008 【儀式】
休憩室の扉がノックされ、ハルツキが返事をする。
女性が二人にお茶を運んできた。
茶器も料理も、どれも芸術品のように美しい。
「これは……すごいですね」
カワセは感動しながら、恐る恐る観察する。
「ありがとうございます」
女性は嬉しそうに微笑む。
「今日の儀式のために、特別に心を込めて作らせていただきました」
ハルツキが尋ねる。
「その儀式について、もう少し詳しく教えていただけませんか?」
女性の目が輝いた。
「もちろんです。これは我々の街にとって最も神聖で美しい儀式なんです」
彼女は椅子に腰を下ろし、まるで昔話を語るように話し始めた。
「以前、この街には悪しき者たちがいました。罪を犯し、街の平和を乱す者たちです。そんな時、女王が我々に教えてくださったのが、この浄化の儀式でした」
女性の声は穏やかで、まるで子守唄のようだった。
「罪ある者の血は、処刑により雨となって街に降り注ぎ、巫女がその血の全てを清めるのです」
カワセは茶器を置いた。
「血が……雨?巫女?」
ハルツキの表情が険しくなる。
記録で読んだ内容と完全に一致していた。
だが、女性の語り方があまりにも──楽しそうなのが不気味だった。
「はい」
女性は当然のことのように頷く。
「血の雨が降る時、街全体が祝福に包まれるのです」
女性の声は相変わらず穏やかだったが、その口元に、かすかな陶酔の表情が浮かんでいた。
「その光景は本当に美しくて……」
彼女は一瞬、目を閉じ、まるで甘美な記憶を味わうように。
「一度見たら、きっと忘れられませんよ」
ハルツキとカワセは視線を交わした。
二人の間に緊張が走る。
女性は気づかずに続ける。
「今日は特別です。久しぶりに、意味のある儀式が行われますから」
「意味のある……?」
カワセの声が震える。
「ええ。普段は街の中の小さな罪を清めるだけですが、今日は……」
女性の瞳が期待に輝く。
「外から来た方々のための、特別な儀式です。旅人の方々には、我々の文化を深く理解していただきたいですから」
空気が凍りついた。
カワセの手が、テーブルの下でハルツキの手首を掴む。
その時、鐘の音が響いてきた。
住民たちの歓声も聞こえる。
だが、その歓声は段々と詠唱のような重い響きに変わっていく。
「あら、もう始まりますね」
女性は立ち上がる。
その瞬間、窓の外の光が急激に変化した。
まるで雲が太陽を隠したかのように──
しかし、空には雲一つない。
さっきまで明るかった午後の陽射しが、時間の法則を無視するように夕暮れ色に染まっている。
カワセは時計を見たが、針は止まったまま動かない。
街全体の空気が重くなり、石畳の色も血のような赤みを帯びて見えた。
「お支度をしてください。皆さん、お待ちしていますから」
女性が部屋を出ると、ハルツキが立ち上がった。
外の様子を窓から覗くと、街の雰囲気が変わり始めていた。
住民たちは相変わらず穏やかに準備を進めているが、その動きに何か計算されたような規則性がある。
「行こう」
「どこに?」
カワセは混乱している。
「この街の本当の姿を確かめる必要がある」
ハルツキの声には、記述士としての冷静さと、罪人としての警戒心が混じっていた。
◇
二人が外に出ると、街の変貌は決定的だった。
建物の装飾が処刑のための準備に変わり、住民たちは皆、血を思わせる赤い布を身に着けている。
空気そのものが重く、まるで血の匂いが漂っているかのようだった。
「ハルツキさん……」
カワセの声が震える。
「もう帰りましょう。このままだと本当に危険です」
ハルツキは処刑塔を見上げながら答えた。
「僕のシフターがあれば、この物語の構造を分析できるのに……」
「あっ」
カワセは自身の左胸付近を触り、青ざめた。
「シフター……私もシフター持ってません。面会室に入る時に回収されてしまいました……」
「まあ、そうだよね」
ハルツキは当たり前のように頷いた。
カワセはハルツキの態度に苛ついた。
「何でそんな落ち着いてられるんですか、もしかしたら処刑されるかもしれないんですよ」
カワセは慌てて、自身の衣服を叩きながら、持ち物を確認する。
広場にいた住人が一瞬、二人の方を見るが、目を逸らす。
カワセは憮然とした表情でハルツキに向けて言った。
「そもそも、気づいたんですけど、ここに漂流したのも、あなたの罪悪感に同調して漂流したんじゃないですか?」
ハルツキはカワセを宥めようと、手を広げる。
「そうかもしれない……それは申し訳ないと思ってるよ」
「そうかもしれない?そうですよね。勿論、私がトリガーを読み上げて助長したことも悪いですけど、普通それだけじゃ、漂流なんてしないですよね?」
カワセの追求は止まらない。
「責任とって、協力してくれるんですか?大体、トリガーを聞いただけで、漂流しちゃうなら、もっと沢山の人が漂流してますよね?そのうえ、ここは持ち主の死亡により既に消失したSOLARISなんですよね?おかしくないですか?誰のものでもない物語なんて存在するわけないじゃないですか……」
カワセは自分の言葉に違和感を感じる
消失した……誰の物語?
ハルツキはカワセを見て言う。
「そう。ここは既に消失したはずの物語」
「なんで……」
ハルツキは注意深く周囲を確認した後、カワセに伝える。
「考えられるのは……消失した『血雨の巫女』を改訂した奴がいる」
──その瞬間、街全体の空気が更に変わった。
住民たちの詠唱が止み、代わりに不気味な静寂が訪れる。
明るかった石畳が、急に血の色を帯びて見えた。
その時、二人の間に影が落ちた。
それは太陽の位置とは矛盾する向きから伸びている。
振り返ると、さっきの女性が立っていた。
穏やかな笑顔を浮かべ、どこか期待に満ちていた。
底知れない黒色の瞳で二人に告げた。
「きっと、素晴らしい光景よ。罪人が清められて、私たちの街に祝福の雨をもたらすの」