第25話 大傭兵隊長ヴァレンシュタイン、貴族が嫌になる(ただし、アールヘン住民に止められ、誤解もとける)【完結】
『ローデン歴 201年 9月10日 伯都アールヘン 居城 夕暮れ』
【傭兵隊長ヴァレンシュタイン視点】
王女殿下の「気絶事件」から数刻後。
城の応接間は、氷河期のような冷たさと、火山のような怒気が入り混じっていた。
「き、貴様ぁぁぁ……! 我が国の至宝、シルヴィア殿下になんという屈辱を……!」
お付きのブルガス伯爵が、顔を真っ赤にして泡を飛ばしている。
その横で、着替えを済ませたシルヴィア王女は、顔を真っ赤にしてうつむいている。
俺は、深いため息をついた。
「だ・か・ら。俺は泣き止ませようと頭を撫でただけだ。他意はねぇ」
「嘘をつけ! 頭を撫でたくらいで、あのような……あのような倒れ方をするはずがないだろう!」
「それはそっちの姫様に聞いてくれ。俺の手は、たまに変な反応を引き起こすんだよ」
「言い訳無用! これは不敬罪だ! 貴族の位剥奪だけでは済まさんぞ! 極刑だ!」
ブルガスが喚き散らす。
俺は、もう何もかもが面倒くさくなった。
「……ああ、もういい」
俺は懐から、伯爵の紋章が入った首飾りを取り出し、テーブルに放り投げた。
「こんな面倒な地位なんざ、こっちから願い下げだ。俺はただの傭兵に戻る。領地も爵位も全部返すから、好きにしろ」
俺が席を立つと、ブルガスが「なっ……!?」と絶句した。
隣で静観していたイルゼが、少し悲しげな目をしたが、止めはしなかった。俺の性格を知っているからだ。
俺は部屋を出て、玄関ホールへ向かった。
荷物をまとめて、今夜中にここを出よう。また荒野で野宿して、自由に生きるのも悪くない。
だが。
城の扉を開けた瞬間、俺は足を止めた。
「「「ヴァレンシュタイン様ぁぁぁぁぁっ!!」」」
城の前広場を、松明を持った群衆が埋め尽くしていた。
アールヘンの領民たちだ。
「行かないでくれ! あんたがいなくなったら、誰が橋を守るんだ!」
「俺たちのビールはどうなる! 来年の祭りもやるって言ったじゃないか!」
「トイレ! トイレを維持できるのは黒狼隊だけだ!」
「お願いだ、見捨てないでくれぇぇぇ!」
醸造職人のブロイアーが、建築技師のハルトマンが、そしてかつて山賊だった清掃員たちが、涙ながらに叫んでいる。
その最前列で、メイドのリタがグショグショに泣き崩れていた。
「うわぁぁぁぁん! ご主人様ぁぁぁ! 私の責任ですぅぅぅ! 私を処刑していいから、ご主人様はいじめないでぇぇぇ!」
……バカ騒ぎだ。
俺はただの、金で動く傭兵だぞ? なんでこんなに引き止められる。
その光景を、背後から追ってきた王女シルヴィアが見ていた。
彼女は、領民たちの必死な姿と、困り果てた俺の顔を交互に見て、ハッとした表情を浮かべた。
「……ブルガス。お待ちなさい」
王女の凛とした声が響いた。
「で、殿下? しかしこやつは……」
「わたくしの勘違いでした」
シルヴィアは顔を赤らめながらも、はっきりと言った。
「ヴァレンシュタイン伯爵は、ただ不器用な慰め方をしただけ。……わたくしが、その、勝手に驚いて、倒れてしまっただけです。彼は無実です」
「なっ……し、しかし!」
「見てみなさい、この領民たちの姿を。恐怖で支配された領地に、このような嘆願が起こりますか? 彼は……愛されているのです」
王女の言葉に、ブルガスは口をパクパクさせ、やがて力なく肩を落とした。
シルヴィアは俺の前に進み出ると、ニッコリと微笑んだ。
「ヴァレンシュタイン伯爵。貴殿の統治は見事です。このまま、アールヘンを頼みますよ?」
俺は、天を仰いだ。
外堀を埋められた。これでは逃げようがない。
「……チッ。わかったよ。やりゃあいいんだろ、やりゃあ」
俺が頭をかきむしりながら答えると、広場の領民たちから、地鳴りのような歓声が上がった。
――翌朝。
王女一行の馬車が、王都へ向けて出発しようとしていた。
俺はしぶしぶ見送りに立っていた。
馬車の窓から、シルヴィア王女が顔を出した。
「ヴァレンシュタイン伯爵。……また、視察に来てもよろしいかしら?」
「勘弁してください。俺の心臓が持ちません」
俺が即答すると、彼女はクスリと笑った。
そして、去り際に小声で呟いた。
「……でも、あなたのあの手。……とても、温かかったですわ」
王女の頬は、朝焼けのようにほんのりと赤く染まっていた。
馬車が遠ざかっていく。
俺は城門の前に立ち尽くし、懐から煙草を取り出して火をつけた。
紫煙が、青い空へと吸い込まれていく。
「隊長ー! ブドウ畑の見回り、行きますよー!」
ニコラが、セインが、そして『黒狼隊』の連中が、ニヤニヤしながら俺を呼んでいる。
「……ああ、今行く」
俺は、ヴァレンシュタイン。
大傭兵団『黒狼隊』を率いる隊長であり、今はしがない辺境の伯爵だ。
戦場よりよっぽど厄介で、騒がしくて、そして退屈しない日々は、まだまだ続きそうだった。
俺は、ここに来て初めて、苦笑いではない、穏やかな笑みを浮かべた。
(完)
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