第6話 血濡れた一幕
おそらくは何も告げられぬまま外朝に連れ出され、赫太子の前に額づかせられた女を見下ろして、翠薇は袖の影で微かに嗤った。
(まあ、見る影もない……)
後宮に人をやる間に、高官たちは起立して列を整えていた。地位相応に刺繍の絹服で着飾った男たちの前に進み出ると、麻の粗衣を纏った廃皇后はいっそうみすぼらしく見える。
装いだけではない。かつては金銀や玉の簪を挿した黒髪は艶を失い、頬も唇も色褪せてくすんでいる。乾いて萎びた肌は、廃皇后を実際の年齢よりも十も二十も年老いて見せていた。
この女が、ほんの数年前まで皇帝の隣で艶やかに微笑んでいたなど、いったい誰が信じるだろう。辛うじてその矜持が窺えるとしたら、監国の座の高みにいる翠薇を睨んだ目つきの鋭さくらいだろうか。とはいえそれも一瞬のこと、居並ぶ貴顕の圧に屈するかのように、婢のように平伏してしまうのだから、生温くて欠伸が出そうだ。
(死を選ぶ勇気もない女。分かっていたわ)
放っておいても問題ないと思っていたから、廃皇后を直に見るのは翠薇にとっても久しぶりのことだった。
陥れた女を甚振るのに、何も彼女が自ら手を下す必要はない。この女の扱いについて報告された際に、咎めず窘めず、ほんの少しだけ──堪え切れずに、という体で──微笑めば良いだけ。それだけで、宮女も宦官も勝手に翠薇の心中を知った気になった。
(別に、頼んだわけではなかったのに)
実のところ、右昭儀が憤って実家への直訴を企んでくれれば、それで良かったのだ。この女のしたこと言ったことは何ひとつ許していないけれど、どうせこうなると分かっていたのだから些末な嫌がらせで憂さ晴らしをする必要はどこにもなかった。
こうというのは──今まさにこの場で起きていること。実母の死の真相を知った赫太子が、翠薇と同じく怒りと憎しみに我を忘れること、だ。
赫太子は、この間、李洸廉をはじめとした臣下たちがいくら呼び掛けても返事をしなかった。いまだ柔らかくあどけない唇は、むっつりと引き結ばれて。それがやっと開いたのは、廃皇后が額づくのを見下ろしてからだった。
「慕容祝英」
子供の高く幼い声は、それでも玉座にある者の威厳を備えて大庁に響いた。
「そなたの実家が兵を挙げた。そなたの返還を求めて城門に押し寄せている」
「それは──」
わずかに上げられた廃皇后のやつれた面に、希望と不安の色が交錯した。
実家に保護されるのではないか、かつての暮らしに戻れるのではないかと期待するには場の空気は重く、太子の表情は険しい。続けた声の調子も、また。
「武力をもって宮城を恫喝するのは、ほんらいは大逆に等しい暴挙である。が、娘を想うあまりのことではあろう。何より今は父上が南伐の途上の大事な時。罪あるそなたを正しく遇するという条件で、慕容家に引き渡しても良い」
「なんと寛大な──心より感謝申し上げます……!」
廃皇后が歓声を上げたのはまだしも、臣下の列からも安堵の溜息が漏れたのはだいぶ浅はかではないだろうか。宥め諭す声の一切を無視して沈黙していた太子は、廃皇后に何をするかを考え抜いていたに違いないのに。
(さすがに李少師は分かっているようだけれど)
今にも倒れそうな顔色の李洸廉は、最悪の展開をすでに予想して、しかも逃れられないのを悟っているのだろう。上座から微笑みかけてやると、蒼白な頬に一瞬だけ朱が上った。彼にとっての最悪は、翠薇にとっての最高だ。むろん、その点も気付いているだろう。
「だが、私がこれから問うことに正直に答えれば、の話だ」
「はい──何なりと。包み隠さず申し上げます」
弾んだ調子で軽々しく応えた廃皇后は、どうしようもなく愚かだった。何年も前に少しだけ遊んでやった幼児の印象のまま、どうにでも言い包められると思っていたのだろうが──
「私を皇太子に推挙したのは、妹の命を救うためか。皇太子の母は、死を賜るから。すべて知った上でのことだったのか!?」
斬りつけるように鋭く問われて、翠薇と李洸廉を除いたすべての口から悲鳴じみた喘ぎが漏れる。
(それ以外に何を尋ねると思っていたの?)
