いつもの朝のはずだった(5)
暖炉の煤が、壁を黒くなぞるように這い上がっていた。
まるで過去の記憶が、静かに壁面に刻まれているかのようだった。
その上部、古びた屋根のあちこちに空いた隙間からは、細く鋭い光が差し込んでいる。
光芒の中を舞う塵は、静かに漂いながら光の縁に触れ、やがて闇に溶け込んでいった。
それはまるで、外界の純粋さが、室内の長年積もった時間に呑み込まれていく様を象徴しているようだった。
その暖炉の前には、一枚板で作られた重厚な木のテーブルが据えられていた。
そして、その席に一人の老人が腰掛けている。
年齢は七十を超えているだろうか。
だがその顔立ちは年齢にそぐわぬ張りと力を宿しており、口元には見事な顎髭がたくわえられている。
眉は太く、黒々としていた。その風貌が、職人気質そのものであることを物語っていた。
ただ、頭頂だけは例外だった。
そこには一切の毛髪がなく、まるで長年の時が容赦なく削ぎ落としていったような、見事なまでの禿頭が広がっている。
その姿は奇しくも、妖怪つるべ落としのようでもあった。
男の名は、権蔵。この家の主である。
だが、主と言っても、そんなに凄いわけではない。
というのも、権蔵の身分は『休息奴隷』、すなわち奴隷なのだ。
この聖人世界で『奴隷』とは、『王』『騎士』『神民』『一般国民』に次ぐ身分である。
その下にあるのは『罪人』のみ。
そして、『奴隷』は、『神民』など上位の身分の者たちの所有物なのである。
奴隷に、自らの意志で生きる権利はない。
彼らに許されたのは、ただ主人の命令に従い、その命を使い果たすことだけだった。
それが、奴隷としての“生”であり、“役目”であり、唯一与えられた存在理由でもあった。
ゆえに、彼らは常に争いの最前線へと送り出される。
矢面に立ち、盾となり、斃れゆくために。
その命が尽きても、代わりはいくらでもいる。
新たな“奴隷”が、無表情のまま戦場へと駆り出されるだけだ。
この世界において、奴隷の命とは、換えの利く資源にすぎない。
一枚の羽根が地に落ちるよりも静かに、より無価値に、人知れず命は消えてゆく。
それがこの国の現実であり、誰もが当たり前のように受け入れている秩序だった。
だが、戦場へと駆り立てられる『奴隷』たちにも、わずかばかりの救済は存在していた。
それが『休息』の制度である。
彼らは、『王』を頂点とする社会において、その主たる存在――『騎士』に対し、休息を願い出ることができた。
もしそれが認められれば、彼らは戦場で命を削り尽くした年月と同じ期間、自由を得ることができる。
その自由は、騎士の名によって保証され、いかに『神民』であろうと、その期間中は奴隷の生活に口を出すことさえ許されなかった。
命の軽さが常識とされるこの世界において、それはほとんど奇跡にも等しい制度だった。
ほんのわずかでも、自分の意志で呼吸し、生きることが許される時間。
まさに、奴隷にとって夢のような微かな光だった。
しかし、すべての『奴隷』が、権蔵のように『休息奴隷』として生き延びることができるわけではなかった。
それは、あまりにも過酷で、残酷な現実によって裏打ちされている。
『門』の外――すなわち戦場は、ただの戦いの場ではない。
そこは、人間の命がいとも容易く消えていく、死と隣り合わせの地である。
たとえ一握りの勇気と腕を持っていたとしても、ほんの数年を生き延びることすら奇跡に近かった。
生き残ること。
それ自体が選ばれた者にしか許されない、ほとんど不可能に等しい試練なのだ。
しかし、権蔵には、ただ運に恵まれただけでは説明のつかない明確な強みがあった。
それは、彼が“第一世代”と呼ばれる初期の融合加工職人の中でも、卓越した技術を持つ職人であったという事実だ。
融合加工とは、この国独自の技術体系である。魔物の組織と物質を融合させ、その物質に特殊な能力を付与することを目的とした技術だ。
そして、その能力を実際に発動させるためには「開血解放」と呼ばれる能力起動の手続きを経なければならない。
これは使用者の血液を触媒とし、道具に宿された力を一時的に顕現させる工程である。
一般的に、この能力起動の手続きには多量の血液を要する。職人の技術にもよるが、エスプレッソカップ一杯分ほどの血液が必要とされており、その負担は決して軽くはない。
