第12話 大傭兵隊長、静かに送る(この力は一体?)
『ローデン歴 200年 8月7日 伯都アールヘン 雨』
【傭兵隊長ヴァレンシュタイン視点】
しとしとと、冷たい雨が降っていた。
俺は城のバルコニーに出て、煙草をふかしながら、雨に煙る城下町を見下ろしていた。戦場での泥臭い雨とは違い、石畳を濡らす静かな雨音は、不思議と心が落ち着く。
ふと、城門の近くに人影があるのに気づいた。
ずぶ濡れのまま立ち尽くし、じっとこちらを見上げている女だ。
目が合った。
その目は、俺が戦場で嫌というほど見てきた目だった。助けを求める、切羽詰まった者の目だ。
「……チッ。放っておくわけにもいかんか」
俺は厚手の外套を頭からかぶると、誰にも言わず城の外へと出た。
近づいてみると、女は派手な化粧が雨で落ちかけた、娼婦の風体をしていた。名はエリーと言った。
「領主様……! お願いです、助けてください!」
エリーは泥水に膝をついて懇願してきた。
話を聞けば、同僚の娼婦が流行り病で伏せっており、もう医者からも見放され、助からないらしい。
「俺は医者でも神父でもねぇぞ。なぜ俺のところへ来た」
「う、噂を聞いたんです……。お城のメイドのリタさんから……領主様の手は『魔法の手』だって……。触れられるだけで、天国へ行けるような気持ちよさだって……」
俺はこめかみを押さえた。あのアホメイド、余計なことを吹聴して回りやがって。
だが、エリーは必死だった。
「あの子、苦しんでるんです。せめて最後くらい……安らかな気持ちで逝かせてやりたくて……」
「……案内しろ」
俺は短く告げた。
通されたのは、路地裏の古びた長屋だった。
カビ臭い部屋のベッドに、その女はいた。骨と皮のように痩せ細り、荒い息をして、苦悶の表情を浮かべている。死神がすぐ枕元に立っているのが見えた。
(……俺の手は、命を奪うための手だ。こんな真似、おこがましいにも程がある)
だが、苦しむ女を見て、何もしないわけにはいかなかった。
俺は、兜を脱ぎ、籠手を外した。
そして、いつものように「壊さないように」、最大限の注意を払って、彼女の額に、そっと手を触れた。
その瞬間だった。
「……ぁ……」
女の苦悶の表情が、ふっと緩んだ。
まるで、泥沼から引き上げられ、温かい毛布に包まれたかのように、その顔に赤みが差し、安らかな表情へと変わっていく。
「……あったかい……。神様……?」
女は、うわ言のように呟いた。
俺は何も言わず、ただその頭を撫で続けた。
やがて、彼女は深く息を吸い込み、最後に小さく言った。
「……ありがとう」
そして、息を引き取った。
それは、眠るような大往生だった。
部屋の隅で見ていたエリーが、泣き崩れた。
「ありがとうございます……! あの子、あんなに穏やかな顔で……!」
エリーは震える手で、なけなしの銀貨を数枚、俺に差し出した。
「これは、お礼です。これしかありませんが……」
俺はその手を押し戻した。
「いらん。俺は何もしていない」
「でも……!」
「その金で、墓でも立ててやれ。花の一本でも供えてやれば、こいつも喜ぶだろう」
俺は外套を翻し、逃げるようにその場を去った。
人の死など、戦場では日常茶飯事だ。感傷に浸る趣味はない。
城へ戻ると、執務室の前で奇妙な光景に出くわした。
あのメイドのリタが、廊下で正座させられていたのだ。
その前で、仁王立ちしているのは参謀のイルゼだ。
「リタ。あなたね? 街でヴァレンシュタインのあることないこと言いふらしてるのは。情報漏洩は重罪よ?」
「も、申し訳ありませんっ! でもぉ、本当のことですしぃ……」
俺は、ため息をつきながら近づいた。
「イルゼ、もういい。事実、その噂のおかげで変な依頼が来たがな」
「あら、帰ってたの? ……まったく、あなたが甘やかすからよ」
俺はリタを見下ろした。
本当に、俺の手にはそんな力があるのか? さっきの娼婦は、確かに安らかに逝った。
俺は試しに、正座しているリタの肩に、そっと触れてみた。
「はううぅっ~いっちゃいますぅぅぅぅ~~っ!!」
ドサッ。
リタは奇声を上げ、白目を剥いてその場に倒れた。口元がだらしなく緩んでいる。
(……なるほど)
俺は冷めた目でその物体を見下ろした。
さっきの死にゆく女とは違う。こいつはただ、性的興奮が欲しいだけのド変態だ。
俺の「力加減」が、こいつのツボにハマっているだけなのだろう。
(まあ、実害がないなら……たまに触ってやるか)
俺はリタを放置し、部屋へと戻った。
それからというもの、この手の依頼がぽつりぽつりと来るようになった。
重病の老人や、怪我で苦しむ若者。家族に頼まれ、俺は彼らの元へ行き、ただ手を握り、体をさすった。
皆、最後は安らかに感謝して逝った。あるいは、痛みが引いて眠りについた。
俺は頑として謝礼を受け取らなかった。
すると、いつの間にか城門近くの壁のくぼみに、誰が彫ったのか、俺を模したらしき不細工な木彫りの像が置かれ、そこにお供え物がされるようになった。
野菜、果物、干し肉。山のような供物だ。
「隊長! すごいですよ! 今日は高級なチーズが供えられてました! これなら食費が浮きます!」
輜重隊のセインが嬉々として報告に来る。
もったいないので、管理は全部あいつに任せることにした。
俺は執務室の窓から、供え物をする領民たちを眺め、深く深く、ため息をついた。
「……俺は『黒狼』と呼ばれた傭兵隊長なんだがな」
聖者でも何でもない。ただの、不器用な人殺しだ。
だというのに、なぜか拝まれている現状に、俺は強烈な居心地の悪さを感じていた。
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