妹を選ぶと婚約破棄を予約された殿下に、今度は延期してほしいと泣きつかれました
「アナシア。君との婚約を破棄する」
「え……婚約を、破棄なさるのですか?」
とても、冗談を言っているようには見えない顔だった。
隣には、妹のヴィオラが立っている。
ヴィオラはアナシアと目が合うと、すぐに視線を逸らした。
「私はこのヴィオラを愛している。これからは彼女と共に生きたい」
「……そう、ですか……」
胸の奥が、冷たく沈んだ。
アナシアとコンラッド王太子は幼い頃から婚約しており、いつか結婚することがアナシアにとって当然の未来だったからだ。
「私が誰を選ぶかは私が決めること。異論はなかろう」
「……」
アナシアは殿下を見つめた。
悲しくないと言えば嘘になる。それでも、殿下が自分で決めたことなら。
「仕方ありません……」
「分かってくれるな?」
「承知しました」
俯くアナシアを見下ろし、隠すようにヴィオラが小さく笑う。
「これで、殿下と一緒にいられますわね」
顔を上げると、見せつけるかのように、コンラッドの腕に自分から寄り添うヴィオラと目が合った。
「それからーー」
遮ったのはコンラッド。
「正式な婚約破棄は一か月後とする」
「一か月後……?」
「ああ。両家への通達や王家での手続きがあるのでな」
「……分かりました」
「それまでは、これまで通り婚約者として公務はしっかりとこなしてくれ」
婚約破棄。その決定をした人物が、アナシアには今まで通り婚約者として働けと言う。
けれど。
「承知しました」
アナシアはそう言うしかなかった。
コンラッドは無言で満足そうに笑う。
その隣で、ヴィオラもまた笑った。
今度は隠そうともせずに。
翌日の王宮にて、執務室へ入るなりアナシアはコンラッドから大量の書類を渡された。
「これを。今日中にな」
「かなりの量……ですが……」
「明日の会議に必要なのだ。急げ」
「承知しました」
アナシアの顔も見ずにそう告げると、コンラッドは隣にいるヴィオラへ振り返った。
「今日はどうする?」
「わたくしは殿下と一緒にいたいです」
「ふふ、私もだ。ヴィオラ、今日は公務に出なくていいからな」
その言葉に、アナシアが反応した。
「殿下」
「なんだ」
「ヴィオラを本日の公務に参加させないおつもりですか?」
「ああ。彼女には負担が大きい、そう判断した。何か問題か?」
「ですが、私はこれまで――」
「アナシア」
コンラッドが言葉を遮った。
「君とヴィオラを一緒にするな」
アナシアは、心の中でため息をついた。
何を見せられているのだろう……と。
婚約破棄を予告されているこちらには、いつもと変わらない業務を押しつけておいて。
「……申し訳ありません」
けれどアナシアは、なんとかそんな気持ちを押し殺した。
書類を抱え直し、頭を下げる。
「ふふ」
笑顔のヴィオラが、アナシアの横を通り過ぎた。吐息ほどの小さな声を漏らしながら。
「惨めですわね」
アナシアは思わず振り返る。しかし、ヴィオラはもうコンラッドの隣にいた。
「殿下、今日はどこへ行きましょう?」
「そうだな。君はどこがいい。君の好きなところへ行こうじゃないか」
「……失礼いたします」
二人の声を背中で聞きながら、アナシアは執務室へと向かう。
婚約者でなくなる自分には、婚約者だった頃と同じ仕事量が残されているというのに。
そしてなくなったものといえば、コンラッドの隣にいる権利だけ。
『惨めですわね』
いつまでも、アナシアの耳に張り付いて離れなかった。
ある日の夜会。
コンラッドは当然のようにヴィオラを自分の隣へ座らせ、アナシアを少し離れた席へ案内させた。
「まあ、ヴィオラ様が殿下のお隣に……」
近くの令嬢たちの声が聞こえてくる。
「まるで次の王太子妃のようですわね」
「まだ婚約破棄前なのに」
(まだ、婚約破棄前……)
それなのに、自分の婚約者は、別の女性を未来の妃のように扱っている。
(滑稽、よね)
それを離れた席から眺めることしかできない自分は、もっと滑稽に映っていることだろう。アナシアは嘲るように俯いた。
もう何も、見たくなかったのだ。
「お姉様」
帰ろうとしたアナシアをヴィオラが呼び止めた。
「……何かしら?」
