出会えて本当に良かったこと
波打ち際を、俺と神木さんはゆっくりと歩く。
砂の感触が足の裏から伝わってきて、ひんやりとした海風が髪を撫でていった。遠くではカモメの鳴き声が聞こえ、時間だけがゆっくりと進んでいるように感じられた。
「……ねぇ、裕貴」
神木さんが、不意に口を開いた。
「合宿、楽しかった?」
「うん。すごく、楽しかったよ。……みんなと一緒にいる時間も、神木さんと話してる時間も」
そう言うと、神木さんは横目で俺を見て、ふっと小さく笑う。
「そっか。……私も、楽しかった。ね、裕貴」
足を止め、海を見つめながら、神木さんは続ける。
「こうして夏を過ごせるなんて、思ってなかったんだ。去年までの私は、ずっとひとりでいるのが当たり前だったから」
「……え?」
「中学のとき、私……あまりうまく周りと馴染めなかった。勉強はできたけど、それだけ。気づいたら一人で過ごすことが増えてて、誰かに声をかけられるのが、ちょっと怖かったんだ」
淡々と語られる彼女の言葉は、波の音に溶けるように穏やかで、それでいて、どこか心の奥を打つ力があった。
「高校に入って、環境が変わって……最初は期待もしてたけど、やっぱり怖くて。でもね、裕貴と話すようになって、少しずつ変わったの。――私、今、すごく幸せだよ」
そう言って、神木さんは俺に微笑みかける。その表情はどこまでも優しくて、儚げで……まるで、今この瞬間を心に焼きつけようとしているようだった。
「……俺も、神木さんと出会えて良かったよ。神木さんが、俺のことを見てくれて、話しかけてくれて……本当に救われたと思ってる」
「ふふ、なんか照れるね」
神木さんは苦笑混じりに言って、そっと自分の腕に手を添えた。
そして――
「……もしさ」
その声は、風に揺れるくらい小さかった。
「もし……悠里がいなかったら、私、もう少し欲張ってたかも」
「……え?」
「ごめん、今の忘れて」
神木さんはそう言って、少しだけ前を向いて歩き出した。
だけど、彼女の頬が、朝日に照らされてほんのり赤く染まっているのを、俺は見逃さなかった。
俺は何も言えなかった。ただ、神木さんの横顔を見ながら、その言葉の意味を噛み締めていた。
※
戻ったころには、合宿場のあちこちで朝の支度が始まっていた。
青原先輩が軽快な声でバスタオルを振り回し、澤部さんが朝食の手伝いをしようとキッチンの方へ走っていく。
沢田先生の「早くしないと釣りに連れて行くぞ〜!」という声が遠くで響いた。
それぞれが、それぞれの朝を迎えている。
でも、俺の中ではもう――
ひとつの覚悟が固まりつつあった。
(やっぱり……佐々木さんに、気持ちを伝えよう)
彼女の不在を埋めることはできない。楽しい思い出も、嬉しい言葉も、それはそれで本物だけど――それでも。
俺の心は、あの青みがかった長い髪と、優しい笑顔を持つ彼女に、強く引かれているのだと。
そして、この夏が終わる前に、それを言葉にしよう。
自分の気持ちを、正面から届けよう。
波の音が遠くで響いている。
そうして俺は、新しい朝を迎える。




