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第十三話 プール開き

 梅雨が明け、季節は夏の盛りの七月。

 学園はここのところ、連日快晴続きだ。

 薄暗くじめじめとした梅雨が明けた直後ということもあって、気分まで晴れ渡るような心地だった。

 何も智観に限ったことではなく、きっと多くの生徒が同じことを思っているだろうが。

「うーん、やっぱり青空の下で食べる昼飯は美味いな!」

「ですねー!」

 梅雨の間はご無沙汰になっていた土曜日の恒例行事。屋上でのランチタイムも今日をもってめでたく復活だ。

 全員揃っての「いただきます」の後、早速千秋の料理に箸をつけた明日華が、感嘆の声を上げている。

「今日は私も千秋ちゃんに負けないように作ってみましたよ。食べてねー」

「お、ありがたい。じゃあ智観のも……」

 智観も負けじと鞄の中から弁当箱を差し出す。

 今日は彼女も料理を作ってきている為、今まで以上に量も種類も豊富なランチタイムとなっている。

 自分の料理を味わってほしかったというのもあるが、理由はそれだけではない。。

「どう、悠里さん?」

「美味しい……」

 今回からは物静かなこの少女、北条悠里も参加することになっていたからだ。

「いつもやってたの?」

「はい。五月まではほぼ毎週ね」

 事の始まりは五月の末に遡る。

 智観が彼女にこのランチタイムのことを話すと、彼女も参加したいと言ってきたのだが、時期の悪いことに季節は梅雨。

 雨の多い六月の間は食堂で済ませていたので、屋上に弁当を持ち寄ってのランチタイムは今日まで先延ばしになってしまったという次第である。

 ようやく念願が叶った悠里は、快晴の空の下、千秋と智観の料理を賞味している。

 無口な彼女の口元が、いつに無く緩んでいるように思えた。

「もっといいの?」

 一通りの料理を賞味した後、首を傾げてそう尋ねる悠里。

 手元でせわしなく小刻みに動く箸が、彼女の言わんとすることを代弁している。

「あぁ! 沢山作ってきたから遠慮なく食べてくれよ!」

 明日華はそんな彼女に笑いかけると、智観の弁当箱からチーカマを一つ取って悠里の口に運ぶ。

「ほらっ」

 差し出されたチーカマに無言でかぶりつく悠里。

 これに調子を良くした明日華は、更に他のおかずを取っては差し出し始める。

 料理を作ってきた当の本人である智観と千秋はたまらない。

「こらー! さも自分が作ったように渡さないでくださーい!」

「そうですよー。それ私のなのに……」

 何しろ、可愛いクラスメイトに自分の料理を食べさせる機会を奪われているのだから。

「まぁまぁ、細かいことは気にしない」

 しかし明日華は意に介した様子も無く、今度は悠里におにぎりを差し出す。

「気にしますよー! こうなったら千秋ちゃん、私達も負けてられないよ!」

「はい! 了解です!」

 智観と千秋は互いに頷き合うと、同時にそれぞれ自分の弁当箱を手に取った。

 それから二人が各々の弁当箱から取り出した一品を悠里の口の前に差し出した時。

「悠里さん、食べてください!」

「悠里ちゃん、食べてください!」

 二人の声が重なった。

「あはは。真似しないでくださいよー」

「それを言うなら智観ちゃんこそ」

 全く同じタイミングで同じことを言ったのがおかしくて、二人は顔を見合わせて笑った。

 つられて悠里や明日華も笑っている。

 ひとしきり笑った後、智観は再び悠里に自分の作った料理を差し出した。

 美味しそうにそれを味わう悠里。

 それに続いて今度は千秋が差し出す。

「なぁ、私にもくれよー!」

「駄目です。人の料理で抜け駆けしようとした罰ですよ」

 後ろでは明日華がしきりに不平を唱えていたが、千秋にそう言われると反論が出来ない。

「もうそんなことしないからさ……」

 憐れみを誘うような声と視線に、智観は少し心が痛んだ。

 そうして少し考えた後に。

「はい、明日華ちゃんにも」

 彼女にも分け与えることにした智観であった。

「ありがとーーーっ!」

 差し出されたチーカマをあっという間に平らげる明日華。

「やっぱ智観ちゃんはどっかのケチと違って優しいな! えいっ!」

「わ、ちょっと待って! お弁当が!」

 それから彼女は思いっきり智観に抱き着いてきた。

 嬉しいのだが、チーカマ一つで大袈裟過ぎはしないだろうか。

 ふとそんな疑問が頭の片隅を過ぎったが、すぐにそれどころではなくなった。

 彼女は片手だけでバランスを崩さないように弁当箱を支えるので精一杯だったからだ。

「明日華!! 智観ちゃんが迷惑してるじゃないですか!」

 そんな彼女を救ったのは千秋の鋭い一声であった。

 幼馴染の親友に叱られて、明日華は渋々と抱擁を止めた。

 彼女はがっくりと肩を落とし、名残惜しそうに智観の方を見つめている。

 視線が少々痛かったが、弁当を危機から守り抜くことが出来た智観は安堵の溜息を吐いていた。

 もう少しで昨晩からの努力の結晶がゴミと化してしまうところだ。

「智観ちゃんも智観ちゃんですよ! そうやって甘やかすから……」

 ところが千秋の小言は、ほっと一息を吐いていた智観にまでも降りかかってきた。

「前にも言ったけど、智観ちゃんはお人好し過ぎるんですよ!」

「はーい……」

 なおも続く千秋の説教。

 そこへ明日華が横槍を入れた。

「でも智観のそんなところが好きなんだろ? 千秋は」

「そっ、それはそう……ですけど……」

 途端に顔を赤らめ、しどろもどろに答える千秋。

 解放された智観は、千秋の相手を明日華に任せて、この隙に自分の弁当を食べておくことにした。

(悠里さんに食べさせるのに夢中で忘れてた……)

