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魁国史后妃伝 ~その女、天地に仇を為す~  作者: 悠井すみれ
八章 受け継がれる思い
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第2話 最後の手段

 艶然と微笑むせつ皇后を怒鳴りつけないために、洸廉こうれんは、ただでさえ擦り減った忍耐力をさらに摩耗まもうさせられた。痛みどころか痺れを感じるほどに奥歯を噛み締めてから、絞り出す。


「皇后様……!」

「皇太子殿下や、こうを逃がしていただくのは、ぜひともお願いしたいですが」


 それでも低く、唸るような調子になった呼び掛けに、皇后が応じる声はどこまでも軽やかだった。白く小さく整ったおもてもきちんと化粧で彩られ、浮かべた笑みも優美そのもの、かいの国中から魔性だの傾国だのと呼ばれる女のものとはとうてい思えない。


(否──このような時に笑えるからこその魔性、なのか?)


 兵の怒号や、逃げ場所を探して惑う民の悲鳴と嘆き。戦馬のいななきや、輜重を運ぶ車の軋み。そんな喧騒に宮城は囲まれて、その包囲はせばまりつつあるというのに。


 迫る危険を忘れたかのように微笑むことができるのは──あるいは、すべてこの女人の思惑のうちだから、なのだろうか。滅びに瀕する魁を、高みから眺めるのが愉しくてならないからこそ、憂いなく笑うことができるのだろうか。


「皇上は私を助けてくださいましょう。信じてお待ちするのが皇后たるものの務めというものです」


 皇后の慎まやかな佇まいも殊勝げな言葉も、もとより欠片も信じていなかった。この御方のやることなすこと、何もかもに裏があるのを思い知らされてきた。


(自ら乱を招いておいて、今さら何を……!)


 廃皇后の惨殺ですら、今の事態の直接の原因ではないのだ。多くの諸侯が兵を挙げたのは、この御方の高笑いを聞いたからだ。


 魁など滅んでしまえ、と。


 この間、洸廉は内通や逃亡を試みた民や官が捕らえられて罰せられるのを嫌というほど見てきた。ほんの短い間に、魁は着実に崩れ落ちようとしている。

 呪詛めいた言葉が実現しようとする最中で、その元凶が口にする何もかもに隠れた本音を聞き取ってしまうのは、当然のこと。皇后は、皇帝を想ってなどいないのだ。


「貴女様は、皇上を死地におびき寄せたいだけでしょう! 貴女様を庇うだけで、一秒ごとに臣下の忠誠と信頼を失うというのに! ……毒婦に溺れて国を傾けた愚帝と──そのように貶めることも、貴女様の望みなのですか!?」


 先日の惨劇の後と同じく、取り返しのつかないことへの泣き言に過ぎないと分かっていても、口に出さずにはいられなかった。そして、応じる薛皇后の笑みも、血に塗れていたあの時と同じく艶やかだった。


「私の望みは、先日申し上げた通りです」

「そのような望みは、絶対に叶えていただくわけには参りません!」


 激昂した洸廉に、皇后は不思議そうに目を見開いた。


「貴方は、そもそもこうの御方でしょうに。またほかの国に逃れれば良いのでは?」

「私がお仕えしたのは魁の君主です。しかも、留守を預かるに際して、貴女様がたを託される光栄に浴しました」


 強く言ってから、欺瞞に気付く。というか、薛皇后の目がすっと冷めて、綺麗ごとを責めていた。今さら隠し事はせ、と言われているのを察して、洸廉は自身の胸の裡を探る。


(そうだ……皇上こうじょうに命じられたからだけでなく──)


 彼が苛立つのは、事態を掻き回されたからだけではない。仕えた君主への裏切りめいた策謀も、赫太子に廃皇后を殺めさせ、少年の心を痛ませたこともすべてではなくて──


「それだけではなく──貴女様は幸せになれるはずだった! ……それがどうして、と思うと惜しくてならないのです。太子殿下とは御心を通わせたご様子、何もかも赦す、忘れるとはいわずとも──今からでも、前を向いていただければ、あるいは……」


 やり直すことが、できるのだろうか。

 宮城の城門が破られる前に、皇帝が帰還して。叛いた諸侯を鎮圧して。その上で、皇后をその位に留めたまま愛し続ける。そのようなことが許されるだろうか。


(……たとえ一度は鎮めても、禍根は残る。不信も不満もよりいっそう強まる)


 室内に飾られた、対の銅の金人きんじん像の煌めきが空しかった。

 鋳造ちゅうぞうを無事に成らせ、南伐も立后も天意を得たこと、としたのは洸廉の工作によるところも大きかった。人が天意を騙る不遜の報いを受けた、ということなのだろうか。


 ほんの少し先延ばしにできるかもしれない、というだけで、結局のところ魁は瓦解がかいするしかないのかもしれない。では、それなら太子たちはどうなる?


