元詐欺師の来店・笠木原慎之介の絶望とほっこり飯
深夜、狭いアパートの一室で、笠木原慎之介はスマートフォンの画面を食い入るように見つめていた。青白い光が、かつての面影もないほどに痩せこけ、険しくなった男の顔を不気味に照らし出す。
「……嘘だろ。また消されてる」
慎之介が震える指で更新ボタンを押すたび、画面には無情な文字列がならぶ。かつて数千人のフォロワーを抱え、札束の写真をアップしては「自由な人生を謳歌する成功者」を演じていたSNSアカウントは凍結されていた。さらに自分の本名を検索窓に打ち込めば、上位を支配するのは告発サイトやまとめブログの数々だ。
『【速報】悪徳コンサル・笠木原慎之介の正体はねずみ講の親玉だった!』
『被害者の会結成。笠木原に騙し取られた金を取り戻せ』
『慎之介の嘘を暴く!実績捏造の証拠を公開』
かつては「情弱」と蔑んでいた人々が、今や一致団結して慎之介を社会から抹殺しようとしていた。
「くそっ、どいつもこいつも! 俺が稼がせてやった奴だっているはずだろ!」
慎之介はスマートフォンを畳に投げつけた。
IT企業に勤めていた頃、副業のアフィリエイトで月収100万円を超えたのが狂いの始まりだった。それを「教える」ビジネスに転換した途端、金が川のように流れ込んできた。タワーマンションの最上階でシャンパンを開け、高級腕時計をこれ見よがしに自慢する。
だが、金を持てば持つほど、彼の「中身」は空っぽになっていった。
次第に最新の技術を学ぶ努力を怠り、かつての手法を使い回すだけの詐欺まがいのコンサルティング。コンサルタントとしての仕事もどんどん適当になっていき、金をとるまでは丁寧だが、一度金をとってしまえば態度は急変した。受講生が困り果てて相談してきても、彼は冷酷に突き放す。
「お前が稼げなくても俺は困らないし関係ないから。努力が足りないんじゃないの?」
そんな冷淡な言葉を吐き捨てながら、裏では実体のない投資話――ねずみ講に手を染め、さらに金をかき集めた。だが、デジタルタトゥーは一度刻まれれば消えない。彼の悪名はインターネットの隅々まで行き渡り、会社は倒産。資産は差し押さえられ、煌びやかな人脈も、蜘蛛の子を散らすように消え去った。
今や彼は、コンビニの深夜バイトで糊口を凌ぐ、40代後半の惨めな男だ。
店で接客をしていても、客の顔がかつて自分が騙した誰かに見えて、背筋が凍る。
「……ああ、腹が減ったな」
慎之介は重い腰を上げ、アパートを出た。
手元には、コンビニのレジ袋。中身は廃棄寸前の冷え切った弁当だ。
「なんで俺が……あんな高級レストランでフォアグラを食ってた俺が、こんなもんを……」
虚しさが込み上げ、慎之介は夜の街を当てもなく歩き始めた。煌々と光る繁華街のネオンが、今の自分を嘲笑っているように感じる。
「……寒いな」
ヒュルルル……。
冷たい夜風が通り抜け、慎之介は首をすくめた。
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翌日、深夜。出勤した慎之介を待っていたのは、冷え切った空気だった。
店に入るなり、20代半ばの年下の店長に「ちょっといいかな、慎之介さん」と呼び出され、狭苦しい事務所へ連れて行かれる。
店長は、いつになく神妙な面持ちでパイプ椅子に腰掛けていた。
「……なあ、これって慎之介さんだよな?」
差し出されたスマートフォンの画面。慎之介は心臓が跳ね上がるのを感じた。
そこには、かつてタワーマンションのベランダで不遜な笑みを浮かべていた自分の顔写真と、本名がデカデカと踊っている。その下には『悪徳コンサル・笠木原慎之介の正体』『ねずみ講詐欺の全貌』といった文字が、執念深くつらつらと書き連ねられていた。
「あ……。あ、それは……」
慎之介の顔から急速に血の気が引き、視界が真っ青に染まる。言い訳の言葉を探そうとしたが、喉の奥が引き攣って音にならない。
「あのさあ」
店長は深くため息をつき、画面を指で叩いた。
「ご丁寧に顔写真までこうしてあると……ほら、お客さんからも本社からも『詐欺師を雇ってる店』とか、言われたかないんだよね。……わかるでしょ?」
「やめてくれ」という直接的な言葉はなかった。だが、その目は明らかに慎之介を「不浄なもの」として見ていた。