 今になって、ようやく彼女はほとんど自分では食べていなかったことに気付いたのだ。

 厄介事を押し付けるようで悪い気もしたが、彼女とて人間だ。食欲はある。

「だよな。だったら問題は無し!」

 千秋は上手い具合に明日華が押し切ってくれている。

 一人蚊帳の外にされている悠里のことだけが心配だったが、よく見てみると彼女は当事者でもないのになぜか頬を赤く染めて、呆けたようにしていた。

 箸の動きも止まってしまっている。

 理由は不明だが、彼女については心配はいらないように思えた。

 安心した智観は食事を再開する。



 騒々しい昼食の時間が終わってからも、四人はしばらく屋上で時を過ごしていた。

 備え付けられたベンチに、肩を寄せ合って座っている、ただそれだけの時間。

 このゆったりとした時間は、智観の最も好きな時間の一つだ。

 ふと空を見上げてみると、小さな白い雲が一つ、風に乗って流れて行くのが目に入った。

 それ以外に雲は影も形も見当たらない。

 絵に描いたような快晴の空だった。

「いい天気ですねー」

「そうだな」

 のんびりと流れる時間の中。

 思わず智観が漏らした呟きに、明日華が答えた。

「そのうち暑くなってきますけどね」

「う……確かに」

「言うな、千秋」

 それからまた四人は心地良い沈黙に身を任せる。

 グラウンドの方からかすかに部活に励む生徒達のかけ声が聞こえてくる。

 時々破裂音のようなものが混じるのは、誰かが魔法の訓練をしている為だろうか。

 だがそれら以外に音らしい音は無い、静かで優しい時間だった。

 少しばかりそんな時間が続いた後、ふと明日華が思い出したように話を切り出した。

「そう言えば来週から水泳の授業が始まるよな。皆は水着の準備出来てるか?」

「当然です!」

「出来てる」

 即答する千秋と悠里。

 だが智観だけは違った。

「はい? 水泳?」

 彼女は疑問符を浮かべ、首を傾げるばかりだった。

「いや、この前の体育の時間に言ってただろ!」

 声を張り上げてツッコむ明日華。

「あ、そう言えば言ってたかも……」

 言われてみると、確かにそんな話を聞いたような記憶が智観にはあった。

 記憶を辿ってみて納得する智観。

 そんな彼女に、千秋は訝しげに尋ねる。

「まさかとは思いますが、水泳やったこと無いとか言いませんよね?」

「あはは、それは流石に無いって。だって近くの湖でよく泳いでましたから」

 笑って答える智観。

 実際彼女は、上手いか下手かはさて置き、泳ぐこと自体は好きだった。

 特に暑い夏にはひんやりとした湖水の感覚が気持ち良かった。

「で、水着はどうなんだ?」

「明日華ちゃんってばそんなに私の水着が見たいんですか?」

 再び同じ質問をしてきた明日華に、智観は冗談めかして答えた。

 すると彼女はより一層声を張り上げた。

 別に怒っているというわけではなさそうだが、顔は真っ赤だ。

「違うわっ! 学園指定の水着を買ってあるかって聞いてるんだ!」

「指定の水着なんてあるんですか?」

 きょとんと首を傾げる智観。

 水泳の話はかろうじて記憶の片隅に残していた彼女も、これについては完全に失念していた。

「はい。紺色のワンピースタイプのものですよ」

「いわゆるスクール水着」

 千秋と悠里がそれぞれ説明してくれたが、智観にはどのようなデザインなのか、イメージが描けない。

 詳しく教えてもらおうとしても「着れば分かる」と言われてしまった。

「何だかよく分からないけど……これから買ってきますね」

 購買に行こうとして立ち上がった智観に、三人はそれぞれアドバイスをくれた。

「名前を入れてもらうのを忘れないでくださいね」

「サイズはよく確認して」

「買ったら着て見せてくれよー!」

 妙な台詞も混じっていたような気がしたが、気のせいだと割り切って、智観は元気良く屋内へ続く扉へと消えて行った。




 彼女はその日のうちに無事に水着を購入することは出来た。

 しかし明日華達の前で着て見せる機会は無いままだった。

 いや、正確には恥ずかしくて出来なかったと言った方が正しいだろうか。

 とにかく購入時に試着したきりで、それ以降着る機会の無いまま水泳の授業の日になってしまった。

 着替えはプール脇の更衣室で行うことになっているらしいので、智観はクラスメイト達に倣い、水着の入ったスポーツバッグを持って移動する。

 女子棟とは言え男子生徒や男性教職員が通りかかるケースもあるので、着替えは教室では行わないことになっているらしい。

 それは別に良いのだが、智観はむしろ明日華や千秋達に自分の着替えの瞬間や水着姿を見せることの方が恥ずかしかった。

 前者はともかく、後者ばかりは水泳の授業ではどうしようも無いのだが。


 この学園のプールはグラウンドを挟んで魔法演習場の正反対の位置にあるので、そのことさえ知っていれば迷う余地は無かった。

 もっとも敷地自体が広大なので、分かっていても移動が面倒なことには変わりないのだが。

(出来るだけ隅の方に、っと……)

