第1話 孫太后
その日、翠薇は、皇太后の殿舎に参上することになっていた。
丹の葬礼が終わった後、彼女は貴人の位を与えられた。新たに皇帝に仕えることになった妃として、後宮の女主人の機嫌を伺うのは当然のことだった。
(孫太后──三十年に渡って後宮のみならず皇宮に君臨する女……)
皇太后の居所、後宮の最奥の宣光殿の絢爛な装飾に目を細めながら、翠薇は殿舎の主の来歴を改めて思い起こした。
先帝の皇后であった女。今上帝絳凱の生母ではないものの、我が子同様に養育したことから、彼には尊崇の念をもって遇されている。
女ながらに学識に優れ、幼くして即位した絳凱を援けて政にも関わっている。
後宮の女たちがひれ伏すだけでなく、外朝の官も諸侯も頼り、時に恐れる──魁国の中枢にいる女傑と評して良いだろう。
(後宮で足場を固めるなら、決して疎まれてはならない相手……!)
翠薇は、皇太子の死のどさくさに紛れて、皇帝の気まぐれで手がついた怪しげな女に過ぎない。すでに皇太后からの心証は悪いはず。
それを覆すための手札を、用意してはいるけれど──油断せずに、かからなければ。
* * *
貴人として賜った衣装の裳裾は長く、孔雀の尾羽のように、平伏する翠薇の背後に広がった。
このような豪奢な装いで身を飾るようになってまだ日が浅いけれど、なかなかの立ち居振る舞いになっているのではないだろうか。
何しろ、もの心ついてからというもの、翠薇は後宮の妃嬪の姿を間近に眺めてきた。足の運び方、衣装の裾の捌き方、眼差しの使い方に言葉遣い──手本は、いくらでもあったのだ。
低く頭を垂れると、髪に挿した歩揺や、耳に提げた金細工がしゃらり、と鳴った。その音の余韻を聞きながら、翠薇は上座を占める皇太后へ口を開いた。
「このたび鴻嘉殿を賜りました、薛貴人でございます。誠心誠意、皇上にお仕えいたしますゆえ──」
「面を上げよ」
が、彼女の口上は叩き斬るような鋭い声によって遮られた。
「──御意」
命令に従って身体を起こすと、猛禽を思わせる鋭い目が翠薇を睨め下ろしていた。長榻にゆったりと身体を預ける様は、獅子が寛ぐようにも見えて、王者然とした風格を漂わせる。
(この女が──)
齢は六十に手が届くかどうかと聞いているが、結い上げた髪は黒々として、老いの気配は見えない。長年に渡って権勢をふるい続けるだけあって、その女の痩身からは帝王めいた覇気が立ち上るかのよう。
翠薇の顔をじっくりと眺めた後──孫太后は不機嫌そうに吐き捨てた。
「姉に似ておるな」
「はい。皇上もそのように仰ってくださいました」
翠薇が目を伏せるのは、かつて同じようにこの場に参じたであろう、姉の婉蓉をなぞってのことだ。
(使い捨てた数多の者たちのひとりに過ぎないのでしょうに。よく姉様を覚えてくれたわね……!?)
