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noncoding luminescence  作者: shiso_
第1章 第零級犯罪者収容所
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001 【第零級犯罪者収容所】

 午前8時47分。

 霧雨が降っている。


 雨粒は制服に触れ、真珠のような滴となって、スカートの裾を滑り落ちていく。

 懐中時計の針が刻む音と、雨滴の落ちる音が微かに同期し、世界に静謐なリズムを刻んでいた。


 巨大な外壁の前で足を止める。

 切り揃えたばかりの黒髪が、湿った朝の空気に重く垂れ下がり、肩に冷たい重みを落としていた。


【Morphospectaモルフォスペクタ第零級犯罪者収容所】


 その文字は、朝もやの中で鈍い金属光を放ち、まるで墓標のように冷たく微かに光っていた。


 震える手でIDを握りしめる。

 プラスチック製ケースの角が掌に食い込み、現実の重みを刻む。

 守衛所に向かう足音が、靴底の水滴を弾いて、妙に鮮明に響く。

 出入口では警備員が機械的な正確さで敬礼を送っている。

 セキュリティスキャナーの青い光が彼女を包みこむ。

 その光は境界を示すように明滅し、わずかに時間の流れを歪ませるような錯覚を生んだ。

 ゲートの表示が緑色に変わり、逡巡の後、一歩を踏み出した。


 これ以上、後戻りはできない。


    ◇


 広々としたロビーの白い壁面に「Morphospecta──潜在現実観測機関──」の文字が、まるで呪文のように浮かび上がっている。

 案内表示を探す視界に、不意に青と紫の光が映り込んだ。


 視界の端に蝶が舞う。


 真っ白な施設の無機質な空気を僅かに歪ませながら、深い青と紫が織りなす羽を持つ蝶がヒラヒラと漂っている。

 その翅は夜空の星座のように微かに発光し、現実離れした美しさと不気味さを醸し出していた。

 他の誰の目にも留まらないその蝶は、彼女だけの案内人のように、正面の中央階段へと舞い踊っていく。


 理由は分からない。

 けれど体の奥で、何かが静かに震えている。

 運命の歯車が回り始める音を、魂が聞き取っているのかもしれない。


「君がカワセか。雨の中、悪いな」


 階段の上からスーツを着た男が声を掛けてきた。


 シキシマ。

 捜査本部統括。


 事前に告げられていた名前が、今、現実の重みを持って空気を震わせる。


「いえ、今降り始めたところです」

 カワセは答えながら、無意識に襟元を正す。

 その仕草に緊張が滲み、指先が微かに震えていた。


 一段、また一段。

 階段を上がるたび、戻れない場所からの距離を刻むように感じられた。

 心臓が胸を突き上げ、喉が砂を飲み込んだように渇く。

 手のひらには冷や汗が薄く滲み、IDが汗で滑りそうになる。

 それでも、カワセは背筋を伸ばしたまま、一歩一歩を確実に刻んで階段を上がり続けた。


 蛍光灯の光が不規則に明滅する。

 階段を上がるごとに、時間の流れが少しずつ変わっていくような錯覚に襲われる。

 過去から未来へ、既知から未知へ、安全から危険へと続く道。


 最後の一段を上がり切ると、深い息を一つ吐いて心を落ち着かせる。

 毅然とした態度で男の前に立ち、IDを呈示する。

 声が震えないよう、言葉を一つ一つ慎重に紡ぐ。


「本日付で記述部記述士育成課から連続刻断失血殺人VORTEXヴォルテックス捜査本部への異動を命ぜられました。記述士カワセです。よろしくお願いいたします」


 公式的な言葉の羅列が、彼女の本心を隠す仮面となった。


「記述部から話は聞いている。VORTEX対策部のシキシマだ。今は捜査本部の統括をやってる。よろしく」


 シキシマは胸ポケットからIDを取り出した。

 その肩には、あの蝶がゆらゆらと羽を休めている。

 青紫の翅が微かに光を帯び、まるで秘密の言葉を伝えようとするように震えていた。

 カワセは思わず手を伸ばしかけ、途中で動きを止めた。

 蝶の翅が微かに光を放ち、言葉にならない何かを伝えようとしているように見える。


 蝶は、彼女の運命が動く時に現れる。

 そして今、それがシキシマの肩で羽ばたいている意味を、カワセは理解していた。


「なんだ、俺の肩に何か付いているのか?」

 カワセは視線を蝶からシキシマへと戻す。

「いえ、勘違いでした」


 嘘だった。

 しかし、この蝶の存在を説明する言葉を、カワセは持っていなかった。


「まあいい。上に会議室を用意してある。詳細はそこで伝える」


 いつの間にか蝶は消え、青紫色の光子だけが微かに空中を漂っていた。

 カワセは一瞬だけ、見えない重荷に肩を落とす。

 しかし、すぐに姿勢を正した。


 シキシマの背中を追いながら、カワセの視界の端で、蝶が再び舞い始めていた。

 その翅の輝きは、彼女にとって美しい呪いであり、避けられない運命の象徴だった。


 足音が廊下に響く。

 それは、新しい物語の始まりを告げる音だった。

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