 クラスメイトに続いて女子更衣室に入った、智観は逃げるように隅の方へと行った。

 着替えるのなら極力死角になりそうな場所にしたい。

 そう思って。

 目ざとくそんな彼女を見付けたのは明日華だった。

 普段ならいつも一緒に居たい人物なのだが、この瞬間に限っては最も見付かりたくない相手だ。

「おっ、いよいよ智観の水着姿のお披露目だな」

「ちょっと明日華ちゃん……見られてると着替えられませんよ」

 夏服の半袖カッターシャツとスカートを先に脱ぎ、体に巻いたタオルの下で下着を外そうとした手を止める智観。

「何、気にすることは無いだろ。あの日の朝のことを忘れたのか?」

「それはそうだけど……と言うか、こんな時にそんなこと思い出させないでくださいよ……」

 智観の顔がみるみる赤くなっていく。

 あの日の朝とは、言うまでもなく夜中に特訓して寝坊した翌朝のことだ。

 あの時、智観は明日華や千秋達に半ば強引にパジャマを脱がされて着替えさせられたのだ。

 確かにあの朝の出来事に比べれば、巻き付けたタオルの下で着替えることなど何も問題は無いはずだ。

 そちらについては別に問題ではない。

 本当の問題はその後。水着姿を明日華や千秋達に見られることの方にある。

 不思議な感覚だった。

 村にいた頃もよく近くの川や湖で泳いでいるのを村人達に見られてはいたが、その時には決して感じることの無かった感情だ。

「分かった分かった。今だけは見ないでおいてやるから、後でゆっくり見せてくれよ。よろしく頼むぞ」

 至極残念そうな顔を見せた明日華は、そう言って更衣室の別の一角へと向かった。

 まだ彼女は制服のままだったので、着替えに行ったのだろう。

 智観に配慮して別の場所で。

「明日華ちゃん、違いますよ」

 明日華が見えなくなったところで、智観は呟いた。

 頬は熱でもあるのかと見紛うばかりに紅潮している。

「私が恥ずかしいのは……」

 着替える為に手を動かしつつも、彼女の目はずっと明日華が消えた曲がり角に注がれたままだった。


 着替え終わった智観は、上に体操服を羽織ってプールサイドに出た。

 水着と併せて買ったタオルに帽子、ゴーグルも忘れないように持っていく。

 プールサイドでは既に何人かのクラスメイトが、体操服を脱いで水着姿になっていた。

 他の者達も一人、また一人と濃紺の水着から延びるしなやかな肢体をさらけ出していく。

 それは夏の日差しを受けて輝いているかのような錯覚を受けた。

 思わず目を奪われそうになってしまう。

 そちらに気を取られて智観は転びそうになった。

 いけないいけない、と彼女は気を取り直し、急いでクラスメイト達に合流した。

「遅いですよ、智観さん! 早く準備してください!」

「そうだぞ! そのままだと授業受けられんぞ?」

 遅れて合流した智観を迎えたのは、一足先に準備を済ませた千秋と明日華だった。

 二人とも水泳帽を被り、ゴーグルも額に掛けて、泳ぐ準備は万全と言った様子だ。

 そんな彼女達、特に明日華は一分一秒でも早く智観の水着姿が見たいのだろうか。

 しきりに智観に脱げと迫ってくる。

「でも……」

 もちろん全裸になれなどと言われているわけではない。

 それは分かっているのだが智観には自分の水着姿を見られることが嫌だった。

「何だか恥ずかしいと言いますか……」

 彼女の心に芽を出した恥じらいという名の感情は、消えるどころか根を広げ、より大きく成長しつつあった。

 脱ぎかけたポーズのままでしばし固まっていると、痺れを切らしたのか、千秋が叫んだ。

「仕方が無いです。明日華! あれをお見舞いしちゃってください!」

「よし来た! 任せろ!」

 明日華は口で答えるよりも早く行動に移っていた。

