第1話 亡命者の末裔
草原を渡る風はいまだ冷たく、騎乗する洸廉の頬や首筋を切るようだった。
都はすでに初夏を迎えつつあるが、北方の山間部に近付くと季節がふた月は逆戻りしたような感覚があった。
馬を駆り、皇帝の行列の一端を担いながら、洸廉は密かに得心する。
(なるほど、皇帝の行幸によって季節が動くということなのだな)
魁国の皇帝は、毎年この季節になると宮城を離れ、諸官や諸侯、妃嬪を伴って北辺を訪ねる。
これを却霜、と呼びならわす。花開き緑萌える都の風を纏った一行が、北辺の霜雪を却ると考えられているためだ。
魁の名家の者にとっては恒例のこと、改めて行幸の意味や字義を考えることなどないのだろう。
だが、洸廉は昨年仕官したばかり、これが初めての却霜だった。ゆえに、宮廷が丸ごと移動したかのような行列の規模、その壮麗さには目を瞠らずにはいられない。
ことに、彼の位置からすると遥かな前方、皇帝に付き従う妃嬪たちの馬車の美しいこと、まだ雪が残る荒野に色鮮やかな花が咲き乱れるかのようだった。
いや、華やかなのは車そのものや、鬣を編まれ。絹や金銀を施した馬具で飾られた馬たちだけではない。
(魁の女人は、南方とは違うのは分かっていたが。後宮の妃嬪でさえもそうなのか)
妃嬪たちの何人かは自ら手綱を取り、気儘に馬を駆けさせている。
広い袖や蝉の翅のように薄い領巾を風になびかせて。帷帽から垂れる紗で顔を隠すことさえしていないから、額を彩る額黄が遠目にも眩く陽射しに輝いて。
風に乗って届く軽やかな笑い声は妙なる鳥の囀りのよう。芳しい香料の匂いと合わせると、天女が戯れる仙境が地上に現れたかのようだった。
これが南方でのことなら、高貴な女性の慎みのない姿は眉を顰められることだろう。だが、北方の魁国においては違う。
魁を建てたのは、草原を騎馬で征服した猛き民。国の体裁を得て数代を経た今でも、馬術や武を尊ぶ気風は存分に残っている。
馬車に留まらず騎乗している妃嬪たちは、恐らくは魁の名族の出なのだろう。草原の暮らしでは、女性でも馬に乗り弓を取ることが当たり前だったというから。下手をすると、彼女たちの馬術は南方出身の洸廉よりも優れているかもしれない。
(学を修めるよりも武を修めたほうが、この国では評価されるのだろうな)
遠征に意欲的な今上帝のこと、武官であれば功績を挙げる機会も多いのだろうが。文をもって仕えようとする彼の前途は今ひとつ暗いのではないかと思えた。
自嘲しつつ、手綱を握り直した時──
「李舎人であるな」
「は──」
名を呼ばれて顔を上げると、絹の美服を纏った男が、洸廉の馬と轡を並べる距離に近付いていた。
高い声とつるりとした顎から、宦官だと分かる。居丈高のもの言いは、貴人の傍に仕える自負から来ているのだろうか
(宦官風情が何の用だ……?)
不満も疑問もあったが、洸廉が口にする暇は与えられなかった。
「太后陛下のお召しである。参られよ」
その宦官が告げた名は、確かに威を借りるに十分すぎるものだったから。
そして、何より。洸廉にとって無視できない召し出しだったから。
* * *
人馬の列を掻き分けるようにして洸廉が参上した時、孫太后は車を止めて休憩をするところのようだった。
「李舎人でございます。お召しに従い参上いたしました」
地面には羊毛を固めた厚い氈が敷かれ、周囲には幕が張り巡らされて貴人の姿を周囲から隠している。簡易に設けられた竈では音を立てて湯が沸いて茶が煮られつつ暖を提供している。
青天の下、ごく簡易な謁見の間ではあっただろう。太后が纏う衣装も、後宮にいる時のそれに比べれば数段簡素なものであったはず。
それでも、氈を重ねたささやかな高みに座す太后は、玉座にあるかのように堂々とした威厳を放っていた。
「李家の者が仕官したと聞いて、会いたいと思っていたのだ。不躾な呼び出し方になったが、そのほうが話が早いであろうからな」
「数ならぬ身をお心に留めていただき、恐悦至極に存じます」
平伏して、氈につけた洸廉の額や手指から、地面の冷気が伝わってくる。だが、彼は寒さではなく歓喜によって震えていた。
(我が家、我が名を知ってくださっていたか! 魁国の太后が……!)
