第4話 ふたつの道
孫太后は、翠薇の膨らんだ腹を忌々しげな目つきで睨めつけた。
監視の目を逃れると言っても、李洸廉とまる一日共に過ごすわけにもいかない。彼が後宮を辞した後、翠薇は太后の無聊を慰める話し相手に召し出されたのだ。
場所は、蓮の浮かぶ池に張り出して作られた石舫だ。
船を模した装飾の四阿は、当然のことながら波に揺れることはない。とはいえ、中にいる者には陸地が見えぬように設計されているから、舟遊びの心地を楽しむことができる。水面を渡る風は暑気を払い、時おり跳ねる魚が生み出す水しぶきは涼しげで──夏の午後を過ごすにはうってつけの場所だろう。
対面しているのが、一瞬の油断も許されない太后でさえなかったら。周囲を水に囲まれた石舫は、暑さではなく人の耳を避けるために選ばれたのだと、気付かないでいられたら。
茶菓を供した宮女が下がると、翠薇は卓を挟んで太后とふたりきりになった。
「赫の学びは順調か。李少師にはもう馴染んだか」
「はい。時にとても鋭い質問をなさることもおありです。頼もしいことですわ」
授業の進捗の報告は、一応は翠薇の務めの一環だろう。彼女は太后の意を受けて皇太子の養育に関わらせてもらっているのだから。
ただ──太后の用件がそれだけだ、などとは信じがたい。
「それは重畳。……玫もたまには同席すれば良いのに」
「ええ、まことに」
探り合いのような言葉を交わしながら、薄く切られた蜜漬けの桃を、太后は品よく平らげる。膝に手を揃えたままの翠薇に勧めることは、もはやない。
しばらく前までは悪阻ゆえに、ここ最近は育ってきた胎児に圧迫されて食欲がないと訴えていたら諦めたらしい。太后が今の翠薇に盛るなら堕胎薬だろうから、相手が平然と食したところで何の保証にもならないのだ。
少なくともまだ、抑えつけて毒を口に押し込まれるようなことにはなっていないけれど──
(そろそろ忍耐も切れるでしょうね。皇帝に言いつける隙を許さずにこの子を始末する方法は、あるの? どう出るつもり?)
手をわずかに動かして、翠薇はさりげなく腹を庇った。
姉が大切そうに抱いていたほど、彼女は胎児のことを愛しいとは思えない。
内臓を圧迫し重石となり、常に息苦しさを覚えさせる存在だ。この苦しみを周囲には見せず、幸せそのものの笑みを浮かべていた姉は、やはり喩えようもなく優しい人で、翠薇とはまるで違う心の持ち主だった。
とはいえ、かけがえのない手札であることは間違いない。一度失えば、また手に入れられるとも限らない。奪わせてはならないのだ。
「そなたとはもっと早くに話さねばならぬと思っていたのだ」
「私などが太后様の御心を煩わせるとは、恐縮でございます」
いい加減、警戒するのに疲れていたところだった。だから、太后が居住まいを正した時、翠薇はいっそ安堵した。──安堵しかけた。
「赫と共に魁の国史を学んでいるのであろう。ならば、魁の皇后に実子がいた者がいないのはもう知っておるな」
太后が切り出したのは、彼女には本題から逸れているとしか思えないことだったのだ。
「はい。存じております」
過去の后妃がどのように記述されているかは、確かに気になることだった。だから赫太子が読み上げるのを待たずに、翠薇は太后が指摘したことを確かめていた。
(要は、身分低い妃嬪に子を産ませ、取り上げ、殺してきたのでしょう?)
皇后は、名家の姫君から選ばれるもの、皇帝と共に祭祀を司ることを求められるものだ。うっかり皇子を産んで死を賜ることになっては何かと都合が悪いから、相応の対策を取ってきたのだろう。
国史には、生母たちは単に薨した、としか記されていないのを知って翠薇は愕然としたのだ。国の勝手で殺しておいて、その事実を覆い隠そうという魂胆には吐き気がする。やはりこの国は何もかもがおかしいとしか思えない。
(それが、何だというの?)