 瞬間、嫌な予感を感じた智観だったが、抵抗する暇すら与えられず、彼女に後ろから抱え上げられてしまった。

 こうなると身長差のせいで智観は地に足が付かない。

「さぁーて、捕まえた」

 プールサイド、体操服姿、抱え上げられた自分の体。

 これから何が起ころうとしているのかは火を見るより明らかだった。

 智観の予想を肯定するかのように、明日華は彼女を抱えたままずんずんプールサイドへと歩み寄って行く。

「ちょっと! ストップストップ! 脱ぐ、脱ぎますから落とさないでー!!」

 足をばたつかせて悲鳴を上げる智観。

 すると不意に、地に足が付く感触が戻ってきた。

 どうやら降ろしてもらえたらしい。

 やはり地に足が付いているというのは安心できる。

 世の中には好き好んで宇宙に上がる人種もいるのだが、一生かかっても彼らの感覚は理解出来ないだろうと智観は予想した。

 別に理解したいとも思わなかったが。

「いやぁ、智観は物分かりが良くて助かるよ」

「本当、そう思います」

 しかし地に足が付いたところで智観には逃げ道など無かった。

 とうとう観念して、彼女は羽織った体操服に手をかける。

 逃げ出したい気持ちを堪えながら、腕を一本ずつ抜き、続いて頭を抜く。

「……あんまりじろじろ見ないでね」

 無駄な努力だとは思いつつも、一応はそう言っておく智観。

 本当に無駄な努力以外の何物でもなかった。

 どういう訳か千秋や明日華のみならず、その他のクラスメイト達までもが智観を注視してしまっている。

 きっと下手に大騒ぎをして注目を集めてしまったのがまずかったのだろう。

「その……私あんまりスタイルとか良くありませんし……」

 衆人環視の中、智観は体操服の上下を脱ぐ。

 恥ずかしいのは変わらないが、体操服を着たままプールに落とされるよりはずっとましだ。

「むぅ、馬鹿にされてるみたいです……それって私への嫌味ですか?」

 遂に智観が水着姿を披露すると、真っ先に千秋が口を開いた。

 自身の胸に目を落としてそう言う彼女の口調からは、不機嫌な感情が滲み出している。

「千秋ちゃん、私とそんなに変わらないでしょ。私八十二だけどいくつ?」

「そんなこと言って私よりずっとあるじゃないですか……こっちなんて七十七なのに……」

 揃って溜息を吐く智観と千秋。

 そんな二人を突然の抱擁が襲った。

「いやいや、私はそれくらいの大きさの方が好みだぞ」

 明日華の仕業だ。

 彼女は右腕で千秋を、左腕で智観をどちらもしっかりと捕らえている。

「だから私は好きだよ。千秋も、智観もな」

 とてつもない発言をしていることに本人は気付いていないのだろうか。

 そう言って抱き締める腕に更に力を込める明日華。

 水着姿ということもあって、肌が露出した部分から体温が直接伝わってきて温かいが、少し苦しかった。

 そしてまた、二人の胸中には複雑な感情が湧き上がってきていた。

「……嬉しいはずなのに悔しい気がするのは私だけ?」

「ううん、私もです」

 明日華に好きと言われたこと自体は、智観にとっては嬉しいことこの上無い。

 それはきっと千秋も同様だろう。

 しかし彼女達は同時に妙な敗北感をも抱いていた。

 明日華の腕を引き剥がしながら、智観はちらりと明日華の胸元に視線を移す。

「喋り方も趣味も男の子みたいな癖に、そういうところだけ育ってるのってちょっと不公平じゃない?」

「まったくです! 嫌味のつもりですか?」

 千秋も智観の視線の先を追いかけながら頷いた。

 敗北感の原因はバストサイズだった。

 小さい方が好みだと公言する明日華自身の胸が当の二人よりも大きいことが、彼女達には皮肉のように聞こえて苛立ちを覚えるというわけだ。

「いや、別に嫌味とかそんなつもりじゃないんだが……」

 困惑したような顔で頭を掻く明日華。