予想できない問いではなかったはずなのに。廃皇后は無様に狼狽え、這いつくばるように平伏した。
「で、殿下はすでに英邁の兆しをお持ちでした! 我が甥よりも帝位に相応しいものと──」
「五つや六つの子供を比べたところで、資質など分かるものか!」
「いいえ! 違います……違う、のです。わ、わたくしは──」
赫太子が叫んだのはまことにもっともなこと、廃皇后からそれ以上の反論を奪った。妹の命を救うための苦渋の決断だった、と述べて泣いて許しを乞うていれば、結果は変わっただろうか。
(……いいえ、そんなことはなかったでしょう)
太子の結論は、とうに決まっていたのだろうから。
「お前が母上を殺したのだな」
「わたくしではありません! やったのは──だって、太后が。魁の祖法で。しかたなく──わたくしだって、望んだわけでは……!」
「もう良い」
文をなさない切れ切れの言い訳など、聞くに堪えないのだろう。陸に上がった魚のように虚しく口を開閉する廃皇后を遮って、赫太子は吐き捨てた。ずっと寄り添っていた翠薇を振り払って立ち上がり、床を踏み鳴らす。
「この女は監国である私に嘘を吐いた! 言い逃れようとした! よって死を命じる!」
癇癪めいた命令に、大庁は悲鳴とどよめきに沸き立った。
這って逃げようともがく廃皇后。
虚しく手を宙に延べる文官。
太子の剣幕を恐れてか後ずさる者もいれば、李洸廉は逆に前に進み出る。廃皇后を庇うか、赫太子を止めるかしようとしたのだろうけれど──遅い。
「剣を、私に!」
人の列の間を素早く縫って駆け、赫太子は兵に剣を差し出させた。
その身のこなし、有無を言わせぬ威厳ある言葉は、少し前まで翠薇の裙の裾に縋って離れなかった子供のものとは思えない。
(成長なさったのね……)
翠薇が場違いな感慨に耽る間に、大庁は蜂の巣を突いたような騒ぎになっていた。
廃皇后が、文官が、宦官が逃げ惑う。赫太子が振るう剣の、不吉で危険な銀光から。
李洸廉や、戦場に立ったことのある皇族は太子を止めようとしているけれど、刃を恐れて思い切った動きができないようだ。混乱した人間同士が闇雲に右往左往してはぶつかり合い、互いの動きを妨げる。
そんな中、廃皇后だけを見据えているのであろう赫太子の動きは的確だった。伸ばされる手や傾ぐ身体を躱し、避けて獲物に近づく──魁の皇太子たるもの、剣の扱いも狩猟の術も叩き込まれている。
「嫌──」
廃皇后が漏らした、恐怖と絶望に満ちた喘ぎ。
弧を描いて上がった血飛沫。鋼が肉を裂き骨を断つ鈍い響き。
痩せた身体が血溜まりに倒れる時の、べちゃりという音。
それらのすべてを、翠薇は微笑んで堪能した。動かなくなった廃皇后に、赫太子が何度も剣を突き立てるのも。臣下らが間抜けな顔を並べて、呆然とそれを見守るのも。芝居を眺めるように愉しかった。
(そう! こうなると思っていた。これが見たかった……!)
祖法とやらによって大切な存在が奪われることの意味を、魁の中枢がやっと直視するのだ。これまでは女ひとりに負わせていた不運が、我が身にも累を及ぼすのを悟るが良い。何を見過ごして来たか、思い知れ。
観客に徹していた翠薇が立ち上がったのは、赫太子の手から剣がこぼれ落ちてからやっと、だった。
さすがに体力が尽きたのか、廃皇后がとうに息絶えたことに気付いたのか──それとも、怒りと憎悪による熱狂から醒めたのか。赫太子は、ぎくしゃくとした動きで彼のほうへ歩み寄る翠薇を見上げた。
「翠薇。わ、私は──」
いつもなら飛びついてくるところだろうに。そうしないのは、全身を返り血に染めているからだろうか。翠薇の裙の裾もすでに血に浸っているから、要らぬ気遣いなのだけれど。
常と変わらぬ笑顔で、翠薇は血溜まりに膝をついた。手を伸ばして、太子の頬を汚す血を拭う。労いと称賛の意味を込めて。
(よくやったわ)
憎んだ相手を自らの手で屠るのは、翠薇がまだやったことのないこと。羨ましいくらいだった。彼女の腕の中、高熱を発した時のように震え始めた少年に、その想いは伝わっただろうか。
「お召し物が汚れてしまいましたね。後宮に戻りましょう。湯浴みと着替えをいたしませんと」
立ち上がりながら翠薇が促すと、赫太子は人形のように大人しく従った。衣装の裾が、床に血の模様を増やしていることだろう。血に塗れたふたりが背を向けるのを、誰もが凝然と見つめるだけかと思われたけれど──
「お、お待ちを。慕容家には何と……!?」
彼女を呼び止める蛮勇を奮った者に振り返りながら、翠薇は艶やかに微笑んでやった。そして、視線で血塗れの女の死体を示す。
「廃皇后を返せという要求でしょう。返して差し上げれば良い」
生かして返せとは言われていないのだから。
翠薇の言外の声が聞こえたのだろう、見渡す限りの男どもの顔が一斉に、そしてますます青褪めて引き攣るのが愉快だった。翠薇が笑みを深めた時──李洸廉の怒鳴るような声が響く。
「なぜ、このようなことをしたのですか!」
思わず眉を顰めるほどの大声だった。よほど頭に血が上っているのだろう、血溜まりにも構わず大股で近づいてくるから、粘りを帯び始めた血を踏む音がびちゃ、べちゃ、と汚らしく聞き苦しい。
「慕容家の怒りはますます猛りましょう。太子殿下は短慮で女人を殺めた謗りを受ける! 諸侯が叛けば、貴女様ご自身や御子様がたにも危険が及ぶ! 分かっておられるのでしょうが! だが──ならば、いったい、なぜ!」
そして、李洸廉が並べ立てることもまた、面倒臭くて鬱陶しくて、そして声は大きすぎてひび割れて聞き苦しかった。
(何を、当たり前のことを)
うんざりとした苛立ちも、胸にささくれるけれど。でも、これもまた翠薇が楽しみにしていた瞬間だった。かつて問われた彼女の本当の望みを、やっと教えることができるのだから。
この期に及んで、人の耳を憚る必要もない。魁の中枢を担う貴顕の顔を見渡して、翠薇は高らかに宣言した。
「魁に仇を為したいからです。こんな国、滅びてしまえば良い……!」
たいそうな地位や称号を帯びた者たちが、死人のような顔つきになるのは見ものだった。驚き、戸惑い、疑問、不安──そんな無駄な想いを浮かべたまま、凍り付いているのを眺めるのは。
あまりにおかしかったから、翠薇はしばらくの間、腹の底から声を出して笑い続けた。




