第2話 翠薇の筋書き
孫太后の軽やかな笑い声が室内に響いた。
「大きな口を叩くものだ。──して、その真意は?」
とはいえ、猛禽の獰猛さを帯びる眼差しは欠片も笑っていない。
この女にとっては翠薇は鼠か小鳥に過ぎないのだ。つまらないことを述べたなら、たちまち鋭い爪と嘴で引き裂かれるのだろう。
「太子様が亡くなられたことで起きることがふたつ、ございます」
当然控えているべき宮女も宦官も、どういうわけかここにはいない。太后の気分ひとつで、翠薇は死に値する無礼を働いたことにされるかもしれないのだ。
命を相手の掌中に握られた状況に、背が冷や汗で濡れるのを感じながら、翠薇は務めて柔らかく微笑んだ。
「ひとつは、皇上が遠征から戻られたこと。太后様には、さぞご安心なされたことと存じます」
「……そうだな。愛しい子が荒野に斃れることなど望むものか」
孫太后の相槌は、半分は本音だろう。けれど、翠薇にはもう半分の欺瞞と打算が透けて見える。
太后は、生さぬ仲の皇帝に絶大な影響力を持っている。
けれど、将来に渡って母親面ができるかどうかは分からない。
幼いうちは義母の言いなりになっていた絳凱も、成長するにつれて自らの考えで国を動かしたいと思い始めている──と、宦官などはまことしやかに噂している。
この度の遠征は、絳凱が義母の反対を押し切って決行したものだった。太后にとっては子供の反抗のようなもの、さぞ苦々しく思っていただろう。
(戦場には監視の目も届かないから。だから、早く呼び戻したかったんでしょう?)
皇太子が危篤となれば、引き返さないわけにはいかない。事実、絳凱は機嫌を傾けながらも皇宮に戻ったのだ。義母の思い通りになったのだとは、気付いていないだろうが。
(……丹は、そんなことのために……!)
皇太子殺しの動機に踏み込んだのに、太后は動揺を見せなかった。
「皇上に、取り入って……戦いを勧める者も多い、とか。嘆かわしいことで、ございますね」
反面、翠薇は声を揺らしてしまう。怒りと憎しみを抑えきれないのはまったく未熟で、役者として格が違うのを思い知らされる。
「例えば皇后もその類だな。逸る血気を御せぬ玫にも非はあるのだが──諫めることもしないのは不心得ではあろう」
とはいえ、翠薇の指摘は太后の意に適ったはずだ。遠征の陰で繰り広げられた勢力争いに、ちゃんと気付いていると匂わせたから。
(皇太后と皇后は仲が悪い……嫁と姑の関係だもの、当たり前だけど)
皇后は、太后の影響下から皇帝を引き離したかった。そして太后は、その企みを阻止したかった。
ふたりの女には、それぞれ与する官も諸侯もいるはずだ。左昭儀の実家の辟閭家は、恐らく太后についた。何らかの取引の結果、皇太子の位が見返りか褒美として約束されていたのだろう。
(寄ってたかって、丹の命をもののように扱って……!)
