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防空駆逐艦“松風”

作者: 仲村千夏

 朝霧が海面を薄く包むころ、駆逐艦 松風 の艦橋は既に忙しかった。艦長・浅見誠一は双眼鏡を額に押し上げ、水平線を見据える。長さ約110メートル、基準排水量約2,200トン。機関は40,000馬力を吐き出し、設計速33ノット──数値は冷たいが、この艦の鼓動は生き物のように浅見の指示で鼓動を早めたり緩めたりする。


 松風は、空母瑞鷹の護衛任務に就いていた。魚雷兵装を持たない代わりに、甲板の中心線近くに据えられた12.7センチ連装高角砲を四基、合計八門を主たる火力とする――対空持久力を重視した「標準バランス型」の設計である。浅見はその配備に誇りを持っていた。敵機の波を押しとどめ、空母を守るために生まれた艦だ。


 艦内に響く指揮官室の声。通信士が小さく報告する。


「本隊、北東三十度、十六機、接近中。高度およそ三千メートル、並列侵入の模様です」


 浅見は深く息を吐いた。目の前の光景を、数字でしか語れない者がいる。だが海は数字だけでは動かない。彼は艦の設計書を思い起こす。弾薬搭載数、発射レート、弾薬庫の温度、船体の安定性――全てが、守るべきもののスケールを決める指標になる。


「基準射撃配置、準備。高角砲員、各砲塔弾薬補給、速やかに。レーダー、目標列の割り振りを開始。対空指揮所、私に直接報告を」


 浅見の声は穏やかだが、艦内には規律の鉄線が張られていく。若い航海士がちらりと彼を見て、はっ、と引き締まる。松風の乗員は訓練を重ねていた。12.7センチ砲は一門あたり実用で8〜12発/分。持久戦では冷却と弾薬循環が命だ。浅見は胸の内で小さな祈りを立てる──艦は数字で救われ、誰かの冷静さで守られる、と。


 だが、海は予定に従わない。


 陽が昇るにつれて、接近する編隊は形を変え、二つの群れに分かれた。瑞鷹を目標に突進する直上部隊と、側面から低空で接近する突発的な編隊。浅見は即座に優先度を決める。空母を守るため、直上を遮断するのが最優先だが、側面から来る機体は低高度で艦の生命に直結する。


「第一・第二砲塔は直上向けに仰角を最大。第三・第四は側面低空射撃のために速やかに仰角を調整。近接防御、二次火器を最優先で展開。爆雷班、警戒態勢解除!」


 艦は答えた。蒸気が唸り、舵が小さく切られ、砲塔が音を立てて向きを変える。乗員それぞれが自分の役目を忠実にこなす。そのとき、無線から敵機の編隊がもう一群増えたという情報が入り、松風の胸中が一瞬だけ冷たくなる――しかし浅見は俯かない。


「我々が守るのはただの鉄ではない。飛び立つ者たちと、帰るべき者たちだ」


 彼の言葉は艦橋の空気を満たした。簡潔で暖かく、何よりも実行力を伴っていた。松風は、浅見の手で拳を握りしめるように速度を上げ、瑞鷹の側に滑り込んだ。対空線を形成するための最短距離に入る。弾薬庫の壁の向こうで眠る砲弾が、まるで怒りを待つ獣のように震え始めた。


 敵機の影が空を刻む。砲口が吐き出す閃光と、炸裂音が海面を震わせる。松風の四基の12.7センチ連装高角砲は、対空線を描くように火を吐き続けた。第一・第二砲塔は高高度の直上群を主に迎え撃ち、第三・第四は低空の機体を追尾する。砲の律動は艦の鼓動となり、浅見の耳にはそれがひとつの歌のように聞こえた。


「弾薬消費を報告せよ。冷却状況はどうだ!」

「第一砲塔、弾薬庫より補給中。砲身温度、限界まであと十%です!」と砲長が短く答える。

「持久戦を想定、発射間隔を若干調整する。だが回避の隙は与えるな。各砲、間隔を一呼吸だけ空けて持続火力を保て!」


 浅見は艦橋の小さな地図盤に目を落とし、瑞鷹との相対位置を確認する。瑞鷹はやや沈みを感じさせるほど翼を広げ、その甲板には艦載機が展開しつつあった。護衛の任務とは、単に敵を撃退することではない。空母が作戦を継続できるように、時間を稼ぎ、損傷を最小に抑えることだ。


 その時、側面から低空で忍び寄っていた一機が、思い切った急降下で艦の艦橋めがけて突っ込んできた。機銃掃射が艦橋の手すりをかすめ、煙と木片が甲板に落ちる。警報が高鳴り、若い航海士・坂口が一瞬よろめく。


