第2話 望まれない贈り物
金人鋳造の儀で鋳られた対の銅像は、磨かれ彩色されて宣光殿に運ばれた。
女の像は翠薇を、武人の像は絳凱を模しているから、絳凱が遠征で不在の間、間近に置いて面影を偲べるように、という趣向だった。翠薇が実際にそうするかどうかは、誰も知る必要がない。
「朝に夕に、この像を拝してご無事を祈りますわ」
「心強いことだ。朕も、どこにいてもそなたと子らのことを想おう」
翠薇の言葉を欠片も疑った様子はなく、絳凱は嬉しそうに微笑んで彼女を抱き締めた。
金人鋳造の儀が成功に終わった後、翠薇の皇后冊立と、南伐に従軍する将の任命の儀式が慌ただしく執り行われた。
兵も輜重も揃えられ、留守を預かる官の体制も整えられて、あとは明日の出征を待つばかり。
今宵は、絳凱にとっては后と太子たちとの別れを惜しむ夜だ。翠薇にとっては──さほどの寂しさも恋しさもない、いつもと大差ないただの夜だ。むしろ、しばらくこの男の機嫌を取らずに済むならいっそ清々するかもしれない。
もちろん、そんな想いは悟らせなどしないけれど。
(良い気分で出立させてあげるわ……?)
例によって大きな子犬をあやすように、翠薇は冠を外した絳凱の鬢を優しく撫でつけた。
「北より興った魁が中原の王朝を降せば、絳凱様の御名は史書に輝かしく刻まれましょう。仕える御方の栄誉を仰ぎ見るのは、なんと喜ばしいことでしょうか」
赫太子も、実子の煌も、すでに父帝への挨拶を終えて寝所に向かった。子供たちの目を憚る必要はもはやない。
一番年長の子を甘やかす口調で、それでいて手つきや仕草は艶めかしく、翠薇は絳凱にしなだれた。
南方からはしばしば蛮族と蔑まれる魁の歴代の皇帝は、武をもってその文化文明を手中に収めることを切望してきたという。父祖の宿願を己の代で叶えるのは、帝位にある者にとっては何よりも誇るべきことだろう。
翠薇は、絳凱の功名心をくすぐってやったつもり、だったのだけれど──
「朕が栄誉を得るとして。それは、そなたのものでもあるだろう、翠薇」
尻尾を振って駆けまわっていた子犬が、急に年相応の人間の青年になった、気がした。やけに穏やかで理知的な眼差しで見下ろされて。翠薇が戸惑い瞬く隙に、絳凱は彼女を腕の中に閉じ込めた。
「中原に覇を唱えた皇帝の、最愛の后、と──そのように国史に刻まれるの誉れ高いことであろう? どんな絹よりも宝飾よりも眩い、替えの効かない贈り物だ」
「絳凱様……?」
耳元で熱く囁かれる言葉に、翠薇の心はまったく躍らない。権力も後の世の名声も、皇帝からの寵愛も。彼女が望むものではない。
翠薇の冷めた様子を見て取ったのだろう、絳凱は微かに苦笑した。
「そなたは欲しないのだろうが。そなたが喜ぶものは、いまだにまだ分からないのだが。だが──朕に贈れるものは受け取って欲しい」
「……ええ。御言葉は──たいへんありがたく伺います、わ……?」
南伐は、魁国皇帝の悲願ではなかったのだろうか。武を好む民の猛る血に駆られて、喜んで戦いに臨むのではなかったのだろうか。
(この男は──私のために、と……?)
女ひとりを喜ばせるために──否、翠薇が喜ばないのは承知の上で、それでも何もかもを与えようというのか。底の抜けた壺に水を注ぎ続けるかのような、無為な行いで国を動かすというのなら愚かなこと。……その、はずなのだけれど。
「皇后様──」
と、低く呼び掛ける声に、翠薇は絳凱に抱かれたまま、目線だけを動かして応えた。
そこには、宦官がひとり平伏している。皇帝と皇后が睦み合う寝台に、近づくことさえ憚るように部屋の隅から上目遣いに窺う表情は、翠薇に伝えたいことがあると訴えていた。
宦官の眼差しは、翠薇が寝台を抜け出て彼の唇に耳を寄せるようにと懇願していた。皇帝には聞かせるべきでない、後宮の采配に関する何ごとかが起きた、ということだ。
察した上で、けれど翠薇は小さく首を振る。応えを紡ぐ時も動かすのは舌だけ、絳凱にぴたりと寄り添って離れることはしない。
「皇上は明日、発たれるのです。面倒なことは明日にしておくれ」
「ですが──」
「お願いだから──ね?」
絳凱に熱く慕わしげな──と見えるであろう──視線を向けると、宦官はものいいたげな表情ながらも額を床に擦りつけてから引き下がった。皇帝との名残を惜しみたいのだろうと、都合よく解釈してくれたらしい。翠薇にとっては都合が良いけれど──
(ほんらいならば、何を措いても報告しなければならないことでしょうに、ね)
翠薇には何が起きたか分かっている──というか、彼女こそがそうなるように仕向けたのだから、良いようなものの。皇后に仕える者としては迂闊かもしれない。
今の者の顔は覚えておいて、後で何らかの罰を与えたほうが良いだろうか。
「翠薇? 今の者はどうかしたのか」
考え込んでいると、絳凱の拗ねた声が呼び掛けてくる。翠薇はすぐに宦官のことも、かの者が報告しようとしたであろうことも頭から追いやって、微笑みを纏う。
「いいえ、何も。宦官のことなどはお気になさらないで──今宵は、どうか私だけをご覧になってくださいませ」
彼女の笑みと言葉に、嬉しそうに尻尾を振るように破顔する絳凱は、いつもの無邪気な子犬だった。分かりやすく扱いやすく、亡くした母の愛を求めるたけの、ただの子供。
「ああ。そうだな。そなたの姿を、しっかりと目に焼き付けておかなければ」
彼女がよく知る絳凱の振る舞いは、翠薇を安心させてくれた。だからその後は、彼女のほうでもいつも通りに振る舞えば良かった。優しく寛容に慈悲深く、ひたすらに甘やかして。
そして翌朝、絳凱は晴れやかな顔で軍の先頭に立って南へと出征した。




