第3話 疑いの種
赫太子を下がらせることを思いついたのは、絳凱にしては気の利いたことだった。だが、李洸廉については何も言及しなかったのがこの男の限界だと、彼の腕の中に納まった翠薇は密かに思う。
(何も、立ち会わせる必要はないでしょうに)
李洸廉は、皇帝の存在に畏まり平伏している。それでも、伏せた姿勢からでも表情が強張っているのは見て取れる。
ついこの間まで卑官の身であったものが、後宮の醜聞に立ち会うことになってしまったのだ。さぞ居心地が悪いことだろう。それに──
(……余計なことを言ったわ)
皇后を睨みつけたいという衝動を抑えて、翠薇は密かに掌に爪を立てる。
先の皇太子である丹の、彼女の甥について、聞くに堪えない邪推を口にした皇后のことは決して、絶対に許さない。けれど、苦し紛れの悪態と分かっていたのに我を忘れてしまったのは、間違いなく翠薇の失態だった。
絳凱には見られていないから、まだ良い。けれど、李洸廉は本当の望み云々とわけの分からないことを彼女に尋ねた。そんな相手に本心の一端を見せたのは不覚としか言いようがない。
(下手な幻想を抱いていないとは思うけれど……!)
無理やり引き込んだ経緯からして、翠薇が見た目通りの──姉によく似た──嫋やかな佳人だと信じ込んでいるはずもないだろう。
だから、李洸廉が今さら翠薇に幻滅するとか恐れをなして逃げ出すとかいうことはないはずだ。彼女の気分として落ち着かず、気に入らないというだけで。
苛立ちに乱れる息を整え、不穏に張り詰めそうな腹を撫でて宥めるうち──孫太后が供を引き連れて現れた。
絳凱は何をどこまで伝えたのだろう、珍しく息を弾ませ、慌てた様子を見せているのは、却霜の襲撃以来のことではないだろうか。
「玫。これは──」
皇后の乱暴狼藉の痕跡は、すでにあらかた片付けられている。それでも調度や敷物にはいくらか傷がついたし、何より、控える宦官や宮女から皇帝、皇后にいたるまで、場にいるすべての人間が硬い表情で息を潜めている。その雰囲気の異様なこと、さすがの太后をも怯ませるのだろう。
(特に、後ろめたい心当たりがあれば、ね)
筵席が敷かれ、太后が座したところで、絳凱は義母に対して丁重に拝礼した。常と変わらぬ恭しさ──だが、彼の声は重く、日ごろの快活さはなりを潜めている。
「ご足労いただきまして申し訳ございませぬ、義母上。どうしても、お聞きしなければならぬことが出来したものですから」
ひと通りの事情──右昭儀の流産と皇后の糾弾を聞きながら、太后はどういうわけか翠薇だけを見つめていた。その目に宿るのは、怒りと驚愕、不審や疑問の複雑な混淆だった。
いったいなぜ、と問う太后の視線を、翠薇は袖で顔を隠すことで遮った。信じられない、と。目線で語られることこそ信じがたかった。
(分かったと言ったのを信じ込んだの? なぜ? 愚かしいこと……!)
母になった女が我が子をやすやすと諦めるかどうか、という話だけではない。翠薇という女が、姉たちを殺した者におとなしく従うかどうか、という話でもあるのだ。
裏があって当然だと思うものだろうに。太后は、ただ翠薇の流産の報を待つだけだったのだろうか。
青褪めては頬を紅潮させ、何かしらの激情に頬や唇を震わせる太后を前に、絳凱は宥めるような笑みで締め括った。
「無論、義母上がそのような企みを巡らせるはずはないと、信じておりますが。祝英も取り乱しておりますから──」
「妾は、何も知らぬ」
皆まで言い切らせることなく、太后は短く言い切った。
何も、には、絳凱が受け取った以上のことが含まれているだろう。翠薇の裏切りも、毒が右昭儀の口に入るように座視したことも、この女は予想だにしていなかったのだ。
「翠薇への贈り物が届いていなかったなどと──訴えれば、すぐに皇后たちを叱ったものを……!」
そして、今度こそ毒杯を翠薇の口元に突き付けていただろう。翠薇を勝手に後継者のように見込んで、愚かな信頼に目が曇っていなければ。
むろん、胸中の嘲りは口にせず、翠薇はしおらしく目を伏せた。
「皇后様が妹君のためになさったことですから。騒ぎ立ててお咎めがあるようなことになっては申し訳ないと存じました」
「そなた……!」
ことの次第は、すでに察していただろうに。翠薇の言葉によって、改めて手綱が効かぬことを思い知ったのだろう。太后は声を荒げ、膝を立てて腰を浮かせた。
とはいえ、この場で翠薇を怒鳴りつけるわけにもいかないのだろう、太后の矛先は皇后に向いた。
「……皇后も右昭儀も、不幸を他人のせいにしたいだけだ。子が流れるのはままあること、天の理の裡である。軽々しく疑いを言い立てるものではない」
「では、祝桂が食したものをお調べくださいませ! 何ごともないはずはありませんもの!」
そして、皇后も一歩も退かない。毒がどのようなものか翠薇は知らないが、自然な流産ではないと確信できる症状があったのだろう。
「祝英、義母上への非礼は止めよ」
義母と正妻の間で、そして翠薇を腕に抱いて。絳凱は困ったように微笑んだ。
太后についても皇后についても、煩わしく思うことはこれまでにもあっただろうが、両者の言い分の調停を強いられるのは、もしかしたら初めてのことなのかもしれない。
「それで気が済むのならばそのようにしよう。だが、何ごともなければ義母上と翠薇に重々非礼を詫びるのだぞ」
絳凱は、そういうことで済ませたかったのだろう。取り乱した皇后が口を滑らせただけだ、と。
(気付いたからこそ太后を呼び出したのでしょうに。甘いこと)
皇后の刺すような視線を受け流しながら、翠薇は内心で絳凱の怯懦を嗤う。
皇后の主張を聞いて、これまでの諸々を思い返して。太后こそが翠薇への贈り物に毒を持った──絳凱の子を殺し、寵姫を害そうとした。そう結論付けるのは、そう難しいことではないだろうに。
絳凱は、まだ信じたくないのだ。太后を疎ましく思ってもなお、正面から対決し、排除する勇気は持てないでいる。あるいは、曲がりなりとも養育された恩を感じているのだろうか。
「毒が盛られていたとして──皇后の仕業でないと、どうして言える!? 妹の子──皇族を犠牲にしてまで妾を陥れようとしたのならば由々しきこと。厳しく罰するべきであろう」
調べる前から強硬に言い立てる太后は、ひと言ごとに育てた子の情や信頼を削っていると、気付いていない。驚くべき迂闊さは、それだけこの女が狼狽えていることを示している。
翠薇の裏切りに動揺するだけではないだろう。毒が見つかることを、太后はすでに知っている。それによって疑われること、我が子に嫌われることが恐ろしいのだ。
(でも、お前のしたことよ。仕方ないでしょう?)
抱きかかえた翠薇が微笑んでいることには気付かず、絳凱は重い溜息を吐いた。義母か正妻のいずれかが、生まれてもいない我が子を殺したのだと、ほぼ確信したのだろう。
「……とにかく。調べさせぬことには何とも言えませぬ。祝英も祝桂も動揺しているのでしょうし──義母上も、強く責めてくださいますな」
溜息混じりの総括を告げたのは、ひどく悲しげな声だった。しょんぼりと耳を垂れた子犬の姿が目に浮かぶよう。
後で翠薇が、慰めてやることになるのだろう。




