出会い
「坊っちゃん! 坊っちゃん!」
耳元で響く声と、揺さぶられる感覚。布団の中で目を開けると、ぼんやりとした視界の向こうにメイドの姿があった。
「今日も学校に行かないんですか? 坊っちゃん」
「……行かない!」
俺は布団を深くかぶり、まるで外界から逃げるように目を閉じる。だが、それが現実を消し去ることにはならない。
メイドは少しの間沈黙したあと、静かに言った。
「……学校に行く荷物は置いておきますので、もし行く気になったら、お申し付けください」
そう言って、彼女は部屋を出ていった。扉の閉まる音が、やけに重く感じられる。
学校になんて行くものか。
どうせまた、あの冷たい視線、嘲笑、陰口に晒されるだけだ。
脳裏に、耳障りな笑い声が響く。無数の影が俺を囲み、俺を指さして笑っている。
「こんな体だし、まともに人と話すことすらできない。俺が学校に行ったところで……」
ふと、立ち上がり、部屋の隅にある鏡を見た。
映ったのは、冴えない顔に膨れた肉体。太った体は服に押し込められ、丸い頬は過去の俺が捨てたはずの甘いお菓子の記憶を物語っている。
ため息をつく。
「俺……一生、このままなんだろうか」
そう呟いた言葉は、誰にも届かず、ただ空間に溶けていった。
***
『裕貴くぅん』
脳裏にこびりついた声が蘇る。あの嘲笑とともに。
俺は裕福な家庭に生まれた。大企業の社長を務める親のもと、何不自由なく育てられた。高級な料理、ブランド物の服、専属の家庭教師――手に入らないものなど何もなかった。
ただひとつ、「普通の青春」以外は。
バランスを考えない食事に溺れ、気づけば肥満児になっていた。小学校の頃は「ぽっちゃりしてるね」で済まされていたが、中学に上がる頃には違った。
「金だけ持った豚」
そう呼ばれるようになった。
どんなに親が社会的地位の高い人間でも、学校の中では関係ない。むしろそれが標的になった。俺は内気で、いじめに抗う術もなかった。
親は、俺の境遇を知りながらも、見て見ぬふりをした。
いじめられていることを話したこともあった。だが、返ってきたのは「お前が弱いから悪いんだ」「人間関係を築けないお前が悪い」という冷たい言葉だった。
その結果、俺は学校に行かなくなった。
ただ、進級だけはできるよう、親が学校と取り引きしたらしい。俺は何もせずに高校二年生になった。
「……学校、行くか」
ふと、そう思った。
何の気まぐれかはわからない。でも、このままでは何も変わらないことだけは、わかっている。
***
「坊っちゃん、朝食ができまし――坊っちゃん!?」
専属メイドの佐々木さんが、目を丸くする。無理もない。俺が制服に袖を通しているのだから。
彼女は長い間、俺のことを気にかけてくれていた。きっと、何度も声をかけようとしてくれていたのだろう。
俺はぎこちなく笑ってみせた。
「……今までごめん。今日、頑張ってみるよ」
佐々木さんの瞳が潤み、口を押さえた。
「……はい! すぐに車を手配します!」
***
久しぶりに浴びる朝日が、目に眩しい。
空気が澄んでいる。こんなに気持ちのいい朝を感じるのは、一体いつぶりだろうか。
黒塗りの車が待機している。運転手が恭しくドアを開けた。
「お待ちしておりました。では、お乗りください」
「……あ、ああ」
久々の外出に緊張しつつ、俺は車に乗り込んだ。
***
学校が近づくにつれ、心臓がどんどん速くなる。
バクバクと音を立てる鼓動が、体中に響く。
大丈夫か? 本当に大丈夫なのか?
吐き気すら覚えながら、俺は車の陰に隠れるようにして、校門の外で降りた。
人目を避けながら、歩き出す。
校舎までの道は、驚くほど静かだった。朝が早すぎるせいか、まだほとんど生徒が登校していない。
そのおかげで、俺は誰にも気づかれることなく、自分の教室へと向かうことができた。
***
静寂の中、教室の扉をそっと開けた。
「……ここが、俺の」
俺の新しい居場所になるはずの教室。しかし、中には誰もいないと思われた。
だが――
窓際に、一人の少女がいた。
長い髪が、潮風に揺れている。海に面した教室。窓から見える風景に溶け込むように、彼女は静かに佇んでいた。
その横顔は、どこか儚げで、それでいて力強さを感じさせた。
「ん?」
彼女は、俺に気づいた。
そして、眩しいほどの笑顔で言った。
「おはよう」
その瞬間、俺の中で何かが変わる音がした。
それが何なのかは、まだわからない。
ただ、一つだけ確かなのは――
俺は、彼女に一目惚れしていた。
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