 水泳帽を被る為か、髪を束ねる位置が普段と違っているのが新鮮に映る。

 そんな明日華を無視して、千秋は智観ににじり寄ってくる。

「私、聞いたんですけどね」

 何やら目付きと手の動きが怪しい。

 逃げた方が良い。

 直感的に身の危険を感じ取る智観であったが。

「胸って揉むと大きくなるそうですよ!」

 またしても行動に移す間も無く、今度は千秋に捕まってしまった。

 智観はつくづく自身の反応速度の遅さを恨んだ。

 よくよく考えると、あの生体兵器と戦った夜に命があったことが不思議にさえ思えてくる。

「だから一緒にしません!?」

 智観が抵抗するのを忘れているのを好機と見てか、千秋は空いた右手で智観の左胸を鷲掴みにした。

「え!? ちょっと千秋ちゃん! やめっ!」

 千秋は左手で智観を捕まえたまま、右手を握っては緩める動作を繰り返す。

 不快感を覚えたのも束の間のことだった。

 すぐに体が熱くなるような感覚がそれに取って代わった。

 智観の全身を電流が駆け巡るような感覚。

 それでいて意識は熱に浮かされた時のようにぼうっとしている。

「こら! やめないか!」

 曖昧になりつつある智観の意識に、明日華の鋭い声が突き刺さった。

 同時に感じていた不思議な感覚も、ふっと消え去ってしまう。

「離してくださいよ、明日華ー!」

 我に返ると、暴れる千秋を取り押さえる明日華の姿が、智観の目に映った。

「あ、ありがとう。明日華ちゃん……」

 とりあえずこの場は明日華に救われたようだ。

 暑さのせいか額にかかる多量の汗を拭いつつ、智観は礼を口にした。

「いや、気にするな。こいつの暴走を抑えるのは慣れてるからな。それに……」

「それに?」

「智観は今くらいの大きさの方が好きだぞ」

 またその話題かと呆れると共に、この時、智観の中で何かが音を立てて切れた。 

「千秋ちゃんも明日華ちゃんも……一度頭を冷やしてきてください!」

 叫ぶや否や、智観はエアストリームの詠唱を開始する。

 対象は千秋と明日華。

 殺傷力は限界まで抑え、風向きはプールサイド側からプール側になるようにイメージを頭の中に描く。

 それから力強く、魔法の名を唱えた。

「エアストリーム!」 

 二人だけを狙いすまして吹き付ける突風。

「きゃあああああ!」

「突っ込みに魔法を使う奴があるかああああ!」

 濡れたプールサイドでは踏ん張りが効くはずも無く、千秋と明日華の二人は悲鳴を残してプールの中へと消えていった。

 どこかすっきりとした気分になった智観。

 そんな彼女が一息吐いたところで、どこからともなく男性の怒声が飛んできた。

「こらー! プールに入る前にはシャワーを浴びろー!」

 声の主を探して辺りを見回すと、体育教師がこちらへと走ってくるのが見えた。

 この時点では智観は知らなかったが、プール入る前にはシャワーで体を洗わなければならないという規則になっていたのだ。

 その後、千秋と明日華、そして彼女達を落とした智観の三人は、罰として腹筋と腕立て伏せを十回ずつさせられることになってしまった。



「よし、準備体操が終わった者からシャワーを浴びてこい」

 体育教師がそう言うと、Cクラスの面々は更衣室横に設けられたシャワー室へと向かう。

 ある少女は少しでも早く暑さから解放されたくて真っ先に飛び込み、またある少女は冷たいのが苦手なのかシャワー室の前で躊躇うように立ち止まっていた。

 麗奈もそんなクラスメイト達と一緒にシャワーを浴びに行こうとしたところで、一人の少女の異変に気が付いて足を止めた。

「北条さん、何してるの? シャワー行くわよ?」

 その少女というのは悠里のことだ。

 彼女は熱に浮かされたような瞳でどことも知れぬ中空の一点を見つめている。

「森本さんと小林さんの……」