金をとるまでは丁寧で優しそうな対応、しかし金をとってからは「お前が稼げなくても俺は困らない」と突き放してきた報いが、今、最も惨めな形で自分に返ってきたのだ。
慎之介は、やっとの思いで見つけた深夜バイトという唯一の命綱すら、その場で失ってしまった。
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店を追い出され、深夜の冷たい風に吹かれながら慎之介は歩いた。
街灯の光がアスファルトを白く照らす中、彼はただ、自分の情けなさに耐えることしかできなかった。
足が勝手に動くまま、ふらりと道を外れる。気がつけば、彼は見覚えのない停留所から発車しようとしていた深夜バスに、吸い込まれるように乗り込んでいた。
ゴトゴトという振動と、低いエンジン音だけが車内に響く。
窓の外を流れる暗い景色を眺めながら、慎之介は震える声で呟いた。
「……あれ、俺、いつの間に深夜バスなんかに乗ってんだろう……」
呟いた瞬間、抑えていた感情が堰を切ったように溢れ出した。40代後半にもなって、帰る場所も、行く当てもない。
頬を伝う涙がポロポロとあふれ出し、手の甲に落ちていく。
「……っ、あの時……調子に乗って、『貧乏人達と一緒にいたらオレの価値まで下がっちまう』とか言って……勤めてた会社を辞めてなければ……。あんな、あんな天狗にならなきゃ……っ」
かつて自分が吐いた傲慢な言葉の一つひとつが、鋭い刃となって胸を刺す。IT企業で真面目に働いていた頃の自分を、自分の手で殺してしまった。
どれほど泣いても、インターネットに刻まれた「詐欺師」という刺青は消えない。デジタルタトゥーが、彼の人生をじわじわと侵食していく。
プシューッ……。
無機質な音を立ててバスの扉が開いた。そこがどこなのかも分からないまま、慎之介はふらふらとバスを降りた。
周囲には民家もなく、街灯もまばらな寂しい道だった。都会の喧騒はもう聞こえない。
慎之介はあてもなく、知らない場所を彷徨い始める。
ザッ、ザッ……。
自分の足音だけが夜の闇に響く。
ふと、どこからか、微かに良い香りが漂ってきた。
醤油の香ばしい匂い。そして、何かを揚げる小気味良い音。
霧が立ち込める路地の先、ぼんやりとした温かな光が、絶望に震える慎之介の背中を誘うように揺れていた。
「……あ、あそこは……?」
そこは、人間と怪異の両方に開かれた「摩訶不思議食堂」 。
自身の存在に、あるいは人生に迷った者がふらりと立ち寄る、奇妙で温かな場所だった 。
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深い霧の向こう側、吸い寄せられるように歩を進めた慎之介の目に、古風な建物の影が映り込んだ。
「……なんだ、ここ。『摩訶不思議食堂』?」
慎之介は足を止め、怪訝そうに首をかしげた。都会の片隅に、これほど重厚で立派な構えの店があっただろうか。
綺麗に磨かれた木材で造られたその佇まいは、食堂というよりも高級な和風レストランのようで、見ているだけで自然と居住まいを正されるような不思議な威厳に満ちている。
ふと、慎之介の脳裏に、今は亡き母親の記憶が掠めた。
「そういえば……昔、母さんと一緒に入った店のものが美味かったから、『作ってくれ』って頼んでから、いつもしんどい時には食べさせてくれたものがあったっけ……」
成功と強欲に溺れ、とうに忘れていたはずの幼い記憶。温かな湯気の向こうで笑っていた母の顔が、絶望に冷え切った今の慎之介の胸を微かに震わせる。
吸い込まれるように、慎之介の足は食堂の入り口へと向かっていた。
ガラガラガラ……。
引き戸を開けた瞬間、独特の活気が彼を包み込んだ。
「えらいこっちゃな御客さん、御一名さんや!」
出迎えたのは、銀髪の長い髪にベレー帽を被り、黒いセーラー服の上から真っ白な割烹着を纏った、奇妙な風貌の女の子だった。
まん丸の目と台形のような口が印象的な彼女は、驚いたように声を張り上げる。
呆気に取られる慎之介の視線の先、奥のカウンターから、さらに信じられない光景が飛び込んできた。
「おいでやす。好きなお席へお座りくださいまし。えらいこっちゃん、御絞りお願いしますね」
ひょっこりと顔を出したのは、お地蔵さんのような――いや、紛れもなく「お地蔵さん」そのものの店長だった。
