005 【面会室】
カワセはハルツキの突然の問いかけに戸惑う。
緊張から体が強張る。
「答える訳ないじゃないですか。私のSOLARISのトリガーを聞き出そうとしてますよね」
「じゃあ、君は何をしに来たの?」
その声音には、相手の反応を確かめるような軽やかさが混ざっている。
まるで猫が獲物を弄ぶように。
カワセは何も考えられなかった。
第零級犯罪者のイメージと目の前のハルツキが結び付かず、思考の方向性が定まらない。
カワセは無策のまま尋ねた。
「あの……捜査に協力してくれませんか……」
「ああ、それは出来ない」
ハルツキは無邪気に断った。
「そんな事より、君のSOLARISは喜劇?悲劇?世界観は?投影の登場人物は?」
質問を重ねながら、ハルツキは相手の微細な反応を観察していた。
実験台の上の標本を見るような、冷静な眼差し。
「いえ…」
「今まで、君が大切にしている事は?SOLARISのタイトルは?トリガーは?」
「それは…」
視線を逸らした先、ガラスの向こう側で、カワセはハルツキの周りをひらひらと飛んでいる蝶を見つける。
青と紫の翅が、微かに光を帯びて舞い踊る。
ハルツキには見えていない。
その瞬間──カワセの意識が遠のく。
蝶の翅の輝きが、記憶の奥で何かを呼び覚ます。
懐かしい痛み。
失ったものへの郷愁。
説明のつかない喪失感が胸を満たしていく。
眠りから覚めたように、感覚が戻ってくる。
気づいた時には、目から涙が流れ出していた。
なぜ泣いているのか、自分でも分からなかった。
◇
ハルツキは質問を羅列し続けていた。
カワセは涙を拭き、ハルツキの声も聞こえていないかのように、ただ飛行する蝶を目で追い続ける。
ハルツキはカワセの異変に気づいた。
不安と緊張で怯えていたはずのカワセの視線の先を探すが、何も見当たらない。
しかし、その視線の方向に確信があった。
「君、語り手が見えてるの?」
「はい」
その言葉が口から出た瞬間、カワセは自分の軽率さに気づく。
「それ、他の人は知ってるの?」
「いえ、知らないはずです」
カワセの即答に、ハルツキの表情が僅かに変わる。
眉がわずかに上がり、視線が鋭くなった。
「君の語り手は僕の周りにいるの?」
「はい、今あなたの頭の上に止まってます」
ハルツキは驚いたように頭を払った。
蝶はハルツキの手が触れる前に飛び立ち、周遊する。
「語り手が君をどこへ導いているかも見えてる?」
「いえ、それは見えません」
拳を握りしめる。
乾いた喉が鳴る。
「ただ……今、私達はあなたの助けが必要な事だけは分かります」
ハルツキの目が大きく見開かれるが、すぐに表情を戻す。
「でもさ……拘束してる側が、拘束してる奴に協力してくれっておかしくない?」
カワセはハルツキの顔を見据え、問いかける。
「あなたも語り手が見えるんでしょ?」
ハルツキは驚いたように、カワセの足元に視線を送る。
「あなたの語り手、私の足元にいますよね?」
「えっ?」
ハルツキも慌てて視線を戻した。
カワセは足元の何かを見つめながら、確信を込めて続ける。
「小動物ですね。犬……いえ、猫だと思います」
カワセ自身、なぜそう断言できるのか分からなかった。
しかし言葉が勝手に口から出てくる。
「語り手は所有者に似るって聞いたことがあります。あなたは……社交性がなくて、馴れ合いが嫌いそうなのに、今は久しぶりに話し相手が来て、実は嬉しそう……そうですよね?」
ハルツキの表情が驚きに染まる。
「だから猫。しかも……」
カワセは足元の見えない何かを見つめながら、まるでその仕草が見えているかのように続けた。
「今、私の足に擦り寄って、尻尾を立てて、かまって欲しそうにしてますよね?でもその割には本心を見せようとしない。あなたが今そうしてるように」
カワセ自身、なぜこんなに具体的に語れるのか分からなかった。
