第8話 大傭兵隊長、ノルツベルク辺境伯領へ出陣す(元愛人参謀現る)
『ローデン歴 200年 7月15日 伯都アールヘン 居城 雨』
【傭兵隊長ヴァレンシュタイン視点】
冷たい雨が、城の窓を叩き続けていた。
俺がアールヘンに来てから初めての、本格的な長雨だ。湿気は古傷を痛ませる。俺は執務室の椅子に深く座り、不機嫌に天井を睨んでいた。
「……客だと? こんな雨の日に、物好きなヤツだ」
ニコラが案内してきた人物を見て、俺は思わず息を呑んだ。
濡れた旅装を脱ぎ捨て、優雅に執務室へ入ってきたのは、一人の美女だった。
燃えるような赤い髪に、全てを見透かすような冷徹な青い瞳。
「久しぶりね、ヴァレンシュタイン。……相変わらず、ムサ苦しい顔をしているわ」
「……イルゼか。イルゼ・フォン・リントブルム。お前が来るとはな」
俺が手紙を出した「悪友」とは、こいつのことだ。
かつて俺と同じ戦場で、別の傭兵団の参謀をしていた女。
『毒竜』の異名を持ち、その策謀で敵を地獄へ突き落とす、美しき劇薬。そして――俺の元愛人でもある。
イルゼは勝手知ったる様子でソファに座り、足を組んだ。
「手紙、読んだわよ。領地経営に行き詰まっている、助けてくれ……泣き言が書いてあったわね」
「泣き言じゃねぇ。人材登用だ」
「ふふっ、強がっちゃって」
彼女は意地悪く笑うと、懐から一通の書状と、重そうな革袋をテーブルにドンッ! と置いた。
「単刀直入に言うわ。仕事よ」
俺は眉をひそめた。
「仕事? 俺は今、領主だぞ」
「相手は、北の『ヴァルケンハルド帝国』よ」
その名を聞いた瞬間、俺の体から気だるさが消えた。
ヴァルケンハルド帝国。
北方の氷原と山岳を支配する、軍事強国。重装騎兵と豪腕の槍兵を擁し、我がローデンフェルト王国とは数十年ごとに戦争を繰り返す宿敵だ。
「場所は?」
「北西の国境、ノルツベルク辺境伯領。あそこが今、帝国の精鋭部隊に包囲されているわ。率いているのは、あの『白狼傭兵団』。団長はフリードリヒ・アイスナーよ」
「……白狼のフリードリヒか。また面倒なのが出てきやがった」
黒狼の俺と、白狼のフリードリヒ。戦場ではよく比較される因縁の相手だ。
「国王エルンスト三世陛下からの直々の依頼よ。『至急、ノルツベルクを救援せよ』とね」
「あの王か。また『名誉』だの『爵位』だので釣る気か?」
俺が鼻を鳴らすと、イルゼはテーブルの上の革袋を指差した。
「いいえ。今回は学習したみたいよ。……中を見て」
俺は革袋の紐を解いた。
中には、鈍く輝く黄金がぎっしりと詰まっていた。
「金貨五千枚。これは前金よ。成功報酬として、さらに五千枚。計一万枚が約束されているわ」
俺は、久しぶりに口の端を歪めた。獰猛な笑みが自然と浮かんでくる。
金がある。敵は最強の帝国。しかも因縁のライバル付きだ。
「……断る理由はないな」
「そうこなくっちゃ。私の『元』カレは、そうでなくちゃね」
イルゼが艶然と微笑み、立ち上がって俺に近づいてきた。
雨音だけが響く部屋で、かつての熱が蘇る。
言葉はいらなかった。
その夜、俺たちは激しく愛し合った。
互いの存在を確かめ合うように、獣のように貪り合う。戦場の緊張感とは違う、だが同じくらいヒリつくような熱が、冷えた体を焦がしていった。
不思議と、彼女相手だと俺の「力加減」は狂わなかった。彼女自身が、俺を受け止めるだけの強さを持っているからかもしれない。
――翌朝。
雨は上がり、空は嘘のように晴れ渡っていた。
俺は身支度を整え、イルゼと共に寝室を出た。
すると。
「はふぅ……はふぅ……っ!」
ドアの前で、メイドのリタがへなへなと座り込んでいた。
顔を真っ赤にし、なぜか全身汗だくで、荒い息を吐いている。
「……おい、リタ。朝から何をしている。病気か?」
俺が声をかけると、リタは潤んだ瞳で俺を見上げ、とんでもないことを口走った。
「こ、今度は……わたくしも呼んでほしいですぅ……! 壁越しじゃ……生殺しですぅ……」
「あ?」
何を言ってるんだコイツは?
俺は首を傾げたが、隣でイルゼが「あらあら」と楽しげに笑っている。
「さあ、行きましょう、隊長。千人の狼たちが待ってるわよ」
「……ああ、そうだな」
俺は理解不能なメイドをその場に残し、廊下を大股で歩き出した。
城の外には、すでに武装を整えた『黒狼隊』千人が整列している。
久しぶりの鎧。久しぶりの戦場の空気。
ニコラが、セインが、そして兵たちが、飢えた狼のような目で俺を待っていた。
「野郎ども! バイトは終わりだ! 本職に戻るぞ!」
「「「ウォォォォォォォォッ!!」」」
地鳴りのような雄叫びが、アールヘンの空気を震わせた。
目指すは北西、ノルツベルク辺境伯領。
相手は氷雪の帝国と、白き狼。
俺たち『黒狼隊』の、本当の戦いが始まろうとしていた。
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