第2話 鬼《ゆうれい》
宦官の行う復の声が、不気味な鳥の鳴き声のように響いている。
亡き人の魂を呼び戻すため、屋根に上って北天に向かって三度、その名を叫ぶのだ。
人によっては悲痛な、と呼ぶかもしれないその声を聞いて、けれど翠薇は心中で吐き捨てる。
(くだらない)
泣き叫んで死者が蘇るなら、どうして姉は翠薇の傍にいないのか。礼儀も迷信も何の役にも立たないのを、彼女はとうに思い知っている。
復などと言いながら、丹の死は受け入れられて、粛々と作法通りの弔いが始まっているだけなのだ。
誰も、何も頼りにならないなら──自ら行動しなければ。
汗や汚物を洗い流して香を焚き、清めた髪を梳いていた翠薇に、宮女がおずおずと呼び掛けた。
「翠薇様。皇上が──あの、太子様のことは、何と」
「ああ、お戻りなのね」
丹の父、魁国の皇帝である絳凱は、遠征の途上にあった。皇太子の危篤の報が陣中に届いて慌てて引き返した、というところだろうか。
(そもそも宮城を空けたりしなければ……!)
皇帝の不在こそが、皇太子を狙う陰謀が企まれる隙を生んだのかもしれない。
勝手な父親への苛立ちを貫くように。簪で髪を纏めると、翠薇は短く答えた。
「私からご説明するわ」
「でも。皇上はお怒りでは──お叱りを受けたら……!?」
宮女の懸念は、一応もっともではある。丹を害した何者かは、翠薇たちの監督不行き届きとされるように、との意図で皇太子が叔母を訪ねる機会を狙ったに違いないから。
けれど、翠薇には不愉快極まりない疑いだった。
「私が丹を害するはずがないでしょう」
ちょうど、身支度も整え終えた。鏡の前から立ち上がると振り返り、宮女を睨め下ろす。鋭い声と視線を浴びたからか、翠薇の装いに驚いたのか。その宮女は目と口を大きく開き、よろめいた。
(その驚きよう……成功しているようね)
宮女の反応に満足した翠薇は、微笑を胸の裡に留めて、沈痛な面持ちで皇帝の御前に参上した。
彼女は、かつて姉が賜っていた殿舎に住まっている。
よって、皇帝を迎えるのに相応しい房室も一応あることはある。姉の死後は使われていなかったから、きっと急いで清掃がなされたのだろう。房室に漂う埃っぽい匂いが、長く使われていなかった空間であったことを教えていた。
(香でも焚けば良いのに。気が回らなかったのね)
秋の庭にも咲く花はあるだろうに飾ることをしなかったのは、丹の弔いのあわただしさゆえか──それとも、清掃にあたった者が、皇帝の目に長く留まるのを恐れたからだろうか。
奴婢であったころから慣れた所作で、翠薇は平伏し、床に額をつけた。
「卑しい身が御前を汚すことをお許しくださいませ」
顔を伏せる前にちらりと見たところ、宦官を引き連れ、毛皮を敷いた席に座す魁国皇帝──絳凱は、確かに苛立っているようだった。整った顎は強張って、歯を強く噛み締めているのも見て取れた。
遠征の士気を挫かれたとでも思っているのだろうか、翠薇を見据える眼差しも鋭く険しかった。
恐らくは、視線の矢で翠薇を貫きながら──命じることに慣れた声が質した。
「太子が身罷ったとか。いったいなぜそのような仕儀になったのだ」
ことと次第によっては厳罰に処す、とでも続けようとしたのだろう。だが、翠薇は皆まで言わせず、高く悲痛な声を上げた。
「はい。死んでしまったのです。私の、丹が」
身もだえする体で床を這い、絳凱の膝もとに辿り着き、そして縋る。無礼は百も承知、それだけ悲しみが深いと見せなければならない。
ゆっくりと顔を上げると、息を呑む気配が降ってくる。
「……婉蓉」
絳凱の唇が姉の名を紡ぐのを聞いて、翠薇は勝った、と思った。
姉が殺された時、彼女はほんの小娘だった。そして最近も、目立たぬためにも着飾ることはしなかったから、誰も気づいていなかっただろう。
翠薇は姉によく似ているということに。化粧や髪型次第で、宮女でさえも鬼を見たような顔色をするほどに。
(少しは姉様に悪いと思っているのね? 安心したわ……!)
姉の婉蓉さながらの嫋やかさで、翠薇は絳凱の胸にもたれた。ゆったりとした袖で目元を覆い、切々と訴える。
「とても可愛い、良い子でしたのに。少し前まで、何も悪いところなんてなかったのです。なぜ、とは私こそ問いたいことです。絳凱様、必ず犯人を見つけてくださいますね……?」
子を生すていどには、この男は姉を愛していた。その鬼が目の前に現れて、我が子のために泣くのを見れば──そう思えば、動揺するだろう。
もちろん、すぐに錯覚だと気付くだろうけど。死んだ寵姫に似た女が泣いているのを、捨て置くことはできるだろうか。かつて何度も訪れた姉の房室で、窓から見る景色には覚えがあるだろうに?
「あ、ああ。無論」
ほら、魁を統べる皇帝は、情けなく声を上ずらせて翠薇を抱き寄せた。なされるがままその胸に頭を預ければ、絹の上衣越しに激しい鼓動が伝わって、彼の混乱と高揚を教えてくれる。
「皇太子の暗殺は重罪だ。必ず、相応の罰を与えねば」
皇太子の母を殺した男が言うのは滑稽だったけれど──丹の死の咎は、めでたく何者かに擦りつけられた。
「なんと嬉しく頼もしいお言葉でしょう」
安堵を味わうのもそこそこに、翠薇は密かに決意する。怒りと憎しみに歪んだ面を誰にも見られぬよう、絳凱の胸に顔を埋めながら。
(私は、姉様の代わりに皇后になる。私の子も皇帝にさせる。ふたりとも、生きたままで……!)
姉とその子が得るはずだった栄光を、彼女が代わりに手にするのだ。姉たちを死なせたすべてに対する、それが翠薇の復讐だ。丹の死の報せは、彼女の宣戦布告になるだろう。
皇太子は死んだ。殺された。
新しい太子がすぐに立てられ、その母もまた殺される。
醜く残虐な本性を化粧と華美な装いで隠した者たちは恐れ戦け。
後宮の女は今や誰も安全ではないのだから。