けれど、なぜかその光景が目に浮かぶのだ。
その詳細な描写に、ハルツキの顔が青ざめた。
「なんで……なんでそれを……」
ハルツキの左手が、無意識に右の前腕を撫でる仕草を見せる。
袖の下に何かがあるような、慎重な手つきだった。
カワセはその仕草に目を奪われる。
なぜかその動作が、とても大切な何かを思い出させる気がした。
「君は……」
ハルツキの声が震える。
しかし、その先の言葉は飲み込んだ。
表情に複雑な感情が浮かんでは消える。
カワセは困惑していた。
なぜあんなことを言ったのか、自分でも理解できない。
「すみません、なんか勝手に口から出てきて……」
ハルツキの表情が、目に見えて変化した。
警戒心が和らぎ、代わりに何か懐かしそうな、それでいて悲しそうな表情が浮かぶ。
「君、名前は?」
声のトーンが変わっていた。
先ほどまでの威圧的な調子は消え、どこか親しみやすい響きになっている。
「カワセ……カワセ・ツキノ。記述士です」
ハルツキは小さく微笑んだ。
その微笑みには、何かを確認したような安堵が滲んでいた。
「そうか…カワセ、か」
彼は再び前腕に触れる仕草を見せた。
その仕草がなぜか、カワセの胸を締め付ける。
◇
ハルツキはカワセが持っていた封筒を指して言った。
「その封筒でしょ?僕に聞きたいのは」
態度の急変にカワセは戸惑う。
なぜ急に協力的になったのか、理由が分からなかった。
「ああっ、すみません。これです。事件の書類なんですけど見てくれますか?」
カワセはハルツキに書類を提示する。
「現在、猟奇的な殺人事件が発生してまして、SOLARISに関係する疑いから、VORTEXに指定されました。タイトル及びトリガーは捜査中です」
カワセは書類をめくっていく。
「それ──その写真見せて」
ハルツキは被害者の死体の写真に目を止めた。
カワセは写真をハルツキへ提示する。
「血雨の巫女」
「えっ?何ですか?」
「そのVORTEXのタイトルは『血雨の巫女』。トリガーは確か……」
「ありがとうございます!シキシマさんにタイトルで照会してもらいます」
カワセは室内に備え付けられた内線から会議室へ連絡する。
『零収会議室、V対、シキシマです』
「すみません、カワセです」
『おお、どうした。ハルツキと話せたか?』
シキシマは気怠げに尋ねた。
「『血雨の巫女』です。タイトル……事件の」
『はあ?……ええっ、お前、もうハルツキと打ち解けたのか?』
「いや、そんな事は……」
『まあ、話は後だ。タイトルで照会に掛けるから待ってろ』
その時──ハルツキは困ったような表情で呟いた。
「何でだ……『血雨の巫女』は既に消失したはず……」
カワセはハルツキの方へ振り向きながら、通話を続ける。
「えっ、シキシマさん、すみません!既に消失してるらしいです……」
『なるほど……現存するSOLARISのデータ検索に掛かってこない理由はそれか……消失データの資料持ってくから、ハルツキからもっと引き出してくれ』
「了解しました。失礼します」
◇
カワセは受話器を掛け、再度、ハルツキと対面する。
「消失してるってどういう事ですか?」
ハルツキは視線を落とし、一点を見据え考え込んでいるようだった。
「消失してる……はずなんだ」
カワセの目を見て続けた。
その瞳には、何か複雑な感情が渦巻いているように見えた。
「『血雨の巫女』は過去の戦時中に軍事利用されたSOLARISだ」
カワセはハルツキの話に聞き入る。
「戦線にいる兵たちの罪悪感を利用され、その物語のトリガーに同調した兵が『血雨の巫女』に漂流した……いや、させられた」
その言葉を語る際、ハルツキの声には微かな震えが混じっていた。
まるで他人事ではないような、痛みを含んだ響き。
「ハルツキさんも、漂流させられたんですか?」
カワセはハルツキに尋ねる。
