第5話 絡め取られて
緑の草原は、瞬く間に血の赤に塗られた。賊の屍体が累々と重なる中、馬から降りた皇帝は愛妃を抱き締めた。
「翠薇! 怪我はないか? 襲われているのを見て、肝が冷えたぞ……!」
「絳凱様。人目がございます。お離しくださいませ」
畏れ多くも皇帝を子供っぽい、と評した薛貴人はまたも正しかったらしい。
細い身体が折れるのではないか、というほど力強い抱擁を受けながら、彼女は苦笑を浮かべて皇帝の背をそっと撫でている。まるで、やんちゃな子供が姉か母にあしらわれるかのような図は、はたして臣下が見て良いものなのかどうか。
皇帝の臨御に跪きながら、洸廉は視線を地平に向けた。皇帝の沓と薛貴人の裳裾の近さは、それだけでも気恥ずかしさを感じさせるものだったのだ。
「翠薇は無事か!?」
と、もうひとつ薛貴人を呼ぶ声が響いた。今度は女の声だ。それも、聞き覚えがあるものだったから、洸廉は伏せた面の影で驚きに目を瞬かせた。
(太后が、わざわざ……?)
天幕も氈もない草原の真っただ中、それも、いまだ血臭が強く漂う中に、高貴な女性が足を運ぶとは。それも、皇帝と皇太子よりも先に、せいぜいが手駒に過ぎないはずの薛貴人を気遣うとは。
洸廉が不審に思う間に、密やかな衣擦れの音が響いた。薛貴人が、慎み深く皇帝から離れたらしい。
「太后様。御見苦しいところを──」
「ああ、構わぬ。それよりも、そなたは常とは違う身体ではないか」
跪こうとした薛貴人を、太后は押しとどめたようだった。
すでに跪いた洸廉の膝からは、寒気と不快な湿気──大地に泥濘を作った流血によるものだ──が這いあがりつつある。だから、まっとうな配慮ではあるだろう。
だが、後宮を統べる女傑が、一介の妃嬪に見せる気遣いとは信じがたい。
(まさか)
太后の不可解にも思える言動に、洸廉の胸にある予感が浮かび上がる。無論、勝手な発言が許される身ではないから、落ち着かない思いで高貴な方々のやり取りを窺うだけなのだが。
「もったいないお心遣い、痛み入ります。皇上のお陰をもちまして、このように何ごとも──」
「義母上。今の御言葉は、いったいどういうことですか。翠薇はどこか悪いのですか」
皇帝の問いかけは、呆れるほど無邪気に響いた。非礼極まりないことだが、赫太子が戯れた時の歓声とさほど変わらないのでは、と思ってしまう。
そして、あやすような薛貴人の、甘い声音も子供に対する時とよく似ていた。
「何でもございませんわ、絳凱様。太后様は動転なさっただけでしょう」
「もしや、薛貴人」
命を拾ったらしい宦官の、弾んだ甲高い声が割って入った時──洸廉は拙い、と思った。
何ら根拠のない、勘でしかないことだから、止めることなど無論できない。宦官が彼の予想を高らかに告げるのを洸廉はなぜか落ち着かない気分で聞いた。
「ご懐妊なさっておられるのですか……!?」
しん、とした沈黙が降りた。上空を舞う鳥でさえ、地上の緊迫を憚ったかのように声を噤んでいる。
地に跪いた洸廉の目に映るのは、血濡れた草葉と硬直しつつある賊の手指くらいだった。
だが、皇帝の目が太后に注がれているであろうことは、感じ取れた。師に教えを乞う子供のような、真っ直ぐなきらきらとした眼差しではないだろうか。
その純真さに折れた、のかどうか。太后は、やがて重く息を吐いた。
「……まだ目立たぬ時期ゆえ、不測のことも多いゆえ、そなたにはまだ伏せていたのだ。だが──妾らしくもないこと、失言であったな。そう。この翠薇はそなたの子を懐妊しておる」
太后が言い終えるか否かのうちに、歓声が草原を揺らした。
馳せ参じた兵たちも、救援を見て取って集まってきた徒歩の宮女や宦官も。一様にひれ伏して、口々に叫ぶ。高さの異なる男女の声が混ざり合い重なり合う響きは、まるで唱のようだった。
「皇上、万歳! 薛貴人、万歳!」
「なんとめでたい──」
「お慶び申し上げます……!」
彼自身も唱和に加わりながら、洸廉は耳を澄ませた。
太后の厳かな声は、祝福の言葉を紡いでいない、と思う。そもそも薛貴人の懐妊を明かした時の声音も、どこか忌々しげで投げやりなものだったような。
(皇上に、懐妊のことを伏せておきたかったのか? なぜ……?)