彼は作務衣に割烹着という姿で、菩薩のような慈愛に満ちた笑顔を浮かべている。
「ほな、お座りやす。えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」
えらいこっちゃんと呼ばれた少女は、賑やかに呟きながら奥へと消え、すぐにおしぼりを持って戻ってきた。
慎之介は戸惑いながらもカウンター席に腰を下ろし、差し出されたおしぼりを受け取る。
「……有難う」
慎之介の口から、無意識にその言葉が漏れた。
えらいこっちゃ嬢は、ぱっと目を輝かせて言った。
「えらいこっちゃ! お礼言わはったわ。見込みあるで、えらいこっちゃ!」
彼女は満足げに頷くと、また忙しなくホールの接客へと戻っていく。 残された慎之介に、地蔵店長は細い目をさらに細めて微笑みかけた。
「こちらこそ、お越し下さり有難う御座います。感謝の気持ちをお持ちであられる御客様……」
「あ……」
慎之介は言葉を失った。温かいおしぼりで手を拭きながら、彼は自分の内に湧き上がった奇妙な違和感の正体に、初めて気が付く。
(……俺、ちゃんとお礼言うのって、いつ以来だっけ……?)
金をとるまでは丁寧に取り繕い、ひとたび手に入れば「お前がどうなろうと知ったことか」と突き放してきた傲慢な日々。誰かに頭を下げることも、心から感謝を伝えることも、いつの間にか忘れてしまっていた。
コンビニバイトでは、マニュアルだから口先だけの「有難う」なら数えきれないほど言ってきた。
そんな自分が、この奇妙な食堂の、奇妙な店員の前で、ごく自然に「有難う」と口にしていたのだ。
地蔵店長のニコニコとした笑顔が、慎之介の荒みきった心を静かに、ゆっくりと解きほぐしていくようだった。
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カウンターに座りなおし、温かいおしぼりの熱を掌に感じながら、慎之介は呆然と自問自答を繰り返していた。
「有難う」という、たった四文字の言葉。
それを心から口にしたのがいつだったのか、記憶の糸をどれほど手繰り寄せても思い出せない。
金がすべてだった。
金を巻き上げる相手は「顧客」ではなく「獲物」であり、頭を下げるのは金を吐き出させるための芝居に過ぎなかった。
いつしかきちんと「御客様」「クライアント」として見る事は無く、葱をしょったカモが教えを請いに来たおめでたい金ヅルで、何時しか御客様を「コンサル生」とか「受講生」等とお金を出してくれた大切な御客様と観ることが無くなり、偉そうに見下していた日々。
そんな自分に、地蔵店長は菩薩のような穏やかな眼差しを向け続けている。
「さて、お客様。お腹も相当に空いておられるご様子。今宵は何を召し上がられますかな?」
地蔵店長の声は、まるで古寺の鐘の音のように深く、慎之介の胸の奥底にまで響き渡った。
慎之介は、乾いた喉を鳴らし、掠れた声で呟いた。
「……カツ丼。カツ丼を、一つ頼めるか」
それは、かつて彼が母にせがんで作って貰ったのに、いつしか「貧乏人の食い物だ」と馬鹿にし、高級レストランのコース料理の陰に追いやってきた食べ物だった。
しかし、かつてIT企業の激務でボロボロになり、心を病みかけていた時、田舎の母が「慎ちゃん、これ食べて元気出しなさい」と作ってくれたのが、揚げたてのカツを甘辛い出汁で綴じたカツ丼だったのだ。
地蔵店長は、その言葉を待っていたかのように、力強く頷いた。
「承知いたしました。揚げ物は、うちのラビさんの得意中の得意でございます。わんぞうさんも、最高の出汁を用意してくれますよ」
「ラビさん……? わんぞうさん……?」
慎之介が目を瞬かせると、厨房の奥から「シュッ」と包丁を研ぐような鋭い音が響いた。
そこには、白い割烹着を着た大きな兎と、豪快な笑顔を浮かべた犬の姿があった。
「えらいこっちゃ! ラビさんの揚げ物と、わんぞうさんの出汁のコンビネーションや! これはえらい美味いもんができるで、えらいこっちゃ!」
えらいこっちゃ嬢がベレー帽を揺らしながら、期待に胸を膨らませて跳ね回る。
慎之介は、目の前で繰り広げられる「怪異」たちの調理風景に圧倒されながらも、漂ってくる出汁の香りに、久しぶりに「空腹」という生きた感覚を思い出していた。
トントン、トントン!