「いや、僕がVOLTEXの対策部隊に入るもっと前の話だよ。軍事機密だからアーカイブ本版は見たことないけど」
「消失したんですよね?」
「漂流者の凄惨な死に方を見るに耐えられなかった所有者が自殺してしまったから、被害は一時的だった」
「物語が戦いに利用されたんですね……」
カワセは俯く。
「そう……」
ハルツキは言葉に詰まった。
その表情には、深い悲しみが浮かんでいる。
◇
ノックの音が室内に響く。
カワセは立ち上がり、面会室のドアを開ける。
先程、会議室内にいた制服の男が立っていた。
「シキシマさんから持って行くよう指示されました。詳細な資料はまだ許可が得られずここにはありません」
男は数枚の資料を差し出した。
カワセは礼を言い、資料を受け取る。
男は去り際にカワセに伝えた。
「一応、それ厳重取扱注意です。あと……」
「はい?」
「シキシマさんから良くやったと伝えるよう言われました」
◇
カワセは頭を下げ、室内に戻る。
ハルツキに向かい合い、書類に目を通す。
「『血雨の巫女』の資料一部ですが、あったみたいです」
ハルツキもカワセが持つ資料を覗き込む様にガラスに近づいた。
カワセは資料をめくり、物語の概要やイメージボードを確認する。
処刑塔の図版が目に留まる。
厳かで美しい建物の姿。
しかし、その美しさの中に、何か歪んだ愛情のようなものを感じる。
資料をめくる手が震える。
ハルツキは腕を組み、何かを思い出すような表情で考え込んでいた。
カワセは読み上げる。
『銀の月は螺旋を巡り 白き巫女は祈り捧ぐ 慈悲の雨は血となりて 永久の塔は魂を問い 銀の杯は月を映し 民の願いは狂い舞う
巫女は今も杯を持ち 螺旋は今も血を滴らせ この物語が救いとなるまで』
「何それ?」
「血雨の巫女のトリガーです」
「えっ!トリガー読んだの?」
「えっ……あっ!すみません!」
突然──
──鐘の音が鳴り響き、カワセの意識が揺らぐ。
一瞬の目眩と共に、周囲の景色が霞んで溶けていくような感覚に襲われる。
室内が変容し、目の前に古い街並みが広がる。
ハルツキが立ち上がり、付近を見渡した。
しかし、その感覚はすぐに収まり、気がつけば二人は石畳の上に立っていた。
空気は肌に触れ、石畳は足の下で固く、遠くから聞こえる人々の話し声も鮮明だった。
それでも、何かが違う。
色彩が少し鮮やかすぎる。
影の落ち方が、どこか現実離れしている。
そして、遠くの建物の輪郭が、よく見ると僅かに揺らいでいた。
カワセは自分の手を見つめる。
確かにそこにあり、動かすことができる。
しかし、その手が本当に自分のものなのか、一瞬だけ疑問が頭をよぎる。
風が吹き、髪が揺れる。
その感触は現実そのものだ。
だが、その風が運んでくる匂いは、懐かしさと未知の香りが不思議に混ざり合っている。
周りを歩く人々は、カワセに気づいている様子もなく、まるで彼女がそこにいて当然であるかのように振る舞っていた。
彼らの服装や話し方は古めかしいが、カワセにとってはそれが違和感なく感じられる。
頭上では、鳥が飛んでいる。
その姿を目で追っていると、空の一部が僅かに歪むのが見える。
だが、すぐにそれは消え、何事もなかったかのように雲が広がっている。
街の中心には高く聳える塔が見える。
慈悲と正義を司るはずのその処刑塔が、どこか悲しげに佇んでいた。
朝焼けの光を受けて、その壁面が血のような赤みを帯びている。
カワセは深呼吸をする。
空気は確かに肺に入り、体内を巡る。
この世界が現実ではないことは分かっている。
しかし、今この瞬間、彼女の感覚のすべてが、ここが現実だと主張している。
◇
ハルツキは呆然としたまま尋ねる。
「ええと……カワセさんはなんで、トリガーを全部読み上げたの?」
カワセは言う。
「すみません……緊張してました……」
ハルツキは肩を落とした。