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noncoding luminescence  作者: shiso_
第2章 漂流
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006 【漂流】

 高い塔が天を突く古い街があった。

 その街の中心には威厳ある城と螺旋状の塔が聳えていた。


 狭い石畳の路地が迷路のように広がり、澄んだ青色の空の下、古びた木造の家々が肩を寄せ合うように立ち並んでいた。


 軒先からは色あせた看板が揺れ、鍛冶屋の金槌の音と商人たちの呼び声が響く。


 路地の合間から覗く広場では、噴水を中心に市場が立ち、色とりどりの天蓋の下で野菜や果物、織物が売られていた。


 空気は薪の煙と焼きたてのパンの香りが混ざり合い、どこからともなく聞こえてくる教会の鐘の音が、時の流れを告げていた。


 この古い街並みの中を、カワセとハルツキは歩いていた。

 二人の姿は、まるでこの世界の一部であるかのように、違和感なく街に溶け込んでいた。


 ハルツキは足取りが軽い。

 いや、軽いどころではない。

 まるで地面を蹴って跳ねるような歩き方で、時折、石畳の段差を必要以上に大きく跨いだり、建物の角を回る時にくるりと振り返ったりしている。

 その様子は、檻から出された小動物のように落ち着きがない。


「SOLARISに漂流は初めて?」

 ハルツキがカワセに尋ねる。


「『漂流』は初めてで……でも、シフターによる『侵入』は実習で……少し」

 カワセは下を向きながら呟く。


 自分の手を何度も見つめながら、その現実感に圧倒されていた。

 手のひらの皺も、爪の形も、すべてが現実と同じ。

 石畳を踏む足音も、風に揺れる髪も、頬を撫でる冷たい空気も、現実世界と何ら変わりない。


 けれど、どこか夢の中にいるような不思議な感覚が拭えなかった。

 色彩が少しだけ鮮やかすぎるような気がする。

 影の落ち方が、現実よりもくっきりと境界を描いている。

 そして、遠くの建物の輪郭が、よく見ると僅かに揺らいでいるのが見えた。


 ハルツキが振り返る。

「やっと戻ってこれた──」

 その表情は、抑えきれない高揚感で輝いていた。

 瞳の奥に、久しぶりの自由を手にした者の躍動感が宿っている。

 話しながらも視線があちこちに動き、全てを一度に見ようとしているかのように。


    ◇


 近くを通り過ぎていく商人が、カワセに軽く会釈をする。

 彼女は慌てて会釈を返すが、その自然さに改めて驚く。

 商人の表情、仕草、すべてが生きた人間そのもの。

 これが「物語の登場人物」「SOLARIS所有者の意識の投影」だなんて、到底信じられない。


「この人たちは、私たちを普通の人間だと思ってるんですか?」


「そう。今、この物語の中では、僕たちもまた登場人物の一部だから」


 ハルツキは立ち止まり、周囲を見回した。

 しかし、その視線は落ち着きがない。

 建物の屋根、看板の材質、石畳の継ぎ目、通り過ぎる人々の服装──

 全てに興味深そうな視線を向けている。


 突然、ハルツキが立ち止まる。


「少し見てくる──」


 そう言うと、ハルツキは近くの建物の壁に手をかけた。

 その動きは衝動的で、まるで抑えきれない好奇心に突き動かされるように、彼の瞳は輝いている。


「えっ、ちょっと待って」


 カワセが声をかけるが、ハルツキの動きは既に始まっていた。

 右足を壁に蹴り込み、左手で雨樋を掴む。

 一瞬の静止の後、まるで重力を無視するような軽やかさで、瞬く間に二階の軒先まで駆け上がる。

 瓦の音一つ立てずに、隣の建物の屋根へと跳躍する。


「ハルツキさん!」


 カワセは慌てて呼びかけるが、彼の動きは止まらない。


 屋根から屋根へ。

 煙突を足場に、さらに高い建物へ。

 赤い瓦の上を駆け抜ける影は、まるで風そのもののように軽やか。

 時折、瓦がカラカラと音を立てるが、それ以外に音は聞こえない。

 その動きには躍動感があり、まるで飛び回る小鳥のように自由で軽やか。

 長い間閉じ込められていた者が、ようやく手にした解放感を全身で表現しているようだった。


 カワセは見上げることしかできない。

 首が痛くなるほど上を向いて、彼の姿を追い続ける。

 太陽が雲に隠れ、影になったり光になったりする中を、ハルツキの影が移動していく。


 街で最も高い尖塔へと向かっていく姿が、だんだん小さくなっていく。

 古い石造りの塔を、まるで階段を駆け上がるように登っていく。

 石の継ぎ目に指を掛け、僅かな突起を足場にして、垂直の壁を上っていく。

 その動きは流水のようにスムーズで、一度も手を止めることがない。


 やがて、ハルツキの姿は見えなくなった。


    ◇


 カワセは必死にハルツキの進路を追いかけていた。

 しかし、彼の身体能力には到底及ばない。


 石畳の路地を走り、角を曲がり、また別の路地へ。

 息が上がり、心臓が激しく鼓動する。

 迷路のような街並みの中で、すぐに方向感覚を失った。


 見上げた屋根の上を、影のように移動していく姿をちらりと捉える。

 手を伸ばしても届かない高さ。

 まるで別世界の住人のようだった。