目の前にいる女は、姉が懐妊した時も、死を命じられた時も同じく後宮に君臨していた。一応は姉を愛した絳凱が、生母殺しの祖法に諾々と従ったのは、育ての親である孫太后の意向を受けてのことでもあったのだろう。
だから──この女も、翠薇にとっては仇のひとり。いずれは姉への仕打ちを悔やませてやると決めている。
「早くそなたと話をせねばと思っていたのだ」
「恐れ入ります。光栄でございます」
とはいえ、今は立ち向かうべくもない。これ以上孫太后の機嫌を損ねては、翠薇はこの部屋を生きて出られるかどうかも危ういのだ。
「よくもぬけぬけと……!」
ほら、恭しく従順に、かつ淑やかに答えたのに、太后は苛立たしげにいっそう声を尖らせた。その理由は、翠薇にも重々心当たりがある。
「左昭儀について讒言したとか。いったいどのような料簡だ」
「讒言、などと──」
ほら来た、と思いながら。翠薇は戸惑うふりで声と眼差しを揺らせた。
彼女ではなく、心優しい姉がこの場にいたならそうしたであろうように。いかにも謂れのないひどい疑いをかけられて、怯え困惑している、という体で。
「思い詰めた様子の宮女がおりましたゆえ、問い質したのです。それで……あの、恐ろしいことを申しましたので。皇上のお耳に入れないわけには、と」
「言わせたのはそなたではないのか? 哀れな丹を死なせた咎を免れるために、ありもしないことを言い含めたのではないのか」
「そのような──」
さすが、孫太后は翠薇の介入を正確に読んでいる。
でも、それは翠薇のほうでも同じこと。呼び出された場で追究されることも、何を言うべきかもとうに考えてある。
「私は……お調べするように申し上げたまででございます。丹が──いえ、太子様が病気で亡くなられたのではなかったなどと、信じたくはございませんでしたのに」
「玫は卑しい女の言葉を信じて子を生した妃を廃したのか。嘆かわしいこと」
皇帝の諱を呼び捨てて、太后は深く嘆息した。無論、その目は炯々と輝いて、翠薇の言葉に綻びがないかと窺っている。
「苦渋のご決断かと存じます。皇上は、たいへん御心を痛めておいででした」
「左昭儀こそ胸が張り裂けんばかりの想いをしているだろう。何の咎もないというのに」
そして、翠薇だって。悲しみ嘆くふりで、目元を押さえた袖の影から、対峙する権力者の一挙一動を窺っている。
(左昭儀が無実だと知っているのね? やはり?)
では、孫太后の不機嫌は、怪しげな女が貴人の位を得たからだけではないのだ。
翠薇の推測が当たっているなら、左昭儀にはまだ使い道があったのだろう。その目算が外れたからこそ、元凶である翠薇が八つ当たりを受けているのだ。
絶大な権力者を相手に、八つ当たりで済んでいるのは──翠薇が嘘を吐いているという証拠がないからだ。そして、もうひとつ理由がある。
「でも……左昭儀様の殿舎から、毒が、見つかってしまいましたから」
百戦錬磨の女傑のこと、忘れるはずもないだろう。言い辛そうに、おずおずと述べながら、翠薇はいっそう目を凝らす。
(どう答えるの? 認めるの? 握り潰すの?)
翠薇が証拠まで捏造したのだ、との主張はさすがに苦しいだろう。彼女に毒を手に入れる手段などないのは、調べればすぐわかる。あの桃花に毒を渡した黒幕は何者か──孫太后は、よく知っているはずなのだけれど。
(お前が、丹を殺した。私のことも、その咎を押し付けて殺そうとしていた……!)
捻じ曲げられた筋書きを、この女は強引に修正しようというのだろうか。翠薇や桃花の口を封じて、証拠などなかったことにして。
孫太后は、翠薇の指摘にすぐには答えず、黙考している。
圧し掛かるような沈黙が、重くて怖い。翠薇の額から、ひと筋の汗が伝う。
(私が死ねば、皇帝は不審にも不快にも思うはずよ)
太后の胸先ひとつで殺されずに済むための、翠薇の希望のなんとか細いことだろう。
絳凱は、しょせん姉を見殺しにしたていどの男だ。義母との対立を避けて、召したばかりの寵姫の死に目を瞑るかもしれない。
「……不思議でならぬ」
「──は?」
翠薇の不安をたっぷりと煽っておいて、太后はふと、呟いた。目を見開いた翠薇に向けられた笑みは意外なほどに穏やかで、けれど同時に剣呑だった。
「なぜ、よりによって左昭儀だったのだろうな。皇子を持つ──皇太子を害する理由を持つ妃はほかにもいただろうに」
思いのほかにはっきりと直截に、孫太后は斬り込んできたようだ。
(陥れる相手をどう選んだのか、吐け、というわけ……?)
ふたりとも、互いの罪も欺瞞も承知している。だから、多くを語らずとも、通じることができた。
孫太后は、翠薇にいったんの猶予をくれたのだ。あるべき筋書きを曲げて、左昭儀に罪を着せたのはなぜか──納得できる理由があるなら見逃してやる、ということだ。
(望むところよ)
手札を見せる機会を与えられたことを知って、翠薇もにこりと微笑んだ。
「恐れながら──そのほうが魁国のためになると考えたから、でございます」