ぎり、と歯噛みしてから──翠薇は呼吸を整える。
ここからが、本題だ。
「そしてもうひとつ。太子様が亡くなられた以上は、新たな皇太子を立てなければなりませぬ。無論、太后様はすでにご深慮あそばされていることでございましょうが」
翠薇はもはや姉の面影をなぞりはしない。淑やかさも慎ましさも捨てて、太后の鋭い眼差しを正面から受け止める。
猛禽の前の小鳥に過ぎないのだとしても。精いっぱい、囀ってみせよう。声が気に入られたら、あるいは飼っても良いと思ってもらえるかもしれない。
「そう──丹に万一のことがあれば、左昭儀の子を、とは考えておった。どういうわけか、その道は潰えてしまったのだが」
「ほかの皇子様がたというと、右昭儀様か落羅夫人の御子様になりましょうね」
間髪入れずに答えると、孫太后は少し興味深げに目を瞠った。小鳥が、変わった声で鳴いたと思ったのだろう。
「そなた、少し前まで婢同然の扱いだったのであろう。後宮の序列をよく把握しているものだ」
「卑しい身であればこそ、高貴な方々を恐れるものでございますから。よく──見ておりました」
少なくともこの部分だけは、偽りのない真実だった。
姉が殺されてからの七年、翠薇は息を潜めて見つめてきたのだ。地に伏して、絢爛な裳裾が行き交うのを見上げながら。
どうして姉が死ななければならなかったのか。誰がそれをさせたのかを知るために。
後宮に渦巻く嫉妬や陰謀をよく知ることは、いずれ丹のためにもなると思っていた。誰を頼れるか、誰を警戒すべきか──教えてやれれば、と思っていたのに。
(無駄になってしまった。……いいえ。無駄にはしない……!)
丹を支えることはできなくても、見聞きした情報はすべて、翠薇の剣にも盾にもできるはず。
「ならば当然、弁えていよう。右昭儀は皇后の妹。落羅夫人も、皇后の慕容家とは親しく交わっているということを」
だから、太后の鋭い追及を躱すことだって、できる。
「はい。ですから、皇后様にお選びいただければ良いと思いますわ。どなたが次の皇太子になるべきかを」
「それは──」
らしくなく絶句した孫太后は、何もかも自分で選び、決めるということに慣れ切っていたのだろう。皇太子の選定をほかの者に任せるなど、考えたこともなかったに違いない。
(不意打ちを浴びせられた気分でしょう。良い気味だわ……!)
奇襲を成功させた喜びで、翠薇の唇は自然と笑みの形に綻んだ。声も、滑らかに歌うように紡ぎ出せる。その内容は、軽やかで楽しげな調子とは不釣り合いな、冷酷なものになるけれど。
「右昭儀様も落羅夫人も、皇后様のご姉妹同然。皇子様がたは、甥御様同然。どなたが相応しい器をお持ちか、皇后様は誰よりよくご存知でしょう」
皇太子が立つ時、その生母は死を賜る。それは、誰も逆らえない魁国の祖法。その重さは、孫太后も重々承知しているはずだ。
「……姉妹同然の者たちの、どちらを死なせるか。皇后に選ばせるというのだな」
太后は、痩せた指先で額を抑えた。
翠薇の案を残酷だと非難するほど繊細な女ではないだろう。精緻に髪を結い上げ、金や翡翠で飾り立てた頭の奥では、冷徹な計算が行われているはず。
(私が言うまでもなく、分かるでしょうけど)
皇后の一族から皇太子を選んだとしても、その派閥がのさばるとは限らない。むしろいがみ合うように仕向けられるかもしれないのだ。
「皇太子の──ひいては皇帝の生母として国史に名を残すのは、たいへんな名誉と存じます。一族の方々もさぞお慶びになるでしょう」
翠薇がにこやかに述べたことは、太后にはまったく逆に聞こえるだろう。もちろん、彼女もそのつもりで語っている。
選ばれた──死を賜ることになる女の一族は、さぞ皇后を恨み、かつ不満を抱くだろう。
左昭儀の実家は、あるいは計算ずくで娘を切り捨てることにしたのかもしれない。太后と誼を結ぶのは、それなりの利益があることだろうから。
けれど、今回はまた話が違う。皇后が実権を握っているならまだしも、太后と対立している最中では、外戚として旨味を吸うことは難しい。
(目障りな皇后の派閥に、不和の種を撒いてやれるのよ。お気に召すかしら?)
少なくとも、翠薇は愉しい。
姉のことは平然と見捨てた女たちが、身内の誰を殺すかで懊悩するのだ。しかもそれを、安全な高みから眺めることができるのだから。
面白いに決まっている。