのに手がいっぱいで、こっちには来られへんらしいわ」
「別方面の敵?」
「他のところもうちらと似たような状況らしいで」
そこで千秋と悠里が口を挟んできた。
「機械の癖に私達の演習を見越してたんでしょうか?」
「有り得るかも。AIも馬鹿じゃないから……」
「かもしれへんな。でもそれを考えるのは後や! 今は国防軍が来てくれるまで耐えることだけを考えろ!」
話が本題から逸れることを恐れたのか、神田はそう言って千秋達の話を打ち切らせた。
ひとまず自分の目で状況を確認しようと、智観は岩壁から顔を覗かせる。
地面から突き出した鋭い岩々が、遥か彼方まで続いている光景が目に映る。きっと麗奈の魔法の産物だろう。
負傷する前の戦いで智観がそうしたように、麗奈はこれで攻撃と防御を同時に行ったに違いない。
その手前では明日華と麗奈が鉄騎兵相手に白兵戦を挑んでいた。彼女達の方が圧倒的に優勢だったが、表情はやや苦しそうだった。
「麗奈! 明日華! 大丈夫!?」
智観が二人に向かって叫ぶと。
「智観!? 無事だったのね!」
「待ってろ! こいつを片付けてから向かうからな!」
麗奈と明日華は瞬く間に敵を切り伏せ、こちらへと走ってきた。
壁の側で合流し、三人は神田のところへ戻る。
それからすぐに麗奈と明日華はこう報告した。
「先輩、あたしももう魔力が限界よ」
「私はまだ戦えますが、複数を相手にするのはどうも……」
報告しながら、二人は肩で息をしていた。やはり相当に疲れているようだ。
「残りの敵の数は?」
浮かない顔で尋ねる神田。明日華が答える。
「見えた範囲では、三十体前後かと思われます」
「三十体、か……」
その答えを聞いて神田は言葉に詰まっていた。
たっぷり十秒は沈黙が続いただろうか。その間、智観達は先輩が口を開くのを、固唾を呑んで見守っていた。
やがて神田の口がゆっくりと開いた。
「仕方無い。ここはうちが時間を稼ぐから、あんたらはその隙に逃げろ。うちなら大丈夫やから――」
「待ってください!」
神田の言わんとすることが読めた智観は、考えるより前に叫んでいた。
神田に集中していた全員の視線が、一転して智観に集まる。
「私に、やらせてください! お母さんも見守っててくれてるから!」
「お母さん? どういうこと?」
「夢でも見とったんか?」
訝しげに尋ねる麗奈と神田。他の皆も口には出さないが同じ疑問を抱いているはずだ。
「実は……」
智観は夢とも現実ともつかぬ世界での母との会話を簡単に話した。
「――というわけなんです。確かに夢かもしれませんが、私にやらせてくれませんか?」
「しかしなぁ……」
だが神田は決断を渋っている。上級生として下級生を守る立場にある以上、下手な賭けはできないのだろう。
神田がそう考えることは智観も予想していた。だからこそ、彼女は畳みかけるようにこう言う。
「先輩、捨て身で私達を逃がす気ですよね? でも私、誰かを犠牲にして生き残るなんて嫌なんです!」
「う、それは……」
智観の訴えに気圧されたのだろうか。押し黙る神田。
「あたしも同意見よ。そんな一族の名に泥を塗るような真似、できるわけないでしょ!?」
麗奈も智観に同意してくれる。他の三人も力強く頷いてみせている。彼女達の意思は固いようだった。
「しゃあないな……」
観念したのか、溜息を吐く神田。
「小林、思うままやってみ。けどその後はうちの指示に従ってもらうで?」
「ありがとうございます! 恩に着ます、先輩!」
智観は神田にお辞儀をすると、再び岩壁の陰から飛び出した。
まず智観は敵の姿を捉える。
最初は百体ほど存在したらしい敵は、大半が破壊されていた。
ある一帯の敵は氷漬けにされ、またある一帯は焼け焦げて機能停止していた。
(動いてるのは……あの一角だけかな?)
生き残っているのは前方左の一群のみ。あれらを倒さなければ無事には帰れないだろう。
私に任せてください。そう言った智観だったが、数十体の鉄の巨体が迫ってくる光景には、本能的な恐怖を呼び起こされた。
その時、明日華と麗奈がそれぞれ智観の左右に位置取った。
「智観、護衛くらいはさせてくれ」
「あいつら、大半はあたしの魔法で一掃したんだけどね。数が多すぎて魔力がね」
確か二人は戦えないとか言っていたような気がするが……。
心配した智観は尋ねた。
「二人とも、戦って大丈夫なの?」
「一体ずつなら平気さ」
「あたしだって白兵戦ならまだ戦えるわよ!」
二人の闘志は消えていないばかりか、ますます燃え上っているようにさえ思える。
頼もしい仲間の存在。それが智観に力と安心感を与えてくれた。
「……うん! じゃあ護衛は頼むね!」
二人に左右を護衛してもらいながら、智観は残っている敵を鋭く睨み付ける。
(ここで私がやれなければ、全員助からないんだよね……ううん、絶対やってみせる!)
智観は一旦目を閉じて大きく深呼吸する。
そして自らの運命を変えた、あの日の故郷の出来事を脳裏に思い描いた。
大切な人をこれ以上誰も失いたくない。
智観の原動力でもあるその目的を果たす為にも、彼女は願った。母があの日、一度だけ見せた魔法の力を。
「お母さん……」
彼女は右手を高く掲げる。
「少しでいいから、私に力を貸して!!」
続いてかっと目を見開くと、そう叫んだ。と同時に、智観の手から空の彼方へと光が伸びる。
その直後。数えきれない程の雷が、轟音とともに地上目掛けて落ちてきた。
「えっ!? ちょ、何あれ!?」
「このままだと巻き込まれるぞ! 悠里、千秋を頼む!」
異変に気付きパニックに陥る麗奈と明日華。
「大丈夫だよ。落ち着いて」
しかし智観は少しも慌てなかった。あの雷が自分達を傷付けることは無いと分かり切っていたからだ。
彼女の確信通り、雷は彼女達には一本たりとも降り注がず、数十体の鉄騎兵だけを正確かつ何度と無く撃ち抜いた。
雷の高等魔法、セレスティアルサンダー。
智観の放ったこの魔法の威力は、明らかにかつての母のそれを上回っていた。
やがて光も音も収まり、辺りに元の静けさが戻ってきた時、既にこの戦いは終結していた。
「何よ、今の魔法は!? 智観、一体気絶してる間に何があったの!?」
真っ先に我に返った麗奈が怒鳴るように問い詰めたが、智観には答えることができなかった。智観はその時、再び気を失っていたからだ。
もっとも仮に意識があったところで、麗奈を満足させられる答えは出せなかったであろうが……。
国防軍の救援が到着したのはそれから約十分後のことであった。
命に別状は無いと判断されたものの、智観は急遽首都の病院に搬送されことになった。