002 【記述部記述士育成課執務室】
霧雨の音が遠ざかっていく。
空調の音だけが、機械的なリズムで時を刻んでいた。
◇
数日前。
記述部記述士育成課執務室。
蛍光灯が不規則に明滅し、影が揺れていた。
回転椅子に沈むカワセの視線は、育成課の規則を並べた資料に注がれている。
朱色のマーカーで引かれた線が、紙面を走り、記述士としての掟を示していた。
文字が、目に焼き付く。
『物語に共感すべきではない。
理解しようとすべきではない。
ただ、凍結することのみを考えよ』
──記述部鉄則第一条
『物語に向き合う時、感情も、思索も、対象から目を曇ませる毒となる。
本質を見極める目には、ただ観察者としての距離のみが、凍結の道を示す』
その言葉を読み返すたび、胸の奥で何かが疼いた。
理由は分からない。
けれど、この鉄則が自分に枷をはめているような感覚があった。
◇
「カワセ」
予兆もなく降り立つ声。
几帳面に整えられているはずの課長のネクタイは、微かに歪んでいた。
「連続怪死事件、知ってるか?」
その瞬間、体の奥で何かが警鐘を鳴らす。
カワセは思わず背筋を伸ばした。
育成課の訓練生の間でも、その事件は不吉な噂となって囁かれていた。
「ニュースで見た程度ですけど……」
自分の声が少し震えているのに気づき、無意識に腕を撫でる。
落ち着きを取り戻そうとする仕草が、逆に内なる動揺を際立たせる。
「犯人不明の猟奇殺人事件ですよね。どの死体にも血が一滴も残っていないと……」
血がない。
その言葉が口にした瞬間、カワセの視界が一瞬だけ歪んだ。
まるで水中から世界を見ているような感覚。
上司が写真の束を差し出す。
その仕草には、記述士としての運命を告げるような、重い覚悟が滲んでいる。
一瞬躊躇いながらも、カワセは震える手でそれを受け取った。
最初の一枚を見た瞬間、世界の軸が音もなくずれていく。
そこには、
人とは思えないほどに切り刻まれた死体があった。
肉塊と化した死体の一部から、辛うじてそれが人間だと判別できる程度。
しかし、その凄惨な状況以上に、カワセの心を震撼させたのは別のことだった。
──距離を保て。
記述士の鉄則が、心の奥で警告を発する。
しかし、その声さえも遠く聞こえた。
最も不吉なのは、その凄惨な現場に不釣り合いなまでに、血痕が一切ないことだった。
まるで、誰かが血という存在そのものを、この世から消し去ったかのように。
血の欠如した死体を見つめる瞬間、カワセの胸に言いようのない痛みが走った。
手首が、理由もなく疼いた。
「俺もこの仕事をやって長いが、ここまで惨たらしい死体は初めて見た。こんな不気味な殺し方は人間には不可能だ……その上、連続発生ときた」
上司は眉間に深いしわを寄せ、重い溜息をつく。
その表情に、長年の経験を持つ者特有の困惑が浮かんでいた。
「警察の捜査の結果、SOLARIS関係である事が判明した」
『SOLARIS』
その言葉が耳に届いた瞬間、カワセの心臓が不自然なリズムを刻み始めた。
カワセは黙って聞いていた。
両手を強く握りしめ、爪が掌に食い込む。
育成課での訓練が走馬灯のように頭をよぎる。
SOLARISは『人間の集合的意識が形成する空間』。
その知識は頭に入っているはずなのに、目の前の写真が示す現実があまりにも生々しく、理論と現実の間に深い溝があった。
「データ管理課の報告では、既存のアーカイブに該当例がない。その異常性から、VORTEXに指定された」
『VORTEX』
カワセは写真を机に置く。
その手が僅かに震える。
光を受けた写真が、一瞬だけ別の色を帯びたように見えた。
青と紫の、蝶の翅のような色に。
「VORTEX対策課の捜査は難航している。その上、執行部からの出鱈目な指令で手が回らない状態らしい」
上司の声に、カワセは顔を上げた。
視線が宙を泳ぐ。
何か違和感がある。
なぜ育成課の、それも経験の浅い自分にこんな重要な話を……
胸の奥では、薄い警鐘が鳴り続けていた。
「そこで、上は調査部から技術開発部、記述部までほぼ全ての課から人を集めて、捜査本部を立ち上げる事を決めた」
肩に力が入るのを感じる。
時計の秒針の音が、心臓の鼓動と不協和音を奏でる。
運命の歯車が、回り始めたのだと直感した。
「何でこんな話を君にしたのか、分かるな?」
カワセの嫌な予感が、鋭い刃のように胸を貫く。
「君を捜査本部に推薦した」
「私を……?」
カワセの声が裏返る。
窓辺の空気が、その声に反応するように揺らめき、金色の埃が舞い踊った。
まるで自分の運命が、目に見える形で変化していくかのように。
「まだ私、何も知らないし…何もできません」
記述士として物語を直視する覚悟はある。
しかし、この凄惨な事件を前にして、経験も浅い自分に何ができるのか──
それ以上に、なぜ自分なのかという疑問が、心の奥で渦巻いていた。
「上層部も承認済みの決定事項だ」
その言葉の重みが、カワセの肩に圧し掛かる。
逃れられない運命の重量。
「でも……」
言葉を詰まらせ、視線を泳がせる。
蛍光灯の明滅が、影の輪郭をぼかしていく。
「それに君を起用する意図もある」
「意図?」
「君の役割は極秘事項に指定されているから、ここでは公言できない。当日、VORTEX対策部のシキシマから説明がある」
極秘事項。
シキシマ。
聞いたことのない名前。
カワセは大きく肩を落とした。
蛍光灯の光が、不確かな色を帯びて見える。
「場所は、Morphospecta第零級犯罪者収容所。申し訳ないが、命令として受け取ってくれ」
零級犯罪者収容所。
その名前を聞いた瞬間、カワセの心に言いようのない痛みが走った。
「収容所ですか……」
声に力を込めようとしたが、どうしても揺らぎが残った。
「君の健闘を祈る」
カワセは弱々しく微笑み、足取りも重く執務室を後にした。
◇
廊下に出ると、彼女は壁に背中をもたせかけ、目を閉じて深呼吸を繰り返す。
冷たい壁の感触が、現実に引き戻してくれる唯一の手がかりだった。
なぜこんなにも胸が痛むのか。
なぜ零級犯罪者収容所という名前に、こんなにも心が反応するのか。
窓の外で、夕暮れが街を血のように染めていく。
その光の中を、青と紫の翅を持つ蝶が舞い続けていた。
空の赤さを避けるように、不規則な軌道を描きながら。
蝶は知っている。
カワセの運命が、動き始めたことを。
記述士の鉄則が、遠い記憶のように薄れていく。
観察者としての距離も、凍結という言葉も、今は、ただ宙に漂っているだけだった。
代わりに心を満たしていたのは、説明のつかない予感。
何かとても大切なものに、もうすぐ出会うような。
それとも、もう一度失うような。
そんな、運命の予感だった。