第6話 受け継ぐ者たち
太子たちは、李家の所有の小邑に逃がしていた。後宮を脱出した洸廉がその小邑に辿り着いたころには、日はとうに地平の下に没していた。だから、宮城を焼いて高く天を突く炎は、黒い空を背景にいっそう赤く見えただろう。
「李少師……!」
常ならぬ夕焼けに、さぞ不安に苛まれていたのだろう。洸廉が急がせてきた馬を降りるや否や、赫太子が駆け寄ってきた。
もうひとり、落ちのびさせていた煌太子は、邑の長の屋敷に留まっているらしい。不安によってか、薬酒がもたらす眠りから覚めた不安によってか、泣き叫ぶ幼児の声が、板で塞がれた窓越しにくぐもって聞こえてきていた。
赫太子は、ほんらいならば声を潜める必要性を十分理解できる年齢だった。だが、今は周囲を憚る余裕がないのだろう、焦りと怯えに満ちた少年の声は、高く夜空に響き渡った。
「あれは、宮城は、何が起きたのだ!? 父上はお戻りではないのか、翠薇は……!?」
転がる勢いで近寄ってきた太子を抱き留めると、洸廉は軽く身体を屈め、少年に目線を合わせた。跪いて見上げる姿勢になるよりも、このほうが寄り添ってやれるだろうか。それとも、これから告げることの残酷さの前には、気休めにしかならないだろうか。
「皇上は、どうあっても皇后様を手にかけることはできぬ、と。慕容家に屈するよりは死を選ばれるとのご覚悟に、皇后様もお供なさるとの仰せでしたので──ですので、臣が後宮に火を放ちました」
「そんな……っ」
空を焦がす炎、距離からも方角からも宮城から上るもの以外にはあり得ないその禍々しい猛りようを見て、もしや、まさかとは思っていたのだろう。実母の落羅夫人の時と同様に、太子が抱いた不吉な予感は、またも的中してしまったのだ。
暗い中でもはっきりと分かるほどに、太子は顔色を失った。喘ぎ、のけ反った頭の重みに堪えかねて足元がふらつくのを、洸廉が危うく支える。
「なぜ。なぜ……そのような。父上……」
「お気を確かに、しっかりなさいませ。魁を継ぐのは貴方様しかいらっしゃいませぬ」
望まれない報せをもたらしたこと、傷心の子供に無理を告げることに心を痛めながら、洸廉はくずおれそうになる太子を立たせた。あるいは、くずおれることを許さなかった。
「魁など知らぬ! 帝位など欲しいものか!」
廃皇后を糾弾した時と同じ声の強さ鋭さで激高してから、太子は弱々しく俯いた。声も擦れて、嗚咽が混ざる。
「第一……慕容家も皇子を擁しているであろう。右昭儀の、祝桂の子が。あちらを立てるに決まっている……」
「そう。慕容家は、我が子や我が孫を帝位に就けるために父上を弑逆したのです。何たる不忠、なんと卑しい企みでしょう」
皇后の嫋やかな声が、洸廉の耳に蘇る。
あの豊かな髪もしなやかな身体も、今はもう燃え落ちた殿舎の下に埋もれて灰と化しているだろうか。そんな悲惨な最期が間近に迫っているのを知っていながら、あの女人は常と変わらぬ笑みで彼に囁いたのだ。
『誰もが、皇上が私を殺めると信じているのでしょう。ならば、そうならないなどとは誰も信じないでしょう』
皇帝が、何もかもを投げ出して皇后と心中することを選ぶ──確かに、わけの分からないこと、起きるはずのないことだ。ふたりの内心をよく知る、洸廉や赫太子でもなければ。
真実が理解されないのなら、多くの者はごく自然に考えるだろう。
傾国の悪女である皇后を廃するなど、ただの口実に過ぎなかった。慕容家は、最初から皇帝を弑するつもりで兵を挙げたのだ、と。
君側の奸を除いて皇帝を諫める、という口実があればこそ、多くの諸侯が機に乗じたのだ。その前提が崩れれば。逆賊として、後世に至るまで後ろ指を指される存在になり果てるとすれば。
(情勢など簡単に変わる。誰もが正しい側にいたいからな)
正邪の区別など、いったい誰がどのようにして決めるのか──苦い想いは噛み殺して、洸廉は赫太子の目を真っ直ぐに見つめて、言い聞かせる。
父と、母代わりの庇護者と、家と呼ぶべき後宮と。すべてを失ったばかりの子供に告げるのは残酷なことだと知りながら。
「父上の仇を討つのです。そのように、天下に布告なさいませ。私欲で主君を害した慕容家と、正統な皇太子でいらっしゃる殿下と。諸侯がどちらにつくかは明白でございます」
「嫌だ。やりたくない」
頑なに首を振る赫太子の望む通りにしてやれたら、と思う。後宮と共に皇子たちも燃え尽きたのだ、ということにできたら、と。
帝位など関わりなく、庶民の子供に混ざって無邪気に遊び育つことができたなら。あるいはいっそ、再び昊に戻るのでも良い。今の魁に、国を越えて皇子たちを追う余裕はないだろうから。
だが、皇后は洸廉を信じて願いを託した。彼は、引き受けてしまったのだ。
「皇后様のご遺志でございます。あの御方が私に託した願いを、叶えさせてくださいますように。父君様と皇后様を守れなかった償いに、貴方様が魁を統べるのを支えさせてくださいませ」
「翠薇が。なぜ」
皇后の願い、と聞いて、赫太子の目にわずかながら光が戻った。ふわふわと、沈み込みそうだった足にも力が宿り、洸廉の手を借りずとも血を踏みしめて立てるようになっている。
ようやく話を聞く姿勢になってくれたのは良いものの、洸廉の胸に過るのは苦さばかりだ。
(この御方も、こんなにも貴女様を慕っているのに)
どうしてこうなったのか。ここに至ってしまったのか。どうして、彼や太子にこのような重責を押しつけて逝ってしまうのか。
答えは、分かりきっているのだが。
「殿下と同じ想いでいらっしゃったからでしょう。今や、私も同じ願いを奉じております」
こんなことがまかり通るこの国はおかしい、認めない、と。赫太子も強く思っているであろうことだ、わざわざ口に出すまでもないだろう。
太子の青ざめた面に、理解の色がじわじわと広がっていく。ついで決意と、闘志めいたものが。それは決して喜ぶべきものでも頼もしいものでもなく、洸廉は痛ましさしか覚えない。
けれど、太子もまた皇后の願いを、あの哀れで恐ろしく、優しい女人の思いを受け継ぐだろう。
大切な存在を奪われた怒りと悲しみは力になる。か弱い女人をして、ひとつの国を滅亡の際にまで導くほどの。皇后はその力の強さを誰よりよく知っていた。
「玉座に就かれるのです、赫殿下。叛くもの抗うものはすべて討ち滅ぼして。魁のすべてを掌握なさいませ。そして、その後で──」
その力は、今や洸廉と赫太子のものでもある。彼らは決して忘れないし、許さない。託された願いを──復讐を。叶えるためにこそ、彼らは生き延びたのだ。
「我らが、魁を滅ぼすのです」




