表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/89

母親

 今日は土曜日。


 そして、六月。


 雨が多くなり、じきに梅雨入りしそうな気配が漂っていた。


 あいにく外はしとしとと降り続く雨。


 しかし――


 筋トレに休みはない!


 俺は雨具を羽織り、滑りにくい靴を履いて外へ出た。


 道にはいつもより人が少なく、街が静かに沈んでいる。


 濡れたアスファルトが光を反射し、どこか幻想的な景色が広がっていた。


「なんか、こういうのも新鮮だな……」


 そう思いながら走っていると、ふと遠くに見覚えのある車が見えた。


 ――母の車。


 俺の心臓が、一瞬だけ強く跳ねる。


 車は俺とすれ違うように走り去り、母の横顔が一瞬だけ見えた。


 無表情だった。


 それだけで、俺の気分は思わず曇る。



 外でのランニングを終え、俺はずぶ濡れになった雨具を玄関で拭いていた。


 その時、背後から聞き慣れた声が聞こえた。


「お坊ちゃん……」


 振り向くと、佐々木さんが立っていた。


 しかし、いつもの明るい表情とは違う。


 彼女の顔にはどこか陰りがあった。


 胸の奥で嫌な予感がする。


 その予感が的中するのに、時間はかからなかった。



「ちょっと!  礼儀がなってないんじゃないの!? メイド長を呼びなさい!」


 客室から母の怒号が響き渡る。


 俺の胸が締めつけられるような感覚に襲われた。


 ――母さんが帰ってきてる。


 足を早め、客室へ向かうと、そこには久々に見る母の姿があった。


「母さん!」


 俺が声をかけると、母は鋭い目で俺を見た。


「……貴方、誰?」


 困惑した表情だった。


 その反応に、俺は少し苦笑する。


 無理もない。最後に母と会ったとき、俺はまだ太っていて、気弱で、いつも俯いていた。


 だが今は違う。


 鍛えた身体、引き締まった顔つき――俺は変わったんだ。


「裕貴真一郎だよ」


「え……? 真ちゃん?」


 母の表情が驚きに変わる。


「そうだよ。ここ最近、鍛えて痩せたんだ」


「そ、そう……」


 母は一瞬だけ、何かを考えるような顔をしたが、すぐに険しい表情に戻った。


「でもそれより、なんで怒鳴ってたの?」


 俺の問いに、母は鋭く言い放つ。


「メイドがね、私の服に水をこぼしたのよ! それもよりによって、この高級な服に!」


 ――たったそれだけのことで、こんなに怒鳴り散らしていたのか。


 「お坊ちゃん、すみません……これも全て私のせいです……」


 おそるおそる現れたのは――佐々木さんだった。


「そうよ! 全部あなたが悪いのよ! この服、あなたに弁償できるの!?」


 母の激しい叱責が佐々木さんに浴びせられる。


 その場の誰もが、母の怒りに呑まれ、反論できない空気が広がっていた。


「今すぐ洗濯してきますので……」


「そういう問題じゃないわ!」


「すみません……」


「だいたいね――」


 母はなおも言葉を続け、佐々木さんを責め続ける。


 理不尽な言葉ばかりを並べて。


 いつも明るい彼女の瞳が、今は潤んでいた。


 ――もう、見ていられない。


「母さん、それ以上やめてくれ」


 俺は冷静に言った。


 客室の空気が一瞬で凍りついた。


「は? 真ちゃん、母親に逆らうわけ?」


 母が信じられないとでも言うように俺を見る。


「それ以上やめろって言ってるんだ。聞こえないのか?」


「……真ちゃん? 私はあなたのためを思って!」


「母さん、誰にだって失敗はある。母さんだって、そうでしょ?」


「ッ……!」


 母の表情が固まる。


「母さん、昔いつも言ってただろ? 失敗をしても、それは立派な経験だって。だからさ、それ以上この人を責めるのはやめてほしい」


 沈黙が落ちる。


 母は、しばらく俺をじっと見つめたあと――


「……分かったわ。言いすぎたわね」


 そっぽを向きながら、佐々木さんに謝罪した。


「ごめんなさい」


 ――それが、母の精一杯の譲歩だったのだろう。


 その場はなんとか収まったが、重たい空気は残ったままだった。



 俺は客室を出て、家の廊下を歩いていた。


 怒りと疲れでため息がこぼれる。


「裕貴くん!」


 背後から、佐々木さんの声がした。


 振り向くと、彼女は涙を滲ませながらも、笑顔で俺に向かって手を振っていた。


「ありがとう!」


 彼女のその言葉が、母の冷たい言葉の余韻をかき消してくれた気がした。



 その後、母が家に帰ってきた理由を知った。


 仕事がひと段落し、しばらくここに滞在するらしい。


 それを聞いた俺は、心の中でそっとため息をつく。


 ――またしばらく、家の中が張り詰めた空気に包まれるのか。


 母との距離が近づいたはずなのに、俺はなぜか、遠ざかっているような気がした。


ここまで読んでくださりありがとうございます!

面白い!と思ってくださった方はブクマ、☆、評価の方をよろしくお願いします!

しばらくの間、毎日投稿しますのでよろしくお願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