第4話 大きな子犬
皇帝は、翠薇が新しく賜った瑶景殿に、二日と空けずに渡るようになった。
「絳凱様──とうに夜は明けております。そろそろ起きてくださいませ」
今朝も、翠薇はひとり寝の気楽さとは無縁だった。
寝台に自分以外の温もりを感じるのは、姉や丹なら心地良く幸せなことだっただろう。でも、その相手が彼女をたやすく組み敷ける男だと安心して寝入ることなどできなかった。
「朕は皇帝だぞ。いつ寝ようといつ起きようと、指図は受けぬ」
嘯きながら、絳凱は腕を伸ばして起き上がろうとした翠薇を捕らえた。悪戯っぽく微笑んで二度寝に誘う眼差しに、不安も恥じらいも欠片も見えない。
(まるで、大きな子犬にじゃれつかれているようね)
皇帝を振りほどくこともできないから、翠薇は諦めて苦笑した。指を伸ばして寝乱れた髪を梳いてやると、絳凱は意外なほどに幼い表情で目を細めた。そんなところも、撫でられて喜ぶ子犬を思わせる。可愛い──などとは、翠薇は断じて思わないけれど。
ともあれ。宮女も宦官も立ち入らない寝台の帳の奥で、魁国の皇帝その人が寵妃の膝を枕に惰眠をむさぼっているところなど、誰にも見せられない。
見られたら、皇帝の権威云々の前に翠薇の命が危うい。孫太后の命令は、生さぬ仲の子が反抗を考えなくなるていどに骨抜きにしろ、というものだ。人が眉を顰めるほどに溺れさせるのは、翠薇の増長だと認識されるだろう。
だから、翠薇は絳凱の頬を両手で包んで、覗き込んだ。顔では微笑んだまま、声からは甘さを拭って、やや真剣な調子に改める。
「太后様にも同じように仰いますか?」
「……意地悪を申すな」
厳しい義母の孫太后に知られれば叱責される、とはさすがに承知しているらしい。慌てて起き上がった絳凱に、翠薇は軽やかに声を立てて笑った。
「意地悪を仰るのは絳凱様のほうでございます」
彼の胸に凭れて、寝衣の袖で目元を抑える。わざとらしいくらいの所作のほうが、絳凱には分かりやすいだろう。
「太后様の不興を買ったら、私は瑶景殿を追い出されてしまうかも。そうすれば、お会いすることは難しくなってしまいます」
「それは──困るな」
貴方の傍にいたいのに、と。媚びを交えて訴えると、絳凱はあっさりと姿勢を正した。とても扱いやすい子だ。
「では、良い子にして起きてくださいますね?」
「……うん」
「朝餉の粥を、食べさせて差し上げますから」
「戯れが過ぎるぞ」
「まあ、失礼いたしました」
あからさまに子供扱いしても、絳凱は怒らず、軽く唇を尖らせるだけだ。二十歳をいくつも越えた青年にしては、意気地のないこと──とも言い切れない。
(ずっと、こうしたかったのでしょうね。でも、相手がいなかった……いいえ、自分でも気づいていなかったのかもしれない)
結局のところ、この男も生母殺しの祖法によって実の母を失っているのだ。
育ての親の孫太后は、正しく厳しく、教師としては優れていたのかもしれない。けれど、優しさとは無縁だっただろう。母と呼び敬ってはいても、絳凱が甘えたことなどありそうにない。
(大の男を、子供のように甘やかそうだなんて思いつかないのは当然よ)
しかも、その男は魁国の皇帝で、母親代わりの太后の軛から逃れようとしているところなのだから。
子を生した妃嬪が何人かいるとはいえ、翠薇の姉の婉蓉のほかには目立って寵愛を受けた女がこれまでいなかったのも、その辺りに理由がありそうだ。
皇后をはじめとした妃たちは、皇帝に愛されるつもりで後宮に入ったのだろう。容姿や衣装、立ち居振る舞い、歌舞音曲に美酒美食──若い皇帝の気を惹くための趣向を凝らして臨んだのだろうに。
絳凱の望みは、美姫を侍らせることではなかった。もっと単純に、優しい母に抱かれ愛され、際限なく甘やかされることだったのだ。
これまでは後宮の女の誰ひとりとして気付かなかったことに、翠薇は気付いた。何も、彼女の洞察力が優れているというわけではなく、姉の振る舞いをなぞって接したらそうなった、というだけだけれど。
「義母上がそなたを気に入ってくれて、良かった。……ほかの女は、どうも良い顔をなさらないのだ」
「私が、というよりは──絳凱様の御心を汲んでくださったのでしょう。太后様は優しい御方ですから」
翠薇よりもはるかに大柄な絳凱が、身体を縮めるようにして彼女の腕の中に収まっている。まるで、彼女自身の幼いころに、姉に抱かれていた姿のようで──翠薇の胸中は、荒れ狂う。
(私だって、もっと姉様に甘えたかった。丹だって……!)
この男は、二重三重の意味で翠薇から姉を奪ったのだ。
寵姫として召すことで、幼い翠薇の傍から姉を奪った。彼女が寂しさに泣くのを余所に思う存分姉に甘えて、最期には命さえ摘み取った。
翠薇の腕に力がこもるのは、大きな子供のような絳凱に愛を注ぐためではなく、そうしないと怒りと悲しみと憎しみで彼女の心が砕けてしまいそうだからだ。
「……宮女を呼ぶ前に、お姿を整えませんと。御髪を梳いて差し上げましょう」
「ああ、頼む」
母のような温もりに、心地良さげに目を細める絳凱は、翠薇の想いに気付いていない。彼女に感情があることさえ分かっていないかもしれない。ただ、彼にとって都合良く無償の──そう思える──愛を与えてくれる存在が現れた、と思っているだけで。
その無知と無邪気さには呆れかえるけれど。でも、翠薇にとっても都合の良いことだった。
(私は太后のように嫌なことは言わないわ。思う存分、甘えて良いの。そして、私に頼りなさい)
皇帝たるもの、太后など無視しても良いのだろうに。絳凱は、まだ孫太后の目を恐れている。疎むこともあるようだけれど、排除しようとは考えもしていないらしい。
だから、絳凱は太后が命じるままに後宮を治めている。
丹を殺したことになった左昭儀は死を賜ったし、皇后も、身内の女のどちらを死なせるかを選ぶように迫られている。
姉を見捨てた女たちが苦しむのは、良い。けれど、太后の意に従うだけでは翠薇の目的は叶わない。太后自身が、彼女の復讐の対象なのだから。
(この男と太后の仲を裂かないと。あの女に反発を持ってもらうために──どうすれば良いかしら)
具体的な策は、まだ見えないけれど。前提として、絳凱の心を捕らえることが必要なのは間違いない。
「絳凱様。愛しい御方。姉ともどもお仕えできて、私はとても幸せですわ」
だから、翠薇は姉の面影の力を借りて絳凱に囁く。思ってもないことを、蕩けるような甘い声で。毒を混ぜた蜜を注ぐように。
毒の効き目が表れるのは、いったいいつになるだろう。