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魁国史后妃伝 ~その女、天地に仇を為す~  作者: 悠井すみれ
一章 悲嘆、憤怒、憎悪
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第1話 皇太子の死

 たんの鼻と口を塞いだ真綿まわたはぴくりとも動かなかった。何秒も、何十秒も。翠薇すいびがどれほど見つめても、呼吸の気配を見せてくれない。


(苦しいでしょう。早く払いのけないと)


 丹は、翠薇の姉の子だ。まだ七つのやんちゃな盛り。顔に真綿を乗せられたら、くすぐったがってすぐに首を振りそうなものなのに、どうして大人しく寝ているのだろう。


 ほんの数日前までは、元気に庭を駆け回って宮女や宦官たちと戯れていた。

 まりを受け止め、蝶を追い、花を手折った悪戯いたずらな手指が、どうして枯れ枝のように痩せているのだろう。

 桃のようにふっくらとしていた頬が、どうして見る影もなく痩せこけているのだろう。


 瑞々しかった肌は水気を失ってかさかさとして、色はどす黒い。万物を見てはきらきらと輝いていた目は固く閉ざされて。しなやかな手足もみるみるうちに強張って、硬直していくのが見て取れてしまう。


(なぜ。どうして)


 こんなことになった理由は──本当は、翠薇にももうわかっている。


「丹、丹。起きて。しっかりして。私……姉様からお前を託されたのに」


 だって、丹に呼び掛けるのは今や翠薇ひとりだけだ。


 室内に控える宮女も宦官も、誰ひとりとして動かない。丹の汗を拭ったり、水を呑ませたり、手を握ったり背をさすったりしようとしない。もうその必要はないと、皆、受け入れているのだ。


 密やかな衣擦れが静寂を乱し、吐息のような声が囁いた。


「翠薇様。太子様はお亡くなりになりました。たまよばいをいたします」


 ほとんど床の低さから聞こえるその声、平伏した宦官の訴えは、どうしようもなく翠薇の癇に障った。


「死ぬ訳がないでしょう! かいの皇太子たるこの子が! たった七つで!」


 わめくと同時に、翠薇は丹の枕元に並べていた水差しや盃、薬研やげんの類を袖で薙ぎ払った。

 零れた薬の匂いがつんと鼻を刺す。高価なものもあったはずだけれど、丹を助けられなかった薬に用はない。

 精緻な敷物に染みができるのも、構うものか。魁国の後宮の最奥の一角、豪奢な調度も華美なしつらえも、丹のひつぎでしかないなら忌まわしい。


(どうして。誰も、何も……!)


 一様に顔を伏せて、翠薇の怒りをやり過ごす構えの宮女も宦官も、皆、役立たずだ。

 貴重な薬、滋養のある肉、蜜漬けの果実も、同じく、何を食べても吐いては下す丹を、可哀想な子が衰弱していくのを救うことができなかった。


(こんなもの……!)


 怒りに任せて、陶製の水差しをわざわざ拾い上げ、床に叩きつける。八つ当たりだ。翠薇も、無能のひとりだった。

 でも、おどおどして狼狽えたり、早くもき始めようとしている臆病者たちと彼女は、違う。


 翠薇は何よりも怒っていた。理不尽に、不公正に、残酷さに。


「姉様は丹のせいで殺されたのよ!? なのに、どうしてこの子まで殺されなければいけないの!」


 喉を裂くような絶叫に応えるものは、誰ひとりとしていなかった。


      * * *


 魁には、建国以来の祖法そほうがある。


 皇太子の生母は必ず死を賜る、というものだ。


 古来、多くの王朝を滅ぼした外戚がいせきの禍を避けるためだという。


 翠薇も、姉の婉蓉えんようも、その祖法を知らずに後宮に入った。というか、誰も教えてくれなかった。


 彼女たちの身分は卑しい奴婢ぬひであったから。

 実家は富裕な豪族だったと聞くけれど、罪に問われて男は殺され、女は奴隷に落とされた。その罪が正当なものであったか否かは、あったかもしれない安楽な生活と同じく、翠薇たちにはあやふやで縁遠く、訳の分からないことだった。


 アリのように働き、貴人の煌びやかなが通り過ぎるのを見ながら平伏する日々の中、婉蓉が皇帝に見初められたのは幸運だと思ったのに。

 ()()()()に皇子を産ませ、身の安全を計ろうという妃嬪ひひんたちの思惑があったなどと、どうして想像できるだろう。


(許さないわ)


 翠薇の怒りは、すべてに対して激しく燃え盛り、牙を剥いている。


 姉の懐妊を寿ぐ裏で、祖法について教えなかった妃たち。

 姉を孕ませておきながら、法に従って死を命じた皇帝。

 姉の細い首を絹布けんぷで絞めた宦官。

 姉の死後、赤子の丹を奪い去っていった皇太后。


 いくら憎んでも飽き足らない者たちの醜悪な姿と裏腹に、姉との思い出のなんと美しく優しく切ないことか。


『元気な子でしょう。早く抱いてあげたいわ』


 臨月の腹を翠薇に触れさせて微笑む姉は、本当に幸せそうだったのだ。

 言葉通り、姉の腹に寄せた頬に感じる胎動は力強くて。年の離れた、母代わりの姉を奪われるささやかな嫉妬と共に、小さな生命への愛おしさを、翠薇も確かに感じたのだ。


 姉を奪うのが可愛い甥ではなく、訳の分からない祖法だなどと、十歳の翠薇は想像だにしていなかった。


『翠薇。丹のことをお願いね……』


 死の判決を従容しょうようとして受け止めた姉は、目を涙で曇らせて、それでも妹に微笑んだ。無力な子供だった翠薇は、頷くことしかできなかった。


 あれ以来の七年間、翠薇は丹の母親であろうと努めた。

 姉の霊を弔うため、と乞うて、辛うじて後宮に留まることを許された。

 邪推や反感を招かぬよう、着飾ることなく、権も寵も望まず。幼い太子の寄る辺となることだけを考えて。彼を養育する皇太后は、将来に渡って権勢を維持するための駒が欲しいだけだと知っていたから。


 たまにではあったけれど、丹が叔母かのじょに挨拶をすることを許された時には思い切り愛情を注いで甘やかして、望まれた存在なのだと教えてあげた。


 そして丹が帝位に就いた暁には、婉蓉に皇后の位を追贈してくれるはずだった。姉の名が、皇帝の母として輝かしく国史に刻まれるはずだったのに。


(誰なの。誰がこんなことを……!)


 丹の死と共に姉の死も無駄になってしまった。


「……どうして」


 食いしばった歯の間から、呪詛じゅそのような呻きが漏れる。絹の褥を握る指先に、痛みが走る。


 でも、歯が砕けようと爪が割れようと大したことではない。

 婉蓉も丹も、利用されて殺されるだけだったなんて。そんなことは、あってはならない。


 翠薇が、させない。

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