「おーい、北条さーん?」

 心配した麗奈は声をかけたり、悠里の顔の前で手を振ったりしてみたのだが、反応が無い。

「もっと見ていたかったのに……」

 ただ名残惜し気にそんな呟きを零すばかりだ。

 恐らく麗奈の姿が目に入っていなければ、声も耳に届いてはいないのだろう。

 ところが彼女のこの反応は、麗奈の癇に障ってしまった。

「せっかく親切心で声をかけてあげたのに無視とか、馬鹿にしてるの!? だったらあたしにも考えがあるわ!」

 自分の世界に陶酔しきって無防備になっている悠里の両脇腹に狙いを定めた麗奈は、思いっきりくすぐった。

 手加減は一切しないし、悠里が反応するまで止めるつもりもない。

 彼女の「考え」とはくすぐり攻撃のことだった。

「あ、あはははは! や、やめてっ! 伊藤さん!」

 これには悠里も耐えられなかったのか、すぐに彼女の意識は現実に戻ってきた。

「あら、おかえりなさい。ようやく気付いたのね」

「ところで何か用事?」

 現実に戻ってきたばかりの悠里は、きょとんとした様子で麗奈に尋ねる。

 本当に回りが何も見えていなかったのだろうか。

 そうこうしているうちに、既にシャワーを終えたクラスメイトもいるようだ。

 勢い良く水中に飛び込む音が聞こえてくる。

「いや、特には。ただシャワーに行くってのが聞こえてなかったみたいだから気になっただけよ」

「あ、うん。ありがとう」

 麗奈が用件を伝えると、悠里はそう言って頭を下げる。

 彼女の礼儀正しさが伺える。

 それと同時に麗奈は照れ臭いような気持ちになって、居ても立ってもいられなくなった。

「礼を言われるようなことじゃないわよ。ほら、シャワー行くわよ!」

 意識することなく、照れ隠しでもするかのように、彼女は踵を返してシャワー室へと早足で歩き出した。

 麗奈は幼い頃から軍人の娘としての教育を受けてきており、周囲から褒められることこそあれど、礼を言われるようなことは無かった為だ。

(同級生にそんなことを言われるのは初めてね)

 慌てた様子で付いてくる悠里の様子をちらちらと伺いつつ、麗奈は自身の過去を振り返った。

(いや、二回目だったっけ?)

 そこでふと思い出したことがあって、彼女は足を止め、プールの向こう側で腕立て伏せをしているクラスメイトの一人へと目を遣った。

 確か彼女にも、父親を見送りに行った時に感謝されたような記憶がある。

「伊藤さん、あの三人が気になる? もしかしてあの中に混じりたい?」

「はっ!? あんた何言って?」

 不意に追いついてきた悠里に心理を見抜かれたようで、素っ頓狂な声を上げてしまった麗奈。

「目当ては森本さん? 日野さん?」

「いや、そうじゃなくて……」

 慌てて取り繕おうとするものの、畳みかけるような悠里の質問攻めに押し切られてしまう。

「それとも小林さん?」

「だから違うって言ってるでしょおおおお!! あ……」

 図星を突かれた麗奈は、つい向きになって否定してしまう。

 それが逆に肯定を意味することになると気付いた時にはもう遅かった。

「ふふ……伊藤さんって意外と分かりやすい」

 小さく笑ってから、悠里は再びシャワー室へと歩き出した。

「心配しないで。今のことは黙っててあげるから」

 顔を真っ赤にして否定し続ける麗奈を尻目に、それだけを言い残して。

 ふと辺りを見回してみれば、麗奈と悠里、そして遅れて準備体操を始めた例の三人以外は全員シャワーを済ませてプールの中に入ってしまっていた。

 自分も遅れまいと、麗奈は急いでシャワー室に向かった悠里の後を追った。

 駆け出す間際に、もう一度だけ三人組の方を一瞥してから。

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