第5話 暴露
洸廉の声の残響が、天井の高い大庁にふわりと漂って、消えた。集った者たちが表情を窺い合うような沈黙を破ったのは、赫太子のおずおずとした問いかけだった。
「廃皇后を冷宮から出して良いのか? 本当に……?」
「慕容家には、過分の厚遇はせぬように重々申し付けましょう。着飾ることも美酒美食を楽しむこともなく、身を慎んで過ごしていただくように。仮にも皇后の地位にあった方なのですから、罪を悔いて自らを正すことがおできになるでしょう」
罪人を放免するわけではないのだ、と強調しながら、洸廉は一同を見渡した。
幽閉場所が後宮から実家に変わるだけのこと。慕容家の圧力に屈したわけでも、皇帝による裁定を覆したわけでもない。そういうこととして通すのだ。
「慕容家が訴えるのは、廃皇后の扱いが過酷に過ぎるということだけなのでしょう。それが解決されるのなら、兵を動かす理由はなくなります。娘の身柄を確保した上で要求を重ねるとすれば、僭越にして強欲というもの。決して諸侯の支持は得られません」
慕容家だとて、ことを荒立てたくはないはずなのだ。薛皇后を溺愛する皇帝が不在の今なら、洸廉ら留守居の者たちの対応が弱腰になるだろうと判断しただけで。
兵力をちらつかせたのは乱暴ではあるが、あくまでも交渉の手段としてだ、と考えるべきだろう。
「……皆の者はどう思う? 慕容家の言いなりになっては、魁の──父上の名を貶めることにはならないか?」
一同を見渡す赫太子は、思慮深さと同時に魁の後継者に相応しい矜持も覗かせていた。怯えるだけでなく、臣下の武力に屈するのを恥だと認識できるのは頼もしい。
太子の器を確かめたからか、それとも何かあれば洸廉に責を負わせれば良いと結論したのか。魁の重鎮たちは、次々に恭しく奏上した。
「李少師の言はもっともと存じます。皇上がご不在の折に、国内に不和の火種を燻らせてはなりませぬ」
「然様。南伐は国の大事ですからな」
「難局におひとりで対処されれば、監国殿下の誉れにもなりましょう」
「君主たるもの、慈悲深さも肝要かと存じます」
老獪な貴顕らは、言葉を尽くして事態を飾り、太子の体裁を整える方向を示したのだ。洸廉の進言を容れても、怯懦の謗りを受けることはないと、請け合った形だ。
背景までも察したかはともかく、赫太子は大人たちの言葉に納得したようだった。だが、この場にはまだ意見を述べる権利を持った者がいる。それも、太子が特に慕い、頼りにする者が。
しばらく沈黙を保っていた薛皇后を見上げて、赫太子は首を傾げた。
「……翠薇は? 祝英──廃皇后を赦しても良いか? その……反省していると、思うのだが」
臣下に下問した時と比べると、声の調子はだいぶ弱々しい。機嫌を窺うようですらある。皇后は廃皇后の釈放を喜ばないと、子供にも分かるのだ。
(廃皇后のほうも、反省などしていないだろうしな……)
洸廉が心中で嘆息するのは、廃皇后の罪だとされた右昭儀の堕胎についての話ではない。妹の流産の後、殴り込みのように現れた廃皇后が、当時は貴人だった薛皇后に吐いた暴言に対してのことだ。
早逝した先の皇太子、皇后にとっては甥にあたる御子の死を貶める、呪詛めいた言葉──赫太子には意味は分からなかっただろうが、悪意は十分に伝わっただろう。
(……貴女は決して赦さない。慕容家も族滅させようというのだろう。それは、分かっているが)
廃皇后を餌に、慕容家の怒りを煽る。そうして、本格的な反逆へと誘い出す。却霜の時と同じことをしようというのだろう。
だが、今回はあの時とは話がまるで違う。
皇帝の助けを待つにしても、早馬を出し、さらに皇帝が軍を返すまで持ちこたえなければならないのだ。危険は皇后自身や御子たちにも及ぶだろう。殺し合うのは兵だけではない、民も巻き込まれるし畑も焼かれる。そこまでして滅ぼさねばならぬ敵など、いるはずがない。
そもそも、女人がひとりで異を唱えても通るまい。皇帝の留守を預かる高官らからの反発は、皇后だとて恐ろしいはず。
(だから、どうか……!)