洸廉の出自である河清の李家は、南方であれば知らぬ者のいない名家だ。何しろ、中原に覇を唱えたこともある昊国の皇室なのだから。洸廉の祖父は、昊国においては帝位に近しい皇族だったのだ。
だが、皇室の内での争いに敗れた、祖父は一族を率いて北へ、魁国へ逃れることを選んだ。当時の洸廉は幼児に過ぎなかったが、追手に怯えながら、風雨に晒され泥に塗れて進んだ旅路の心細さは心に深く刻まれている。
「魁国の繁栄のために、昊国の学問は役立とう。声をかけるのが遅くなってすまなかったな」
「もったいないお言葉でございます」
魁国の先帝は、洸廉の祖父を昊国に送り返したり取引に使ったりはしなかった。一族を養うに足る所領を与えてくれたのだから、慈悲深くすらあっただろう。異国に骨を埋めることになったとはいえ、祖父は困窮せずに亡くなったし、洸廉の父も現状に不満はないようだ。
だが、ささやかな所領など洸廉には足りない。昊国にあっては王に列せられたかもしれない身が、北の辺境の豪族ていどで終わるなど耐えられない。
だから、彼は祖父や父が祖国から持ち出した書物で学び、魁国の朝廷に出仕した。かつて草原を駆けた戦士の末裔の国では、南方での由緒も名声も、さほどありがたがられるものではないと、すぐに知ることになったが。
「あいにく、玫は──皇上は、好みが武に偏って困ったもの。だからこそ、太子の教育には早くから心を砕かねば、と考えたのだ」
太后は、皇帝の諱を呼び捨てにして洸廉をどきりとさせた。
(皇上が成人してもなお、太后の顔色を窺わねばならぬとの噂は本当だったのか)
皇太子は、まだ五つだか六つだかの子供のはずだが。洸廉は、どうやら皇太子の教師として見込まれたのだろうか。それ自体は光栄だとしても、太后はいったいいつまで権力を握るつもりなのだろう。
(太后に取り立てられるのは願ってもない──が、結果として皇上に睨まれるようなことは……ある、か?)
懸念を覚えたところで、洸廉に異議を唱える権利などあるはずもない。
事実、太后は彼の返事を待たずに小さく衣擦れの音を奏でた。正面に平伏する洸廉から、脇へと視線を巡らせたらしい。
「赫よ。そなたの師となる李舎人だ。本格的に教えを乞うのは宮城に戻ってからになろうが、この却霜の間に見知っておくが良い」
「はい、おばあ様」
高く澄んだ声が、いまだ冷えが残る空気を震わせた。いかにも素直そうな子供の声に、洸廉は皇太子も同席していたことを知った。
洸廉が、一段と背筋を正したのを見て取ったのだろう、太后は悪戯っぽく笑った。
「許す。面を上げよ。良い機会だから太子と遊んでやっておくれ」
「御意」
話の流れで、遊び相手まで仰せつかったらしい。
(やんちゃな御子なのかな?)
我が子どころか妻もいない身に務まる役目なのかどうか、と。身構えつつ洸廉は身体を起こした。が、子供特有の騒がしい気配は欠片も感じられない。
先ほどの声の主を求めて視線を彷徨わせると、洸廉から見て右手側に煌びやかな塊があるのにようやく気付く。
塊というか──つまりは、豪奢な装いを凝らした美しい女がいた、ということなのだが。その女が纏う絹の艶やかさ、金銀の細工や宝石の煌めき、何よりもその女自身の髪や肌が眩しくて、ひと目見た時の印象はとにかく輝かしい、というものだったのだ。
「殿下。師にご挨拶なさいませ」
その美姫は紡ぐ声も柔らかく嫋やかで、北の辺境にようやく吹いた春風もかくや、の温もりを感じるようだった。
「うん、翠薇……」
美姫は、腕の中に抱き締めた幼児に囁いたのだ。春そのもののような優しい声に聞き惚れた洸廉がそうと気付いたのは、美姫の袖を握りしめたその子が、小さな声で答えてからやっと、だった。