これで、皇帝の薛貴人への寵愛はいや増すだろう。
皇太子はすでにいるとしても、愛した女の子が可愛いのは当然のこと、皇帝の心は皇后を始めとしたほかの妃嬪から遠ざかるはず。手駒が価値を増すのは、歓迎すべきことだろうに。
「──赫よ。そなたにも弟か妹もできるのだ。翠薇の子だ。嬉しかろう」
息子を呼び寄せる皇帝は、何も気付いていないようだった。あるいは、洸廉の懸念こそが要らぬ邪推なのかもしれないが。
「はい、父上」
「翠薇に祝いの言葉を述べなさい」
皇帝の御子ともなれば、腹違いの弟にも妹にも慣れているのだろう。赫太子は、躊躇いなく薛貴人に抱きついたようだった。
「おめでとう、翠薇」
「ありがとうございます、殿下」
生さぬ仲の義理の母子の絆を窺わせる、麗しい光景だと思いたかった。だが、そう信じ込むには洸廉は不吉な予感を拭いきることができていない。それに──
(薛貴人の御子が皇子なら、赫太子はどうなる……?)
生母を殺してまで立てた皇太子を、無闇に廃するはずがない。薛貴人だとて、死を賜りたくはないだろう。だが、魁国の祖法について、彼女は不穏なことを言っていた。
「ところで、絳凱様。ご紹介したい方がいらっしゃいますの」
「ん?」
衣擦れの音によって、洸廉は薛貴人と皇帝の視線を浴びていることを知った。
「李舎人です。殿下の教師役に、太后様が見つけ出してくださった方です。昊国の宗室の末裔でいらっしゃるとか」
「なるほど。それは、学識に優れているのだろうな」
恐縮を現すためにいっそう頭を垂れながら、洸廉は、皇帝の声に宿るわずかな軽侮を苦く味わった。
武に偏る魁においては、学識は物珍しく高価な玩具のようなものでしかない。尊ぶべきだ、という認識は辛うじてあっても、何の役に立つか分からないと思われている節があるのだ。
だから、皇帝の相槌はさほど熱のこもったものでもなかったのだが──
「それに、たいへん果断でもいらっしゃいます。賊の襲撃があった時に、いち早く私と殿下を助けてくださいましたの」
「それは、礼をせねばならぬな」
薛貴人が続けた言葉に、皇帝は身を乗り出したようだった。洸廉としては慌てずにはいられない。
「私は──臣下として当然のことをしたまででございます」
「謙遜が昊国の流儀なのか? 手柄を誇ったところで驕りにはなるまいに」
誇れるような手柄では、まったくないのだ。彼は、薛貴人の掌中に踊らされていただけで。
(いや……それは賊どもも同じだったのか……?)
すべては薛貴人の思い通りに進んだ、ということなのだろうか。彼を皇帝に推挙する口実を作るための? 会ったこともない寵姫にそこまで見込まれるだけの何が、彼にあるというのだろう。
「義母上の推挙もある。人品も間違いないのであろう。後宮への出入りを許すから、赫を教え導いてやってくれ」
「は。畏れ多いお言葉、恐悦至極に存じます」
つい数刻前に太后に対して述べた言葉を、洸廉は繰り返した。
あの時も、心から喜べるような命令ではなかった。太后の意向に沿って皇太子を教導するのは、皇帝の不興を買いかねないことだから。
今や、皇帝その人の厚意で破格の待遇を与えられたのだから安心できる──はずは、ない。わけの分からないまま、逃れられない何かに絡め取られていくようで。
洸廉の気のない応えは、不遜の謗りを受けかねないものだっただろう。だが、幸いにというべきか、彼が咎められる前に兵のひとりが奏上した。
「皇上。賊の中に息がある者がございます。どのように処断いたしましょうか」
「すぐに死なせるな。身元も、いるならば命じた者も明らかにさせた上で九族を滅せ」
「は──」
容赦ない下命に、その場にぴりりとした緊張が走った。若い皇帝の声は張りがあってよく通り、国を負う者の威厳と瞋恚を存分に伝えている。
「我が妃と皇族ふたりに刃を向けたのだ。大逆に等しい重罪である」
皇帝の言は、まことにもっとも。これを見逃しては国の権威に関わることだ。だが──
(ただの賊ではない。皇上は、まだご存知ないのだ……)
刺客を差し向けた者たちは、彼らの身元が露見せぬよう、どれほど気を遣っただろうか。
薛貴人を片付ける好機に喜び勇んで、精鋭の手勢を送ったりはしなかっただろうか。精鋭──つまりは、名家が手塩にかけて育てた戦士たち、他家にも顔と名前が知れ渡っているような面々を。
ことの次第によっては、魁の名家のいずれかが潰えるのかもしれない。
(これも貴女の狙いだったのか……?)
洸廉がこっそりと視線を上向かせると、薛貴人と目が合った。またも皇帝に抱かれながら、彼女はにこり、と微笑んで見せる。まるで、彼の疑問を肯定するかのように。
洸廉が何に絡め取られたのかは分からない。だが──少なくとも、彼を抜き差しならぬ政争に引きずり込んだのは何者かは明らかだった。
薛貴人を怨んだり、怒りを覚えたりても良いところなのだろうに。美しく悪戯っぽい笑みを見ると、彼女への悪意が霧散していくのが分かってしまう。
(……嵌められたな)
洸廉はきっと、この女から逃げることができないのだ。