ラビさんがまな板の上で肉を叩く小気味よい音が店内に鳴り響く。
続いて、わんぞうさんが大きな鍋を火にかけ、削りたての鰹節を惜しみなく投入した。
立ち上る湯気と共に、醤油と味醂の甘辛い、どこか懐かしい香りが慎之介の鼻腔をくすぐる。
かつて彼が「金持ちのステータス」として食べていた冷徹な高級料理とは違う、体温の通った「食」の匂いだ。
ジュワーッ! パチパチパチ!
激しく爆ぜる油の音が店内の静寂を塗り替えていく。
ラビさんが絶妙なタイミングで揚げたてのカツを引き上げると、ザクッ、ザクッ、と衣を断つ官能的な音が耳を打った。
わんぞうさんが黄金色の出汁で玉ねぎを煮、そこにカツを並べて、手際よく卵を回し入れる。
半熟の卵がカツを優しく包み込むその光景は、見てるだけで慎之介の凍えた心を解きほぐしていくようだった。
「お待たせいたしました。摩訶不思議食堂特製、思い出のカツ丼でございます」
地蔵店長の手によって、重厚な漆黒の丼がカウンターに置かれた。
蓋を開けた瞬間、溢れ出した真っ白な湯気が、慎之介の視界を優しく包み込んだ。
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湯気の向こうに鎮座する、黄金色に輝くかつ丼。
慎之介は震える手で割り箸を割り、その熱い一切れを口へと運んだ。
サクッ、と衣が弾ける音と共に、じゅわっと溢れ出す肉汁と甘辛い出汁の風味。
その瞬間、慎之介の全身を激しい衝撃が貫いた。
「!?……この味……どう、して……」
噛み締めるほどに、鼻の奥がツンと痛み、視界が滲んでいく。
かつて自分を救ってくれた、あの優しくて温かい、記憶のままの風味が口いっぱいに広がった。
「母さんの、味だ……母さんのかつ丼だ!」
慎之介は叫ぶように呟くと、なりふり構わず丼にかじりついた。
ガツガツと、一心不乱に米を掻き込み、カツを頬張る。
喉を通り抜ける熱さが、氷のように冷え切っていた彼の五臓六腑をじりじりと溶かしていった。
やがて、空になった丼を静かに見つめて、慎之介は深く頭を下げた。
「……御馳走様でした」
自然と合わせた両手。
その指先には、失っていたはずの温もりが戻っていた。
「御粗末様でした」
地蔵店長は、すべてを包み込むようなニコニコとした笑顔で応えた。
そこへ、えらいこっちゃ嬢が「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」と呟きながら、冷たい水の入ったコップを置いてくれた。
慎之介は淀みなく言葉を紡ぐ。
「有難う」
水を一口飲み、喉を潤した彼は、不思議でたまらないといった様子で店長を見つめた。
「……美味かった。懐かしい味で……どうして、この味を出せたんですか?」
慎之介の問いに、地蔵店長は菩薩のような穏やかな微笑みを絶やさぬまま答えた。
「今、あなたに最も必要な一品で御もてなしさせて頂く事になり切っただけで御座います」
すると、厨房の奥からひょっこりと、赤い着物に割烹着を着た大きな兎が顔を出した。
「うわ、本物の兎だ!」
驚きに目を剥く慎之介に対し、兎は愛らしく目を細めて会釈をした。
「私はラビと申します。御客様が一番食べたい揚げ加減にさせて貰いましたんよねえ」
さらにその横から、今度は大きな犬がひょっこりと顔を覗かせる。
「ワシはわんぞうっていいます。御客様が一番食べたい出汁の味にさせて貰いましたんや」
わんぞうは豪快に笑い、自慢の鼻をひくつかせた。
慎之介は、目の前の不思議な料理人たちを交互に見つめ、呆然としている。
地蔵店長は、静かに言葉を継いだ。
「私達はそれぞれ、ただあなたを御もてなしする事そのものになり切りました。仏教では『三昧』と言います」
「仏教の話はよくわからないや」