「坂口君、大丈夫か!」浅見が声をかける。坂口はぎゅっと唇を結び、すぐに姿勢を正した。

「はい! 艦橋外は軽微な損傷、指揮は続行可能です!」彼の声はかすれていたが、確かだった。


 砲兵達は機械じかけのように動き、測距儀の数字が変わるたびに照準を修正する。砲弾は敵機の群れを刻むように命中し、黒煙と火のしぶきが空へと噴き上がる。だが敵も数を頼りに、意図的に散開し、被弾を分散させてくる。浅見はこの「消耗戦」の性質を熟知していた。


「燃料消耗と航続距離を計算しろ。瑞鷹の速力に合わせる必要がある。艦橋、左15度の微速舵を。」

「了解!」


 松風は小さく向きを変え、瑞鷹の陰に入り込むことで一瞬の保護を得た。だが敵は執拗で、彼らの編隊は再配置して新たな進攻を始める。高角砲の命中は幾分か敵の編成を削いだが、機銃の集中射撃で艦の外側装備に被害が出始める。


「第三砲塔、揚弾機が停止! 原因調査!」砲長の声に、整備班が駆け寄る。油圧系のトラブルだ。砲のリズムが一瞬崩れ、そこから敵機が突っ込む。その瞬間、松風の通信士・田村が一つの無線を拾った。別働隊の駆逐艦が重火器により被弾、応援要請だ。


 浅見は暫し沈思する。救援に向かえば自艦の護衛網が薄くなる。だが彼は艦長として、そして同じ海で戦う仲間として選択を迫られた。

「無線を中継してくれ。応援要請の座標を把握。だがまずは航空脅威を一掃してから、可能ならば救援に向かう。第六哨戒員を増やして周辺の索敵を強化せよ。速やかに。」


 短い決断が艦を動かす。松風は瑞鷹の側方を維持しつつ、できるだけ迅速に被害を受けた艦へ向けて舵を切った。砲の配備は瞬時に再調整され、第三砲塔は油圧を手動で切り替え、疲弊する中でなんとか射撃を再開させる。整備班の手は血と油で汚れていたが、働きは正確だった。


 無事救援に迎えた時に一機の敵爆撃機が艦の側面に近づき、命中弾を与える。甲板に火が上がり、数名が被弾する。医務室のベルが鳴り響き、看護班が駆け出す。浅見は胸に重いものを感じたが、顔には出さない。


「全員、冷静に行動せよ。我々はまだ戦える。負傷者は医務室へ。被害状況を分離し、優先修理部位を指定する。弾薬は無駄に消耗するな。目標は空母の防護と、仲間の救出だ」


 言葉は短いが、そこに彼の哲学が現れていた。戦いは無情で、しかし人間はその中で選択をし続ける。松風はその意思を体現するように、砲火を再び集中させ、低空の突入を次々と断ち切った。周囲の艦艇も応じて射撃を加え、やがて敵編隊は割れ、撤退の兆しを見せ始める。


 砲弾の消耗は激しかったが、松風は持ちこたえた。静けさが戦場に戻ると、瑞鷹の無線からは小さな歓声とともに航空隊の復帰報告が入る。松風の乗員は疲労と安堵が混ざった表情を浮かべていた。浅見は艦橋で短く目を閉じ、次の行動へと脳を切り替える。


「被害報告を。人的被害と機械的被害、優先順位を付けて報告せよ」

「人的被害、重傷2名、軽傷7名。機械被害、甲板損傷・一部通信機故障・第三砲塔の油圧系部分損壊、ただし応急処置で再稼働可能です」


 浅見は短く頷き、甲板に向けて命じる。消火班、修理班、医療班がそれぞれに一致団結して働き始める。海は依然として物言わぬが、松風の中には温かな連帯が流れていた。浅見は自分の艦が数値や図面ではなく、ここにいる人々の手によって守られることを知っていた。


 だが戦いは終わったわけではない。遠方の海域にはまだ敵の影がある。浅見は瑞鷹と被害艦の安全を確保しつつ、再出撃の準備を進める。彼の瞳は冷静でありながら、どこか遠くを見つめていた──そこで見ているのは、帰還する誰かの姿だった。


 戦いの余韻が艦内に残る中、松風は修理と応急処置を急ぎながら、被害艦の救援へと針路を取った。敵機の編隊は一旦去ったものの、浅見には胸をよぎる不安があった。こうした襲撃は必ず“第二波”を伴うものだ、と。


 通信室に新たな報告が飛び込む。

「艦長、前方三十キロにて敵編隊接近中! 数、およそ二十!」

 その声に艦橋が一瞬だけざわめく。しかし浅見は眉一つ動かさず、双眼鏡を持ち上げた。海の彼方に浮かぶ影が、まだ点に過ぎない。だが彼にはそれが、やがて火と鉄の雨となる未来を告げているように見えた。