 目の前が暗くなるのを、意気がくじけそうになるのを堪えようと。洸廉は膝の上で拳を握り、唇を噛んだ。

 彼の懊悩おうのうなど知らぬげに、薛皇后の声はさらりとしたものだった。


「太后様の御言葉を、以前お伝えしたことがあったかと思いますが?」

「……何もかもを望むのは強欲、でしたか」


 太后が薨去こうきょしたばかりの時に聞かされたことだ。発言した本人の所業はともかくとして、一般的には正しい警句と言って良いだろう。

 あの時の洸廉も、だから皇后は満たされぬ復讐など諦めてくれるだろうと思いかけたのだ。だが、今になってそれを繰り返すと言うことは──


(……何もかもは望めぬから魁は諦めろ、と? 我が身を守ることだけで満足しろ、と……!?)


 その言葉に、腹の底から沸き立つ怒りを覚えたのはどうしてだろう。


 皇后の余裕が、悪びれなさが許せないのか。

 主君を捨てることを仄めかされて、器を見誤られたと思ったからか。

 魁を生かそうと奔走するのを、強欲だと評されたからか。


 どれも正しく、けれどすべてではない。


(私の言葉は、いつも貴女に届かない……!)


 策の一環だとしても、皇帝のことは待つというのに。洸廉は犬のように追い払われるのだ。皇后が本懐を遂げるいっぽうで、彼の望みは退けられる。

 この、美しくも恐ろしく、そして哀れな女人に、満ち足りることを知って欲しいのに。幸せになって欲しいのに。


「ですが……! 貴女様こそ何も譲ろうとはなさらない。何もかも思い通りにしようとなさっていらっしゃる!」


 いつもいつも、この御方には思いのままに踊らされてきた。悔しさに歯がゆさに、洸廉は声を荒げたが──


「本当に何もかもが思い通りになるなら、このようなことにはなっておりません」


 もう何度目になるだろうか、皇后の心が閉ざされたのを知って、目を伏せるしかなかった。


(姉君様と先の皇太子のことさえなければ、か──)


 肉親さえ無事なら、魁の滅亡など望まなかった、と。皇后の、冷ややかなのに燃えるような怒りを湛えた目が語っていた。

 彼の言葉が届かない理由は、つまりはこういうところにあるのだろう。至らなさを噛み締めながら、洸廉は話題を戻した。皇后と太子たちを逃がすことについて、だ。


「……どうしても頷いてくださらぬのなら、縛ってでもお連れします」

「ほかにも手段はあるかと思いますが。……気付いて、いらっしゃらないのですか」


 皇后に低く問われて、洸廉は身体を強張らせた。どくどくと、心臓がうるさく高鳴るのを感じながら、意識して腹に力を入れる。答える声が、無様に揺らぐことがないように。


「まさか。侮らないでいただきたい」

「では、そのようになさらないのですか?」

「侮るな、というのは、そのような手段を選ぶ者と思うな、という意味です」


 ほかの手段とは何か──具体的に口にしないのは、それの重さを互いに承知しているから、だろう。

 ほかに聞く者がいなくても、言葉にしてしまえば()()が選択肢にあることをより強く意識してしまう。頭の中で思い描くことさえ忌まわしいのに、どうしてわざわざ現実に引き寄せようとするのか。


(気付かないはずはないだろう。もう、何度も考えた。──だが、できるか!)


 洸廉の顔には、嫌悪と怯えが隠しようもなく滲んでいたのだろう。皇后は、優美に口元を抑えて笑った。臣下の前で魁の滅亡を謳い上げた時と同じ、心から楽しんでいるのが分かる。


「高潔でいらっしゃる。臆病か──それとも愚か、なのでしょうか」


 挑発めいた仕草で小首を傾げつつ、口元は微笑みつつ。皇后の視線は鋭く洸廉を探っていた。()()を彼が決してしないのか、状況次第で考えを変える余地があるのかを、見極めようとするかのように。


 どちらのほうが、どのような理由で彼女にとって都合が良いのか、例によって洸廉には見当もつかない。皇后の覚悟も想いの深さも、彼の想像の及ばぬところにあるから。あり得ない、と思うのは、洸廉がこの御方を理解できていないからというだけだ。


(たとえ()()こそが貴女の望みだったとしても。どのように追い込まれても。私は──)


 やらぬ、と。言い切ることは、心の中だけだとしてもできなかった。彼ひとりの好悪の情を通せるほど状況は甘くないし、洸廉にも皇帝に留守を任せられた責がある。


 曖昧な答えを返したくはなかったし、嘘も吐きたくなかった。だから洸廉は皇后の問いには答えぬまま、強引に話を打ち切った。


「なるべく乱暴な真似はしたくありません。貴女様がいらっしゃれば、御子様がた、特にこう殿下は安心なさるでしょうし。お考えを変えてくださいますよう、お願い申し上げます」


 要は、結論を先送りにして誤魔化したのだ。

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