だが、権蔵が手がけた道具においては、その手続きに必要な血液はわずか一滴で済んだ。
この差は決定的である。
同じ道具でありながら、使用者の身体的負荷を極限まで抑え、かつ安定した効果を発揮させる。まさに、戦場という極限の環境においては生死を分ける差であった。
この技術的優位によって、権蔵は“門”の外、すなわち戦場で四十年という長い歳月を生き抜くことができたのだ。
それは、ただの幸運でもなければ偶然でもない。
彼が生き延びた理由は、確かにその両手に刻まれた技術と経験にこそあった。
『休息奴隷』としての権利を得た権蔵は、戦場から離れた後、森で拾い育てることになった二人の子ども——幼いタカトとビン子と共に、わずかに残された蓄えをすべて投じて、小さな融合加工の道具屋を開いた。
しかし、時代はすでに第五世代へと移り変わっていた。
第一世代の技術しか持たない権蔵の腕は、もはや古き遺物と見なされるようになっていた。
複雑化・高速化した現代の融合加工技術に追いつけない彼の工房には、新たなオリジナル道具の制作依頼が舞い込むことはなかった。
客足が絶えた店内には、重苦しい静けさだけが常に漂っている。
店舗の入り口近く、棚に並べられた短剣や盾は、かつて誰かの手に渡ることを信じていた品々だ。
だが今では、その機会も与えられぬまま、埃をまとい、時間の中で朽ちようとしていた。
皮肉なことに、誰よりも命を削って時代を支えてきた者が、時代に取り残されている。
ここは、そんな不条理を静かに抱えた、ひっそりとした道具屋。
まぁいわゆる全く人気のない道具屋だったのである。
大きなテーブルの中央に、ぽつんと一つだけ芋が置かれていた。
それはほくほくと湯気を立て、柔らかな甘い香りを室内に静かに満たしていく。
権蔵は店の入口に背を向けたまま、一人黙々とその芋に手を伸ばしていた。
年季の入った木の椅子がきしみ、無言のまま芋の皮を割る音だけが、薄暗い室内に響く。
やがて、ビン子が無言で権蔵の向かいに皿を二枚並べた。
どこか不機嫌そうな様子は、明らかにタカトのふざけた言動をまだ引きずっている証拠だった。
その手つきも、少しばかり乱暴である。
対してこちら、まるで何も気にしていない風なタカト君。
奥の台所から、湯気モクモクのふかし芋を――なんと素手で!両手に転がしながら持ってきた。
……バカなのだろうか?
いや、バカなのである。疑う余地がない。
皿に乗せて運べばいいものを、なぜわざわざ熱々の芋を手で転がすのか。
しかも、熱いと分かっていながら、毎回これをやるあたり、もはや才能。
そしてタカトは、ビン子が無言で置いた皿に「ポンッ」と芋を乗せたかと思うと、次の瞬間、手のひらに全力でフーフー息を吹きかけはじめた。
「ビン子ちゃぁぁん! あっちぃぃよぉぉ! 熱いってばよぉおぉぉぉ!!」
まるで火傷の責任をビン子に押しつける勢いで泣きついてくるが――
ビン子はぷいっとそっぽを向いた。完全なる無視である。
……そりゃそうだ。バカには構っていられない。
そんなビン子はタカトが置いた芋を二つに切り分けると、自分の皿だけ持ってさっさと席に座ってしまった。
権蔵は、ため息まじりに目の前の二人を横目でチラリ。
――今朝も、またコレじゃ。毎朝毎朝、あのアホは余計なことばっか言いおってからに……
はァ……と地面まで届きそうなため息をついたかと思うと、渋々とタカトに命令を飛ばす。
「タカト。今日は第六の門の守備隊に頼まれとる汎用道具を届けてこいや」
「俺、今めっちゃ融合加工で忙しいんだけど? じいちゃんが行けば?」
――ドン!!
重低音。権蔵の前のテーブルが突如として悲鳴をあげた。
どうやら「我慢ゲージ」が振り切れた模様。今やタカトを睨みつける目は、ガチで炭でも焼けそうな熱量だ。
「このどアホ! 拾ってやった恩を忘れおってからに、文句言わずに働けい! お前には義理も人情もないんか!」
「へいへい、分かりましたよーっと」
……と、まったく動じる様子のないタカト君。
この程度の怒鳴り声は、もはや毎朝の決まり事。
つまらん上司の朝礼のようなものだ。
しかし今日は、どうも気になることがあったらしい。
そう――まぶたの裏に浮かんだ、あの“お姉さん”。
普段なら聞きもしないのに、なぜか今日は口が勝手に動いた。
「なぁ……じいちゃん……どこで俺を拾ったんだ?」