翠薇の怒りを煽って本性を暴こうとしている──ということではないだろう。太后は、殺す側の人間だ。殺される側の思いに思い至るはずもない。
翠薇を見据える太后の目は、いつもの猛禽の鋭さだった。けれど今日に限っては獲物を嬲る獰猛さではなく、ひたすらに冴えた、真摯な眼差しで見つめられているような気がする。
太后の唇が、静かに動いた。
「妾は──そなたを皇后に推しても良いと考えておる」
「──は?」
露骨に眉を寄せてしまったのは、どう考えても無礼であり失態だった。先ほどの李少師といい、今日は翠薇にわけの分からないことを言う者が多い。
翠薇の端的過ぎる問いかけは、けれど咎められることはなかった。
「玫の寵愛はもちろんのこと、赫も懐いている。国史を学ぼうという姿勢も好ましい。諸侯や諸官の尊敬を得られるか、政を乱さぬかについては全幅の信頼は置けぬが、皇后よりはマシだ。実家の権勢を笠に思い上がるあの女は、いずれ理由をつけて廃してやろう」
太后が不快げに唇を歪めたのは、この場にはいない皇后に対してだけだ、と。翠薇はどうにか理解した。信用できないとは言いつつも、太后は彼女を意外なほどに評価している……らしい。
(学ぶのが好ましい? 正気なの? 私が知恵をつけても良いの? 李少師を取り込んでも……?)
決して口には出せない疑問が頭の中でうるさく巡って、目眩がしそうだった。太后の前で集中を乱すなど、あってはならないことなのに。
「だからその子は諦めよ」
「何を……仰られているのか分かりませぬ」
もっと、慎重にならなければならないと、分かっているのに。混乱のまま、翠薇は思ったことを垂れ流してしまう。
「私が皇后などと、あり得ぬことでございます。まして──だからといって。いったいなぜ、そのようなことを仰いますか……?」
「魁の後宮の女が辿る道はふたつしかない。皇帝の母になって死ぬか、子を産まずして皇后になり、国を支えるか。両方を望むのは強欲というものだ」
太后が立ち上がると、纏う衣装の金銀の刺繍や装飾が眩く煌めいた。と思うと、その輝きは翠薇の間近に迫る。太后が、翠薇の傍らに膝をつき、肩を掴み、彼女の顔を覗き込んできたのだ。目を逸らすなど許さぬとでも言うかのように。息が掛かるほどの距離で。
「妾が権に驕っていると見えるなら思い違いというものだ。……妾だとて、諦めたのだ。だからこそ玫を心から愛おしむことができた。そなたにも赫がいるではないか」
石か鉄の仮面のようだとばかり思っていた太后の面に苦悩の影が過ぎるのを、翠薇は信じられない思いで凝視した。この女が述べたことも、まったくもって耳を疑う内容だったけれど。
(強欲でないつもりなの!? 子を諦めることが、子を産んで死ぬのと引き換えになると、本気で思っているの!?)
どうやら太后の後継者に見込まれたらしい、というのは辛うじて理解した。ゆえに、太后と同じ道を歩めと言われているのだろう、と。
太后が皇帝を愛しているというのも、魁国の行く末を案じているというのも、胡散臭く図々しいと思うけれど、まあ認めても良い。でも──
(お前は、勝手に祖法に屈しただけでしょう。私を巻き込むな。お前と一緒にするな……!)
翠薇は、太后とは違う。祖法ありきでいかに上手く生き延びるかなど、考えてもいない。祖法がおかしいのだと、どうして気付かないのだ。
(私は選ばない。どちらも手に入れる。我が子も、皇后の位も……!)
煮え滾る怒りが、演技を取り繕う気力になった。肩に食い込む太后の指から逃れようと、翠薇は身を捩る。堕胎を迫られた母が、普通ならするであろうように。
「私は──この子が男児であろうと女児であろうと、変わらず殿下の乳母同然にお仕えいたします。我が子にも野心など抱かせぬと、天地に誓いましょう」
「ならぬ!」
太后の大音声が、翠薇の鼓膜を震わせた。それでも怯むことなく、かっと見開かれた目を睨め返すと、太后の声音は今度は教え諭す調子になった。
「そなたはすでに左昭儀も落羅夫人も死なせたではないか。命と子を同時に得ようなどと、あの者たちに顔向けできぬとは思わぬのか。まして皇后に登るのならば、何ひとつと失わぬというわけには行かぬであろう?」
そんなこと、まったくもって思わない。
死んだ妃たちは、姉たちを踏み躙ったことへの当然の罰を受けただけだ。
翠薇はすでに、姉と甥を失っている。奪われている。
皇后の位も、決して埋め合わせにはならない。憎い相手に投げ与えられた位で満足できるものか。
すべてすべて、何もかも。奪い取らなければ勝ち誇ることなどできない。
(お前だって殺した癖に……!)
翠薇だけが罪深いかのように言われては、彼女にも言いたいことがある。危ういことではあるけれど──腹をしっかりと抱いて、追い詰められた母を装って言い募る。
「では、姉のことはいかようにお考えでしょうか。甥の、丹のことは? そのような酷い仰せで、姉たちに顔向けできると仰るのですか!?」