慎之介は、少しだけ照れくさそうに、けれど清々しい表情で短く笑った。
詐欺に手を染め、天狗になっていた頃の険しい人相は、今はもうどこにもなかった。
「まあ、仏教の事はよくわかんないけど……久しぶりに、母さんのかつ丼に出会えた気がした。有難う」
慎之介は深く、深く頭を下げた。
その言葉には、虚飾も打算も一切含まれていない、心からの感謝が宿っていた。
地蔵店長は、頭を下げる慎之介の姿を眩しそうに見つめながら、静かに語りかけた。
「仏さまの教えがわからなくとも、あなたは今、『三昧』であられました」
「え? 俺が?」
慎之介は顔を上げ、意外な言葉に目を丸くした。
地蔵店長は、その驚きを優しく包み込むように言葉を継いだ。
「今、確かにかつ丼を、かつ丼を食べる事だけに集中されていました。まさに、かつ丼を食べることになり切っていらっしゃいました」
穏やかな声が、慎之介の胸の奥にゆっくりと染み渡っていく。
地蔵店長は、さらにニコニコと微笑みながら問いかけた。
「その時、今抱えている『苦』を感じていらっしゃいましたかな?」
「あ……」
慎之介は、雷に打たれたような衝撃と共に、ある事実に気づかされた。
かつての自分はどうだったか。
高級レストランの華美な外装や内装に目を奪われ、運ばれてきた豪華な料理を写真に収めることに必死だった。
SNSで自慢し、他人からの羨望を浴びることに忙しく、食べ物をしっかりと味わったのは一体いつ以来だろうか。
そして転落してからは、冷え切った弁当を前に悪態をつき、スマートフォンで自分のデジタルタトゥーを眺め、呪詛を吐きながら食事をしていた。
いつの間にか中身はなくなっており、何を食べていたのか、どんな味がしたのかすら覚えていない。
そんな時は、「いいね」の数が少ないと苦々しい顔になり、転落後の食事では自分を責める書き込みを見ては「苦」を感じていたものだった。
そんな日々の中で、今、この瞬間だけは、目の前の一杯にすべてを捧げていた。
「俺、ちゃんと何かを味わって食べたのって、本当に久々だ……」
慎之介は愕然とした。
自分の人生をこれほどまでに疎かにし、今という時間を蔑ろにしてきたことに、初めて恐怖に近い感情を抱いた。
「その事に気づかれただけでも、有難き御縁で御座います」
地蔵店長は、すべてを肯定するように、お地蔵さん笑顔を深めた。
その底知れない優しさに、慎之介の頑なだった心から、最後の一枚の壁が剥がれ落ちた。
「……俺の話、聞いてくれますか?」
慎之介は、消え入りそうな声でぽつりと呟いた。
これまで誰にも言えず、誰にも理解されず、ただ攻撃されるだけだった自分の内面。
地蔵店長は、迷うことなく力強く頷いた。
「私で良ければ。あ、私はこちらの店長をさせて頂いております、地蔵です。皆さんは地蔵店長と呼んでくださいます」
地蔵店長はニコニコと名乗り、慎之介が言葉を紡ぎ出すのを、いつまでも待つという風情でそこに佇んでいた。
慎之介は、乾いた唇を震わせた。
自分の傲慢さが招いた転落、人を騙し、嘲笑ってきた醜い過去。
そして、今もなお自分を縛り付けている「詐欺師」という刻印。
彼は、せき止めていたダムが決壊したかのように、今までの自分のことをゆっくりと語り始めた。
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慎之介は、絞り出すような声で自らの半生を語り始めた。
有名私立大学を卒業し、都内のITコンサルタント会社に就職した輝かしい日々。
10数年前、副業で成果を出したことをきっかけに一気にお金を稼ぎ、そこからすべてが狂い始めたこと。
「……当時は、自分が世界の中心にいるような気分だった。でも、何時の間にか傲慢になっていたんだ。今更、そんな当たり前のことに気づくなんてな」