「どうして、あんな顔をされていたのですか?」
「え?」
「わたくしが殿下のお隣にいるのがそんなに嫌なのですか?」
ヴィオラはアナシアを覗き込むように見る。
アナシアは咄嗟に顔を離した。
「誰が殿下の隣にいるか、私が決めることではないでしょう」
「でもお姉様は、今はまだ婚約者ですわよね? もうすぐ違う人になる運命ですけれど」
「……そうね」
「可哀想なお姉様。あら、そんなに睨まないでください」
「睨んでなんかいないわ」
無理があったが、これが精一杯だった。
「そうですか? それなら良かったです」
ヴィオラは何事もなく笑う。そこへコンラッドがやって来た。
「ヴィオラ。こんなところにいたのか」
ヴィオラは見せつけるように、すぐにコンラッドの腕へ手を添えた。
「殿下。お姉様が、私に怒っていらっしゃるみたいです」
「アナシア」
コンラッドの声が低くなる。
「何を言った?」
「何も言っておりません」
「ヴィオラを傷つけるようなことはするな。そう忠告しておいたはずだが?」
「……」
「君と彼女を一緒にするなとも言ったはずだ。君にそのつもりがなくても、彼女は傷つく」
もう、何を言っても同じだと感じた。
ヴィオラが傷ついたと言えば、すべてアナシアが悪い。
「……申し訳ありません」
「分かればいい」
コンラッドは満足したように頷く。
その後ろで、アナシアにだけ見える角度でヴィオラが微笑んだ。
それからのアナシアは、コンラッドにもヴィオラにも、もう必要なことしか話さなくなった。
それでも、仕事は減らない。
むしろ増えた。
「この報告書も頼む」
「こちらも今日中に」
「明日の視察の準備は?」
一つずつ受け取り、順に処理していく。
「整っております」
「そうか」
婚約者としての仕事はあるが、そこに婚約者としての扱いはない。
「明日の地方視察だが、君も同行してくれ」
「承知しました」
「それから、ヴィオラも連れていく」
(……)
アナシアは返事も忘れて殿下を見る。
「ヴィオラの護衛や移動の手配も怠るな」
「……承知しました」
「ヴィオラ。明日は私と一緒に地方へ行こう」
「本当ですか? 嬉しいです!」
アナシアはそんな二人を横目に、視察の予定表を開いた。
ヴィオラが言う『惨めな』気持ちが増幅する。
婚約者のコンラッドと妹のヴィオラが楽しむ、地方視察という名の遠方旅行。
それを準備する婚約者のアナシア。
(最低、ね……)
それでもコンラッドにとっては、それでいいらしい。
やがて王宮の人々も、アナシアに向ける視線が少しずつ変わっていった。
これまでなら、皆のアナシアを見る目にはもっとはっきりとした敬意があったのだが。
「……アナシア様」
今では、どこか探るような目と声でそう呼ぶ。
正式な婚約破棄はまだ先の話。
まだ自分はコンラッドの婚約者のはずなのに。
そんな風に考えていた自分にも、いつからか虫酸が走るようになっていた。
殿下の隣にはヴィオラがいる。
公務ではアナシアが働き、社交の場ではヴィオラが殿下の隣に立つ。
その歪な状態が、もはや周囲にとっても当たり前になっていた。
(もう、やめにしましょう)
変に期待することを。
もう一度、コンラッドが自分を見ることを、アナシアは諦めた。
もはや彼が自分を選び直すことなんてあり得ない。
だからもう、アナシアは期待することをやめた。
(どうせ……一か月後にはすべて終わるのだから)
それだけを待つ。 それでいい。
一か月が経った。
今日はコンラッドとアナシアの正式な婚約破棄の日だ。
アナシアは、自分の手続きに必要な書類を自分で揃えてから王宮へ向かった。
もう、そんな些細なことは気にしない。
(これで最後だものね)
そう思っていたからだ。
ところがーー
「アナシア!」
廊下の向こうから、すでに王宮にいるはずのコンラッドがこちらに駆けてくる。
息を切らしていて、どこか顔色も悪い。
「……どうなさったのですか?」
アナシアの言葉には応えず、コンラッドは立ち止まったまま膝に手を置いて、しばらく黙った。
「殿下?」
「アナシア。今日の婚約破棄だが……」
「はい」
「延期してほしい」
「……え?」
顔だけを上げて放たれたその一言を、アナシアは何度も反芻する。
