母親
今日は土曜日。
そして、六月。
雨が多くなり、じきに梅雨入りしそうな気配が漂っていた。
あいにく外はしとしとと降り続く雨。
しかし――
筋トレに休みはない!
俺は雨具を羽織り、滑りにくい靴を履いて外へ出た。
道にはいつもより人が少なく、街が静かに沈んでいる。
濡れたアスファルトが光を反射し、どこか幻想的な景色が広がっていた。
「なんか、こういうのも新鮮だな……」
そう思いながら走っていると、ふと遠くに見覚えのある車が見えた。
――母の車。
俺の心臓が、一瞬だけ強く跳ねる。
車は俺とすれ違うように走り去り、母の横顔が一瞬だけ見えた。
無表情だった。
それだけで、俺の気分は思わず曇る。
※
外でのランニングを終え、俺はずぶ濡れになった雨具を玄関で拭いていた。
その時、背後から聞き慣れた声が聞こえた。
「お坊ちゃん……」
振り向くと、佐々木さんが立っていた。
しかし、いつもの明るい表情とは違う。
彼女の顔にはどこか陰りがあった。
胸の奥で嫌な予感がする。
その予感が的中するのに、時間はかからなかった。
※
「ちょっと! 礼儀がなってないんじゃないの!? メイド長を呼びなさい!」
客室から母の怒号が響き渡る。
俺の胸が締めつけられるような感覚に襲われた。
――母さんが帰ってきてる。
足を早め、客室へ向かうと、そこには久々に見る母の姿があった。
「母さん!」
俺が声をかけると、母は鋭い目で俺を見た。
「……貴方、誰?」
困惑した表情だった。
その反応に、俺は少し苦笑する。
無理もない。最後に母と会ったとき、俺はまだ太っていて、気弱で、いつも俯いていた。
だが今は違う。
鍛えた身体、引き締まった顔つき――俺は変わったんだ。
「裕貴真一郎だよ」
「え……? 真ちゃん?」
母の表情が驚きに変わる。
「そうだよ。ここ最近、鍛えて痩せたんだ」
「そ、そう……」
母は一瞬だけ、何かを考えるような顔をしたが、すぐに険しい表情に戻った。
「でもそれより、なんで怒鳴ってたの?」
俺の問いに、母は鋭く言い放つ。
「メイドがね、私の服に水をこぼしたのよ! それもよりによって、この高級な服に!」
――たったそれだけのことで、こんなに怒鳴り散らしていたのか。
「お坊ちゃん、すみません……これも全て私のせいです……」
おそるおそる現れたのは――佐々木さんだった。
「そうよ! 全部あなたが悪いのよ! この服、あなたに弁償できるの!?」
母の激しい叱責が佐々木さんに浴びせられる。
その場の誰もが、母の怒りに呑まれ、反論できない空気が広がっていた。
「今すぐ洗濯してきますので……」
「そういう問題じゃないわ!」
「すみません……」
「だいたいね――」
母はなおも言葉を続け、佐々木さんを責め続ける。
理不尽な言葉ばかりを並べて。
いつも明るい彼女の瞳が、今は潤んでいた。
――もう、見ていられない。
「母さん、それ以上やめてくれ」
俺は冷静に言った。
客室の空気が一瞬で凍りついた。
「は? 真ちゃん、母親に逆らうわけ?」
母が信じられないとでも言うように俺を見る。
「それ以上やめろって言ってるんだ。聞こえないのか?」
「……真ちゃん? 私はあなたのためを思って!」
「母さん、誰にだって失敗はある。母さんだって、そうでしょ?」
「ッ……!」
母の表情が固まる。
「母さん、昔いつも言ってただろ? 失敗をしても、それは立派な経験だって。だからさ、それ以上この人を責めるのはやめてほしい」
沈黙が落ちる。
母は、しばらく俺をじっと見つめたあと――
「……分かったわ。言いすぎたわね」
そっぽを向きながら、佐々木さんに謝罪した。
「ごめんなさい」
――それが、母の精一杯の譲歩だったのだろう。
その場はなんとか収まったが、重たい空気は残ったままだった。
※
俺は客室を出て、家の廊下を歩いていた。
怒りと疲れでため息がこぼれる。
「裕貴くん!」
背後から、佐々木さんの声がした。
振り向くと、彼女は涙を滲ませながらも、笑顔で俺に向かって手を振っていた。
「ありがとう!」
彼女のその言葉が、母の冷たい言葉の余韻をかき消してくれた気がした。
※
その後、母が家に帰ってきた理由を知った。
仕事がひと段落し、しばらくここに滞在するらしい。
それを聞いた俺は、心の中でそっとため息をつく。
――またしばらく、家の中が張り詰めた空気に包まれるのか。
母との距離が近づいたはずなのに、俺はなぜか、遠ざかっているような気がした。
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