「待ってください!」


 叫び声も、風に消えていく。

 喉が痛くなるほど大声を上げているのに、遠く離れた相手には届かない。

 通りを歩く人々が、突然大声を上げたカワセを不思議そうに見る。

 その視線が痛い。


 やがてハルツキの姿は建物の向こうに完全に消え、カワセは一人路地に取り残された。


「逃げられた……」


 膝から力が抜ける。

 石造りの壁にもたれかかり、荒い呼吸を整えようとする。

 石畳の冷たさが、靴底を通して足に伝わってくる。

 空気も急に冷たく感じられ、肌を刺すように冷たい。


 知らない物語で一人きり。

 帰還手段も分からない。

 頼れる相手もいない。


 周囲の景色が、急に異質なものに見えてきた。

 さっきまで美しく感じられた古い街並みが、今は牢獄のように思える。

 石造りの建物が威圧的に立ちはだかり、狭い路地が逃げ道を塞いでいるように見える。

 現実ではない世界に囚われてしまった恐怖が、じわじわと心を侵食していく。


 視界の端で蝶が舞っているのが見える。

 しかし、その存在すら今は慰めにならない。

 むしろ、この現実離れした状況を強調しているように感じられる。


 頭の中で育成課の講義が蘇る。

 『SOLARISからの緊急脱出手順』

 『物語構造の理解と帰還経路の確保』


 しかし、理論で学んだことと現実は違いすぎる。

 実際にSOLARISに投げ出されてみると、そんな理論など何の役にも立たない。


 絶望が心を覆い始めた時──


「逃げたかと思った?」


 背後から声が聞こえる。

 その声は静かで、どこか楽しげな響きを帯びていた。


 振り返ると、ハルツキが立っていた。

 息一つ乱さず、まるで最初からそこにいたかのように。

 その表情には、僅かな笑みが浮かんでいる。

 服装も乱れておらず、汗一つかいていない。


「僕が君を置いていくわけがないだろ」


 ハルツキの声は静かだが、確かな温かさを帯びていた。


「いや……実際、置き去りにしましたよね?待ってって言ったのに……」


 カワセの声が震える。

 安堵と困惑と、少しの怒りが混じり合っていた。

 涙が出そうになるのを必死に堪える。


「ごめん。でも、この街の構造を把握する必要があったんだ」


 ハルツキは軽く頭を下げる。

 その仕草には、罪悪感と必要性への確信が同居していた。


「構造を?」


「処刑塔の位置、街の出入り口、住民の動線……」

 ハルツキは真剣な表情で続ける。

 「SOLARISに来たら、まず地の利を知る必要がある」


 カワセは深く息を吸い込む。

 理性では理解できるが、感情的にはまだ納得がいかない。

 それでも、一人で取り残される恐怖を思えば、彼がいてくれることに感謝すべきなのかもしれない。


「今度は事前に言ってください」


「ああ、約束するよ」


 ハルツキは頷き、カワセの隣に並んで歩き始める。

 その歩調は、今度はカワセに合わせてゆっくりとしたものだった。


    ◇


 二人が路地を抜けて広場に出ると、噴水の周りで子供たちが遊んでいた。

 その笑い声は清らかで、まるで天使の歌声のよう。

 母親たちは微笑みながら子供たちを見守り、商人たちは穏やかな表情で商品を並べている。


 全てが完璧に調和していた。

 あまりにも完璧すぎるほどに。


 一人の中年女性が、籠を手に二人に近づいてきた。

 彼女は優しげな笑顔を浮かべている。


「あら、お二人さん。この街の方じゃないみたいね。どちらからいらしたの?」

 女性は柔らかな口調で尋ねた。


 カワセは一瞬戸惑ったが、ハルツキが素早く答えた。

「はい、旅の途中で立ち寄りました。とても素敵な街ですね」


「そう、良かったわ」

 女性は籠から小さなパンを取り出し、二人に差し出した。

 「お腹が空いているんじゃないかしら。どうぞ、召し上がって」


 カワセは感謝の言葉を口にしようとしたが、ハルツキが割り込んで答えた。

「ありがとうございます。先程、食事をしたばかりですので、お気持ちだけ頂きます」


「あらそう、何か不都合があったら、すぐに誰かに伝えてくださいね。皆んな優しい人ばかりですからね」

 女性は言い残し、立ち去った。


 しかし振り返った時、彼女は最初に話しかけてきた方向とはまったく逆の方向へ歩いていた。

 まるで、最初からそちらにいたかのように。


 女性の姿が見えなくなると、ハルツキが小さく呟いた。

「おかしいな……」


「何がですか?」

 カワセが尋ねると、ハルツキは塔を見上げる。


「この物語は厳格な女王が、罪人を処刑する悲劇の物語なんだ」

 ハルツキは罪人という言葉に自身の立場を重ね、顔を歪めた。


 カワセは周囲を見回した。

 子供たちの笑い声、商人たちの穏やかな表情、どこにも恐怖の影はない。


「でも……ここの人たちは全然怖がっていませんね」


「そう。それが問題なんだ」

 ハルツキの表情が曇る。


 さっきの女性の笑顔が脳裏に蘇った。

 パンの香りは確かに焼きたての温かさを持っていた。

 しかし、女性の笑顔の奥で、何かが自分たちを覗いているような気がした。

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