引き下がってくれ、と。洸廉が祈る思いで見つめる先で、薛皇后はふ、と優雅に微笑んだ。
むろん、美しさに見蕩れることなどできない。この御方の笑顔など、欠片も信じることのできない不吉極まりないもの。いったい何を言い出すかと、身構えて待った、のだが──
「賢明な皆様の仰る通りになさいませ。殿下が思慮深く優しくお育ちになっていること、たいへん嬉しく存じますわ」
拍子抜けするほどあっさりとした言葉に、洸廉は肩の力を抜いた。赫太子も、反対を覚悟していたのだろう、首を傾げつつも頬を緩めた。
「そうか。……そう言ってくれて、安心した」
太子の笑みに応えて、皇后の唇がより深く弧を描いた。緊張を解そうとでもいうのか、まだ小さな身体が抱き寄せられる。
生さぬ仲のふたりには少々危うい近さではあるが──太子の耳元に囁きかける皇后の面に浮かぶのは、どこまでも優しさと労わりだけだった。少なくとも、見た目には。
「思えば、先の皇后様は殿下にとっても恩ある御方。報いる機会ができて良かったのかもしれませんわね」
「祝英に、恩? 私が? どういうことだ?」
赫太子は、廃皇后を名で呼んでいる。慕容姉妹は、太子の生母の落羅夫人とも親しかったというから、遊んでもらったこともあるのだろうか。だが、それも落羅夫人が死を賜り、太子が亡き太后のもとで養育されるようになるまでの話のはずだ。
(まさか)
不吉な予感が、不意に何かしらの形に纏まるのを感じて、洸廉は大きく息を吸った。皇后を止めなければ、と咄嗟に思ったのだ。意味のない喚き声でも構わない、とにかく続けさせてはならないと。だが──遅かった。
「殿下を皇太子に推してくださったのはあの御方ですから。実の甥御様、妹君の御子様もいらっしゃったのに」
皇后の笑みは美しく、語る言葉も柔らかい。だが、今や洸廉以外の者たちも気付き始めていた。
(拙い……!)
これは、赫太子には聞かせてはならぬこと。この少年は、実母が死んだ本当の理由をまだ知らぬのだ。ましてや、その経緯について今知ることになるのは最悪だ。
「そなたたち──何を知っている。翠薇が申したのは本当のことか? 祝英はなぜそのようなことを?」
大庁に満ちた不穏なざわめきと動揺は、赫太子の不審を招いてしまったようだった。この御方は──聡明なのだ。ほんらいならば美点であるはずの明晰さが、けれど今ばかりは忌まわしい。
薛皇后の大衫の袖を握りしめて、赫太子は鋭く臣下を睨みつけた。高く澄んだ声に怒りと苛立ちが混じるのを、洸廉はほとんど初めて聞いた。
「そなたたちは、どうしてそのような顔をしている!?」
そのような──後ろめたく気まずい顔を晒していた者たちは、詰問されて慌てて平伏した。
「──魁の祖法でございます。外戚の禍を避けるため、皇太子の生母は死を賜る、と……」
ひとりが口を開くと、ほかの者たちも次々に続いた。
豪雨に耐えかねて山が崩れるように。猛攻に耐えかねて軍が敗走するかのように。言葉の雪崩が、赫太子に降り注ぐ。
「先の太子が亡くなりましたゆえ──」
「どなたかが死ななければならなかった」
「とはいえ開国以来の習わしで」
「太后様は、皇后に任せよと」
「あの時に皇子がいらしたのは」
「皇上も同じように──」
「落羅夫人と右昭儀様のおふたりが」
「廃皇后は、妹君の命を惜しまれたのです」
「だから、代わりに」
みるみるうちに青褪め、強張っていく赫太子の顔が見ていられなくて、洸廉はそっと瞑目した。束の間の逃避に過ぎないと、分かってはいるのだが。
(これでは、いけない。どのように説明されても呑み込めるものか……!)
魁の重鎮たちにとっては、祖法は自明のこと。そういうものと思い込んできたことだ。しかも、彼らの誰ひとりとして母を殺されたわけではない。
だから、言葉を尽くして説明すれば利発な太子は理解してくれるだろう、などと思えるのだ。人によっては、へらへらと笑みを浮かべてさえいる。
洸廉は知っている。そのようなことはあり得ないと。
彼は南の昊の出で、魁の倣いに染まり切っていないから。太子がどれほど実母を恋い慕っていたかを見てきたから。
何より──決して消えない憎しみに突き動かされ続けている女に、教えられたから。絶対に許せるものではない、と。
「殿下、お気を確かに。──申し訳ございません。よくよく機を窺ってお伝えせねばと思っておりましたのに、つい、うっかりと」
耳に届くその女──薛皇后の声は、相変わらず蕩けるように甘く、優しかった。
だが、目を開けてみれば、美しく白い頬は欠片たりとも笑んでいない。皇帝を惹きつけたであろう黒々とした瞳は深淵のよう。あるいは、その奥底に熾火が輝くのが見えるような。その火を燃やすのは、憎悪か怒りか悲しみか──洸廉には読み取れなかった。
そして、自身もそれらの感情に囚われた赫太子は、彼を抱き締める皇后の表情に気付いてもいない。その目は、洸廉ら臣下たちだけをひたと見据え、睨みつけていたから。
常の思慮深さとは打って変わった高圧的な声が、有無を言わせず命じる。
「廃皇后をここへ呼べ。今、すぐに!」