金が積み上がるのと反比例するように、人としての誠実さを失っていった。
ついには実体のない不動産投資話から、ねずみ講にまで手を出し、破滅は一気に加速した。
インターネットの海で散々叩かれ、仕事は破綻し、自ら立ち上げた会社も倒産に追い込まれた。
逃げるように故郷へ帰り、震える体で母親にすべてを打ち明けた夜のことを、慎之介は昨日のことのように思い出した。
「母さんは、責めもしなかった。ただ、今日食べたようなかつ丼を作ってくれて……『これ食べて元気だしな』って、笑って励ましてくれたんだ」
やっとの思いで見つけた深夜のコンビニバイト。
それで何とか生活を立て直し、母を安心させた矢先、彼女は老衰で静かにこの世を去った。
それから数年。
デジタルタトゥーという消えない刺青は、10年経った今もなお彼を追い詰め、先ほど、唯一の居場所だったコンビニバイトすらも奪っていった。
すべてを洗いざらい話し終えた時、慎之介の頬を、熱い涙が止めどなく伝い落ちていた。
隣でじっと耳を傾けていたえらいこっちゃ嬢が、ぽつりと呟いた。
「……えらいこっちゃ」
その一言には、憐憫も嘲笑もなく、ただ重い事実を受け止める響きがあった。
慎之介は自嘲気味に口角を上げた。
「ああ。ほんと、えらいこっちゃな人生だよ。でも……俺に騙された人たちからすりゃ、もっとえらいこっちゃだったろうな。大事な財産を奪われたんだから」
自らの罪の重さを、かつ丼の熱さと共に噛み締める慎之介。
すると、えらいこっちゃ嬢は「よいしょ」と椅子の上に立ち上がり、慎之介の目線に合わせて手を伸ばした。
そして、子供をあやすように、優しくその頭をなでた。
「その事に気づいたあんさんは、えらいやっちゃ」
慎之介は、少女の小さくて温かい手のひらの感触に、再び涙を溢れさせた。
「……有難うな、御嬢ちゃん」
涙で視界が歪む中、絞り出した感謝の言葉に、彼女は台形の口を尖らせて応えた。
「ウチは、えらいこった嬢とか、えらいこっちゃんって呼ばれてる。えらいこっちゃ」
その可笑しな名乗りに、慎之介の胸に溜まっていた重苦しい澱が、ふわりと消えていくような気がした。
「あはは……有難うな、えらいこっちゃん」
慎之介は、心の底から、数年ぶりとなる本当の笑顔を浮かべた。
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慎之介は、地蔵店長をまっすぐに見つめ、震える声で尋ねた。
「地蔵店長、俺は罪深いですよね?」
その問いには、自らの過去を真っ向から受け止めようとする苦しみが滲んでいた。
地蔵店長は、その重みを否定することなく、静かに諭すように答えた。
「人々を騙した詐欺行為については、仏さまの教えである大切な戒め、五戒のうちの一つ『不妄語戒』にかかわる事で、その事によって人々から結果的にお金を奪い取った行為は、『不偸盗戒』にかかわる事です」
嘘を吐き、他人のものを盗んではならないという仏の戒め。
慎之介は、一つひとつの言葉を自らの心に刻みつけるように、深く深く聞き入った。
地蔵店長は、さらに穏やかな声で言葉を継いだ。
「そして、傲慢になられていた在り方は、仏教が戒める『慢』の煩悩です。当時は仏教的にも、宜しくなかったのでありましょうなあ」
その言葉は、慎之介がひた隠しにしてきた心の歪みを、慈悲の光で照らし出すようだった。
だが、地蔵店長はそこで言葉を止めず、一番伝えたかったことを告げる。
「そして今、あなたはその過ちや、戒めるべきことに御自身で気づかれました。ならば、もう、道は開けておりますよ」
お地蔵さん笑顔が、絶望の淵にいた慎之介の足元を明るく照らした。
地蔵店長は、未来への不安を抱える慎之介に、寄り添うように微笑んだ。
