第4話 慕容家の要求
外朝の一角、常は朝議に使われる大庁に、一部の皇族と高官が集っている。異常なほどの若輩の洸廉を除けば、いずれも長年に渡って魁を支え、皇帝から遠征中の国事と皇太子を託された重鎮だ。それが一様に顔を強張らせているのは、事態の深刻さを正しく認識しているからだろう。
皇帝の留守中に、魁の屈指の名家である慕容家が兵を動かした。それも、宮城に向けて。対応を誤まれば、他家も呼応して大規模な反乱になりかねない。
何しろここ数年の魁の変化を快く思わない者は多い。皇室への忠誠はともかく、洸廉と薛皇后を排除する絶好の機会を、見逃しはしないだろう。
大人たちの緊張を感じ取っているのだろう、上座を占めた赫太子は不安げに視線を彷徨わせている。とりあえず真っ直ぐに座ることができているのは、薛皇后が寄り添っているからだ。
彼女がこの場にいるのは、太子の庇護者としてだけではない。事態の把握と収拾に、後宮の女主人からの情報が絶対に必要なのは分かり切っているのだ。
(──というか、例によって貴女が仕組まれたのでしょう……!?)
この三年の間に見せてきた慈悲深く優しげな微笑は、演技でしかなかったのだ。やはり、という納得なのか、裏切られた、という衝撃なのか──胸を乱す想いが何なのか分からないまま、洸廉は口を開いた。
「慕容家の要求は、廃皇后の身柄を引き渡すこと、でございました。──廃位以来、婢同然の扱いであったとのことですが」
睨むような険しい視線を受けて、薛皇后はあっさりと頷いた。廃皇后の扱いについて認めた、ということだ。
「罪があって位を逐われた御方です。これまで通りの待遇というわけには参りません」
こともなげに言われて、集った者たちは互いに顔を見合わせた。それぞれの口から漏れた重い溜息が大庁を不穏に揺らす。
流産した上に姉が廃されて、後宮で顧みられなくなった右昭儀は、南伐を控えて宮城が慌ただしくなった隙を突いて、自身の子を連れて出奔した。そして実家に辿り着いて、姉が虐待されていると訴えたらしい。
姉に取って代わった薛皇后への恨みゆえの妄言であれば良いと、誰もが願っていたのだろうが。そうではなかったのが確かめられてしまったことになる。
「慕容家の姫君を──」
「右昭儀様も慕容家の姫君です。それも、皇上の御子を懐妊していらっしゃった。その御子を害したのは大罪でございましょう?」
どこからか漏れた非難がましい呟きに、薛皇后は間髪入れずに切り返した。その言葉の迷いなく鋭いこと、発言者を委縮させ黙らせるほどだった。
「それは──仰る通りですが」
妹の子を堕胎させて、その罪を薛皇后に着せようとした──それが、廃皇后の罪だ。生まれていれば皇子か公主になるはずの御子だったのだから、反逆に等しい大罪だというのは一応は間違ってない。だが──
(それは真実ではない。建前に過ぎないことだ……)
堕胎の毒を用意したのは亡き太后であっただろうし、それが右昭儀の口に入るように仕向けたのは当時は貴人だった薛皇后だろう。廃皇后は──悪意が皆無ではなかっただろうが──少なくとも、堕胎の罪については潔白だ。
皇后の罪など、そういうことになった、というだけだと誰もが知ってしまっている。だからこそ、慕容家の怒りをどう宥めるかに頭を悩ませているのだ。
(本人からすれば、陥れられたとしか思えぬであろうな……右昭儀も、姉のために心を痛めたはず……)
とはいえ、すでに起きたことは変わらないし、一度下された裁定を覆すことはできない。よって洸廉は薛皇后の指摘に反駁することは諦めた。だが、この女人に言いたいことは山ほどある。
「右昭儀が後宮を去ったのをご存知でいらっしゃったとか。どうして黙っておられたのですか」
「皇上が出立なさる、その前夜に知ったのです。御心を煩わせたくはありませんでした。その後は──何かと慌ただしくて。失念しておりました」
薛皇后は悪びれず艶然と微笑んで、洸廉を絶句させた。
(白々しい……!)
こうなると分かっていて黙っていたのだろう、と叫びたかった。だが、それは皇后への非礼になるだろうし、やはり今となっては意味のないことだった。
洸廉が歯噛みする横で、ほかの高官たちは侃侃諤諤と意見を戦わせ始めていた。
「皇上にご報告するか」
「馬鹿な。南伐を断念するのか」
「何も引き返す必要はない! 勅書さえいただければ──」
「慕容家を叱っていただくのか」
「皇上の御言葉ならば従うであろう」
「廃皇后の処遇についての交渉も、まずは兵を引いてからだ」
「では、監国殿下に書を認めていただこう」
皇帝の威光を借りて慕容家を引き下がらせよう、という方向に議論は傾き始めている。強硬な手段には訴えぬように諭した上で、後日、交渉の席を設けると約束する──落としどころとしては、悪くないかもしれないが。
だが、それこそが薛皇后の狙いなのかもしれない。
(ほかの方々は、この御方のことを知らぬから……!)
薛皇后と最初に出会った却霜の時に何が起きたか、洸廉は忘れていない。
あの時、この御方は自身と太子を囮にして落羅家の襲撃を誘ったのだ。皇帝によって助け出されるように算段をつけた上で! 目障りな寵姫を片付けるはずが、落羅は標的を逃した上に族滅の憂き目を見ることになった。──同じことが起きようとしている気がして、ならない。
重臣たちは、薛皇后に対する皇帝の寵愛のほども知らないのだ。
(貴女様の危機を知れば、皇上はきっと兵を返される。慕容家を片付けるためにこそ、右昭儀を見逃したのでは……!?)
疑念を込めた洸廉の視線に気付いたのか、薛皇后は彼のほうを見下ろして悪戯っぽく微笑んだ。これで政敵が減る、魁の旧弊がまた除かれるとでも言いたげな、共犯者めいた笑みだった。
(させるか……!)
洸廉にとっても利があるのだから黙っていろ、という意味でもあるのだろう。だが、父祖を追放した昊を降すのは、彼にとっても悲願だった。それに、何より。薛皇后の思い通りにさせるのは恐ろしい。そして、悲しい。
皇帝に南伐を断念させた、となれば、薛皇后の悪名はますます高まるだろう。姉君のことで皇后や右昭儀に遺恨があるのは分かるとしても、このような手段で、敵を増やしてまで追い詰めなくても良いと思う。
「──このような些事で皇上を煩わせてはなりませぬ」
皇后を止めることができるのは、彼しかいない。その一念で、洸廉は蜜のように粘り絡みつく視線を振り払い、声を上げた。
若輩者の強気な発言は、鋭く険しい視線で報いられるが、構わない。
「皇上の、後顧の憂いを断つためです。廃皇后は慕容家に返してしまえば良い。罰もお叱りも、後で私がいかようにもお受けします」
責任は取る──そう述べることすら、洸廉の立場からすれば甚だしい僭越ではあっただろうが。だが、彼の語気の強さに、異義が上がることはなかった。
薛皇后さえ、何も言わない。この御方のこれまでの振る舞いからすれば、政に口を出すのを憚ったのかもしれないが──
(……諦めておられないな。この上何をなさるおつもりだ……?)
落ち着かない様子の赫太子を優しく抱き締めながら、薛皇后は穏やかに微笑んでいた。何らの焦りも苛立ちも見えないのが、かえって不吉に見えてならなかった。