理解が追いつくまで。
言葉の意味が分かるまで。
「……延期?」
だがどう考えても分からず、口に出した。
コンラッドは、膝から手を放して姿勢を戻してから改めて頭を下げる。
「いや、違う」
「……違う?」
「延期ではなく、婚約破棄を撤回してほしい」
一か月前、彼は言った。
自分が誰を選ぶかは、自分で決めることと。
「理由をお聞かせください」
アナシアの問いかけに、コンラッドは顔を上げながら答えた。
「国王から告げられたのだ。君との婚約を正式に破棄すれば、私は王太子の地位を失うと」
「……なぜ?」
「君の父上が王家への支援を取り下げるそうだ。国王は、公爵家令嬢である君との婚約を自分の意思だけで破棄しようとした私を、王太子として認めることはできないと……」
殿下の顔がみるみる歪む。
「国王は、私が本当に婚約を破棄するとは思っていなかったらしい」
「……」
「だから、頼む!」
コンラッドが一歩近づく。
アナシアは同じ分だけ離れた。
「婚約破棄を、撤回させてくれ!」
「……妹はどうするのです? 妹も同じヴァレンチノ公爵家です。私との婚約破棄はさておき、妹と婚姻されるのでしたら公爵家との破談にはならないと思うのですが」
「勝手に……決めたことが問題のようだ」
「まあ、それはそうでしょうね」
「アナシア、頼む! 君なら分かってくれるだろう? 私の婚約者である君なら!」
不思議だった。
一か月前、アナシアの気持ちなど考えずに妹のヴィオラを選んだ婚約者。
アナシアに拒む権利すら与えなかったその男が、今、目の前で自分に理解を求めている。
「コンラッド殿下」
「分かってくれるか」
「殿下は、誰を選ぶかはご自身で決めること。そうおっしゃいました」
「あ、ああ……」
「そして結果、ヴィオラをお選びになった」
「アナシア、あれは――」
アナシアは微笑んだ。
「殿下。誰をお側に置かれようと、殿下の自由です。けれど、私にも自由がございます」
「アナシア、待ってくれ! 私はもう一度、君との婚約を復活させたいと言っているんだ!」
「そう願うのは殿下の自由です」
「だったらーー」
「ですが」
アナシアはコンラッドの言葉を遮った。
「私がもう一度殿下と婚約するかどうか、決めるのは私の自由でしょ?」
コンラッドは言葉を失う。
「一か月前、殿下はご自分でお決めになり、私はその決定を受け入れました」
「……」
「ですから、今度は私が決めさせていただきます」
コンラッドの顔は見えない。見えないから、はっきりと言えた。
「婚約破棄は、予定通りお願いいたします」
「アナシア……」
「失礼します」
アナシアは深く頭を下げた。
「どうぞ、最後までご自分の選択を貫いてください」
その日のうちに予定されていた手続きは順序よく進められ、アナシアとコンラッド殿下の婚約は正式に破棄された。
同時に、国王陛下の宣言通り、コンラッドは王太子の地位を失うこととなる。
「そ、そんな……!」
ヴィオラに鞍替えするなどといった主張は当然聞き入れられず、身勝手にアナシアとの婚姻を破棄した結果だった。
そして王太子でなくなったコンラッドとヴィオラとの婚姻も、当然、王家の縁談として認められることはなかった。
コンラッドが選んだヴィオラは王太子妃になることも、王家に迎えられることもなく、今回の婚約を掻き回した要因として、王家と公爵家双方から処分を受けた。
アナシアは、胸がすくような感覚ではなかったが、だからといって、それを悲しいとも思わなかった。
帰りの馬車の中で、アナシアは窓の外を眺めた。
思い返せば、今までずっと、決められた未来を歩いてきた気がした。
王太子コンラッドとの結婚。
自分は王太子妃となり、やがて王妃になる。
それが自分の未来だと思っていた。
けれど、今は違う。
コンラッドに選ばれなかったからこそ、これからは自分自身が選べる未来を手にできた。
どこへ行くのか。何をするのか。
そして、これからどんな人生を歩むのか。
それを決めるのは他の誰でもない、アナシア自身なのだから。
「……さようなら」
ヴィオラに。コンラッドに。
そして見慣れた王宮に別れを告げたアナシアは、カーテンをそっと閉めて目を閉じた。




