誰かを好きになること
宿に到着したのは、日が傾きはじめた頃だった。
バスを降りると、ひんやりとした山の空気が肌を撫でる。街中とは違う静けさと自然の匂いに、どこか非日常を感じた。
「わぁ……すごい、大きな旅館……!」
佐々木さんが、木造の立派な旅館の外観を見上げて感嘆の声を上げる。
「部屋割り、今から発表すんぞー!」
沢田先生の声に、生徒たちはざわつきながら玄関前に集まる。
男子は四人一部屋、女子も同様に振り分けられる。
「男子四号室、春樹・河合・高山・裕貴!」
「よっしゃ! 裕貴と同室ー!」
春樹が喜び勇んでハイタッチを求めてくる。俺は苦笑しながら手を合わせた。
女子たちもそれぞれ部屋が決まり、佐々木さんと神木さんはどうやら同室のようだった。
部屋へ向かう廊下で、神木さんがチラリとこちらを振り返り、にやりと笑ってみせる。
「修学旅行ってさ、なにが起こるか分かんないよね?」
「……まさか何か企んでる?」
「さあ、どうだろうね」
その意味深なやり取りに、佐々木さんは少し困ったように笑いながら俺たちを見ていた。
※
部屋に荷物を置いた後、俺たちはすぐに館内を見て回り、夕食まで自由時間となった。
大浴場ののれんをくぐり、風呂からあがると、外はぽつぽつと雨が降り出していた。
空はもう薄暗く、旅館の中庭にかかる石灯籠の明かりがぼんやりと濡れて光っている。
「なあ裕貴、ちょっと散歩行こうぜ。風、気持ちいいし」
春樹が俺を誘うが、そこへ現れたのは――
「裕貴くん、少しだけ、付き合ってくれる?」
浴衣に着替えた佐々木さんだった。淡い色の浴衣に、髪は緩く結ばれていて……その姿は、正直、見惚れてしまうほどだった。
「え、ああ……うん」
春樹は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに笑って「おー、邪魔しねーようにしてやるよ」と言い残して立ち去っていく。
※
宿の縁側を抜け、濡れた石畳の道を、佐々木さんと二人で歩く。
雨はすっかり本降りになっていたが、旅館から貸してもらった和傘が、俺たちを小さな世界に閉じ込めていた。
狭い傘の下、肩と肩が少し触れる。浴衣の袖が風に揺れて、佐々木さんの横顔にかかる髪がふわりと踊る。
「……ねぇ、こうして歩いてると、ちょっとだけ夢の中みたいだね」
「うん、確かに……日常から離れてる感じがする」
「……私、こういうの初めてだから。誰かとこうして、傘をさして、浴衣着て、静かな夜を歩くなんて」
そう言って微笑んだ彼女の声が、雨の音の中でやけに近く響いた。
俺の心臓が、少しずつ速くなる。
「……裕貴くん」
「うん?」
「もしも、またこういう時間があったら……また、私と歩いてくれる?」
振り返った彼女の瞳に、灯籠の光が映っていた。
この瞬間、俺は何も言えず、ただ小さく頷いた。
すると彼女は、ふっと安堵したように笑って、また前を向いて歩き出した。
雨はまだ、やさしく降り続けていた。
その音が、俺たちの沈黙を包んでくれるようで、少しだけ嬉しかった。
――修学旅行の夜が、静かに更けていく。
それぞれの胸に、小さな恋の予感を残したまま。
※
旅館に戻ったのは、それからしばらくしてからだった。
浴衣の裾を気にしながら玄関をくぐると、ロビーの奥で何人かの男子が集まってトランプをしていた。その中に春樹の姿もあったが、俺と佐々木さんが並んで戻ってくるのを見ると、彼は一瞬だけ目を細め、そして何事もなかったように笑って手を振ってきた。
「おかえり〜。……仲良くしてんな?」
「べ、別にただの散歩だよ」
「ふーん? そういう“ただ”なら何回でもすればいいと思うけどな〜?」
茶化すような声に、佐々木さんが小さく笑う。俺は軽くため息をついて、旅館の階段を登った。
※
男子部屋に戻ると、春樹がすぐあとから入ってきた。
「なあ、裕貴。さっきの、なんか……すげぇ雰囲気だったな」
「雰囲気?」
「佐々木さん、めっちゃ嬉しそうだった。てか、なんかああいうの見てると、俺ちょっと……」
言葉を濁しながら、春樹は自分の布団にドサッと倒れ込む。
「……なんかさ、最近わかってきた気がするんだよな」
「何が?」
「佐々木さんの魅力っていうか、あの優しさとか、芯の強さってさ……ちょっとズルいよな」
春樹の顔は冗談っぽく笑っていたけれど、どこか本気のようにも見えた。
「……好きになりそうって思ったことあるよ」
その一言に、俺は胸の奥がぎゅっとなる。
「でも、もう遅いって分かってるけどな」
ぽつりと、そんな言葉を落とした春樹は、それ以上何も言わず、布団をかぶってしまった。
俺はその背中を見つめたまま、何も言えずにいた。
※
その夜、旅館の天井を見上げながら、俺は眠れない時間を過ごしていた。
佐々木さんとの傘の帰り道、そして春樹の告白にも似た独白。
誰かを好きになるって、こんなにも誰かを傷つけてしまうものなのか。
想いの交差点で、誰かが前に進めば、誰かが取り残される――
そう思うと、胸が痛かった。
(……それでも、俺はもう、答えを出してる)
心の中で、そっとそう呟いた。
この修学旅行が終わったとき、自分の想いに、きっとひとつの形を与えよう――そう強く決意しながら、俺はようやく、目を閉じた。