「勿論、人生は苦も多くありましょう。迷う事もありましょう。その時はまた、当店が店を開けてお待ちしております。また、かつ丼を召し上がりにお越しくださいまし」
その一言が、慎之介にとってどれほど救いになったか計り知れない。
「……有難う、地蔵店長、皆さん」
慎之介はゆっくりと立ち上がり、感謝を込めて深く頭を下げた。
ふと、慎之介は思い出したように口を開いた。
「あ、会計しないと」
財布を取り出そうとする彼に、地蔵店長はにっこりと微笑んで言った。
「御代は、お布施形式にしております」
慎之介は一瞬、戸惑いの表情を浮かべたが、自分の財布の中身を確かめ、恥じるように答えた。
「……じゃあ、今はこれだけしか出せないけど。バス代でかなり減っちゃったから」
彼はポケットから取り出した500円玉を、えらいこっちゃ嬢の手のひらへ、大切に預けた。
えらいこっちゃ嬢は、その硬貨をしっかりと受け取り、元気よく声を張り上げた。
「毎度あり! えらいこっちゃ!」
その明るい声に背中を押されるように、慎之介は決意を込めた瞳で店長を見つめた。
「必ず、良い報告が出来るようになって、きちんとお支払いできるようになって戻ってきます。本当に、有難う御座います」
もう一度深く頭を下げると、慎之介は力強い足取りで食堂の扉を開け、夜の冷気の中へと踏み出した。
背後から、地蔵店長の温かな声が追いかけてくる。
「御来店、誠に有難う御座います。元気な御姿での、またのお越しをお待ちしております」
地蔵店長は静かに合掌し、慎之介の背中が見えなくなるまで、その菩薩のような笑顔で見送り続けた。
夜の路地には、もう霧は立ち込めていなかった。
慎之介の歩む道の先には、夜明けを告げる微かな光が差し始めていた。
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食堂を後にした慎之介が最初に向かったのは、自分を解雇したあのコンビニだった。
深夜の事務所。
驚く年下の店長を前に、慎之介はかつてないほど深く、長く頭を下げた。
「接客が無理なのは分かっています。バックヤードでも、何でもいい。もう一度、働かせてください」
その必死な姿に、店長も最後には折れた。
店長の口利きもあり、慎之介は店舗への配送を担当する商品運送の仕事に就くことができた。
大型免許を活かし、夜から朝にかけてトラックを走らせる日々が始まった。
慎之介は心に固く誓っている。
何年、あるいは何十年かかってでも、連絡がつく限りの被害者にだまし取った金を返し、謝罪して回ることを。
ふと、深夜のハンドルを握りながら、慎之介はあの夜を思い出す。
あの日、無意識に乗った深夜バスは、もしかしたら死に場所を求めての逃避だったのかもしれない。
あるいは、見かねた亡き母が、あの不思議な店へと背中を押してくれたのかもしれない。
真実は誰にもわからない。
しかし、確かなことは、あの店で味わったカツ丼の熱さと出汁の香りが、死んでいたはずの自分の心を奮い立たせてくれたということだ。
慎之介には確信があった。
これから先、正しく生きようとしても、また迷いや苦しみが生じることもあるだろう。
どうしようもなく心が折れそうになった時、あの「摩訶不思議食堂」の提灯が、再び自分を導いてくれるはずだ、と。
今日も慎之介は、丁寧にトラックを運転し、各店舗へ品物を届けている。
休憩中、コンビニの駐車場で弁当を広げた彼は、まず静かに、そして深く合掌した。
「頂きます」
かつてはスマホを眺めながら蔑ろにしていた食事の時間。
今は違う。
一口一口を、その素材の味を、噛みしめるように味わって食べる。
その穏やかな表情には、かつての悪徳詐欺コンサルタントの面影は、もう微塵も残っていなかった。