「対空戦闘、第二配置! 全砲塔、弾薬補給を完了させろ。被害艦の護衛も忘れるな。松風は矛にも盾にもなる」


 若い砲員たちは顔を見合わせる。魚雷を持たない松風は、敵艦隊への決定打を欠く。その代わりに背負わされたのは、ひたすら撃ち続け、守り続ける役目だった。勝利の花を飾ることはない。だが浅見の声が、その宿命を誇りへと変える。


 やがて空は黒い雲のように敵機で覆われた。先ほどより数は多い。編隊は高度を三つに分け、空母を挟み込むように接近してくる。浅見は即断した。

「第一、第二砲塔、高高度迎撃。第三、第四砲塔、低高度侵入を遮断。25ミリ機銃群は各弾幕を分担。火器管制所、私に逐一報告せよ!」


 艦は再び火を噴いた。砲塔の振動が甲板全体に伝わり、装填兵たちの手が汗と油に濡れる。弾薬員は必死で揚弾機を回し、補給のリズムを崩さぬように叫び合う。


「撃てぇぇ!」

 轟音とともに砲弾が空を裂き、黒煙を散らす。敵編隊の一部は炎に包まれ海へと没したが、それでも突入をやめない。爆弾が投下され、瑞鷹の至近に水柱が立ち上がる。その衝撃が松風の艦橋を揺らした。


 敵の一群が松風自身を狙って急降下してきた。浅見は瞬時に判断し、操舵手へ命じる。

「舵、右一杯! 速度、最大!」

 艦は大きく身を翻し、爆弾の直撃を免れたが、至近弾の衝撃で機関が唸りを上げる。甲板の一部が吹き飛び、二次火器の銃座が一つ沈黙した。悲鳴と煙が立ちのぼる。


「被害報告!」

「右舷機銃座、全滅! 消火班が急行中!」


 浅見は唇を結ぶ。乗員の命は失われた。それでも砲火を止めるわけにはいかない。敵はなお突入を続け、護るべき空母を目標に迫る。


「全員に告ぐ。われらが弾幕が途切れれば、瑞鷹は沈む。ここで退けば、空母の飛行隊も仲間も失う。松風は最後まで撃ち続ける!」


 その声に、砲員たちの目が燃えた。疲労で震えていた手が再び力を得て、弾薬を抱えて走り出す。銃座に残った兵は歯を食いしばり、照準を敵影に合わせる。


 再び空を裂く連装砲の閃光。松風は小さな艦でありながら、まるで巨大な盾のように瑞鷹の側で立ち塞がった。


 そして、その盾に向かって敵編隊の主力が迫り来る。空と海と炎が交錯する中、浅見はただ一つの決意を胸に抱いていた。


「ここで止める。必ず」


 ――次の瞬間、彼らは最大の試練に直面するのだった。


 甲高い警笛が艦橋に響いた。

「敵機接近! 第二波、三時の方向!」

 報告に合わせて、海面低く突っ込んでくる敵機の影が見えた。黒煙を噴きながらも飛び込んでくるその執念に、艦長の胸が冷たく締め付けられる。


「対空火力、前部右舷集中! 空母の頭上を通すな!」

 12.7センチ連装高射砲が火を噴き、空気を震わせる爆音が耳を裂く。榴弾は青白い閃光を描きながら空を裂き、迫り来る敵を飲み込もうと爆ぜた。


 一機、二機と火を噴いて海に墜ちる。しかし、残る一機が、被弾で黒煙を引きながらも執拗に機首をこちらに向けた。

「来るぞ!」

 副長の叫びと同時に、艦首へ突っ込んできた敵機が爆弾を投下する。避ける暇はない。轟音、閃光、そして衝撃。艦首が大きく揺さぶられ、甲板が軋んだ。


「前部甲板大破! 浸水急速に拡大!」

「応急班、急げ!」

 怒号が飛び交い、艦橋は一瞬にして修羅場と化した。それでも艦長は唇を噛みしめながら命令を続ける。

「砲を止めるな! 護衛は我らの務めだ!」


 再び現れた敵編隊が空母へと向かう。艦長は喉が焼けるような焦燥を覚えつつ、声を張り上げた。

「撃ち方、続け!」

 高射砲の閃光が雲を切り裂く。弾幕は空母の周囲に炎の壁を築き、敵の編隊を散らせた。爆弾は空母から逸れ、海面に巨大な水柱を立てる。


 艦はすでに右舷に傾き、速度も落ちていた。艦長は砕け散った艦首を見やりながら、拳を握りしめる。――だが、それでも空母は無事だ。

「……まだだ。まだ沈まん。最後まで守り抜くぞ!」


 爆煙の彼方に、敵影がついに消えていく。荒れ果てた艦橋の中で、誰からともなく安堵の吐息が漏れた。

 しかし、艦は深い傷を負い、もはや戦線を維持することは難しい。それでも護衛艦としての役割は果たしたのだ。

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