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いつもの朝のはずだった(3)

 あの後、自分がどうやって助かったのか――タカト自身には記憶がなかった。

 だが、今こうして生きているという事実だけは、疑いようもない。

 おそらく、あのお姉さんが命を救ってくれたのだろう。

 けれど、それきり彼女の姿を見かけることはなかった。


 ――だけど……あのお姉さんの瞳。

 あの時のあの目は、まるで「私を忘れないで」と語りかけているかのようだった。

 あの切なげなまなざし――


 ――忘れるものか。忘れるわけがない!


 あの、ふくよかな胸の感触だけは!!


 そうだ、あの柔らかく包み込むような圧倒的存在感――

 おそらくFカップ……いや、あれはGカップの領域だったかもしれない。

 顔はもう霞んで思い出せなくとも、あの胸だけは鮮明に記憶されている。


 タカトは確信していた。

 あのオッパイさえもう一度触れられれば、すべてを思い出せると。

 ――そう、俺が探しているのは、あのお姉さんのオッパイなのだ!


 あの記憶がよみがえるたび、タカトは考えずにはいられなかった。

 ――なぜ、母は自分を崖から突き落としたのか……。


 あのときの母の顔には、憎しみも怒りもなかった。

 ただ、いつもと同じ、優しい眼差しがそこにあっただけだった。

 いや――それどころか、タカトにだけは生き延びてほしいという、切実な願いが込められていた。

 母は微笑んでいた。今生の別れを悟った者のように。

 その瞳は涙に濡れ、震える口元は、それでも懸命に笑みを作っていた。


 ――やっぱり、あの後……お母さんも……。


 思い出す。

 母の背後に迫っていた、異形の存在。

 あのとき母は、すでに気づいていたのだ。

 迫る殺気――獅子の顔を持つ魔人の存在に。

 だからこそ、タカトを崖から突き落とした。希望を託して。生きて逃げろと。


 ――きっと、そうに違いない……。

 そうでなければ……。


 ……そうでなければ、あの光景の説明がつかない。


 タカトが最後に見たもの――

 それは、獅子の魔人に首を吊るされ、命を奪われる母の姿だった。


 きっともう、母・ナヅナも、姉・カエデも、生きてはいないのだろう。


 そして――あの魔人の目。

 緑の、冷たく、理性を持たぬ狩人の目。


 ――怖い……。


 それを思い出しただけで、タカトの身体は強張り、自然と震えが走った。

 月下にて、父が散らした赤き命の花。

 彼は、その目の前で、父が魔人の顎に噛み砕かれる瞬間を見ていたのだ。


 悔しさと恐怖。

 だが、それ以上に、今こみ上げてくるのは――怒りだった。


 ――あの魔人だけは、許さない!


 かつての自分は、幼すぎて何もできなかった。

 そして今の自分も――

 オタクのタカトも、大して何もできない。


 ――ごめん……母さん……。


 拳を握る。それが、今の彼にできる精一杯の行動だった。

 だが、今は無力でも、必ずいつか……!


 ――殺す。

 殺す……あの魔人を。必ず、この手で。


 そのとき、タカトの胸の奥底から、何かが蠢いた。

 赤黒く、どろどろと、怒りと呪いの混ざり合ったような声――


 ――殺せ……殺せ……すべてを殺せ……。


 その声が心の内で、ゆっくりと這い上がってくることに、タカトはまだ気づいていなかった。

 

「何ぼーっとしてんのよ!」


 ――バキン!


 乾いた衝撃音とともに、タカトの視界がぐらついた。

 仰け反った拍子に、天井の梁に張りついた蜘蛛の巣が一瞬、逆光の中で煌めく。

 足元には、先ほどまでベッドの上でビン子が抱きしめていた枕がぽとりと落ちていた。


 その枕――今しがた、ビン子が全力で投げつけたものである。


 というのも、タカトは先ほどから黙りこみ、難しい顔で物思いに沈んでいたのだ。

 しかも、ただ沈んでいるだけではない。よく見ると、肩が小刻みに震えていた。


 ビン子は、タカトの過去を詳しくは知らない。

 だが、それでも分かる。

 この男が、何かとてつもなく辛いものを抱えていることくらいは。


 そして、過去の記憶に飲み込まれるたびに、彼の中から“明るさ”が、ほんの少しずつ失われていくように見えた。

 それはまるで――別の何かが、タカトという人間を内側から侵食していくかのようだった。


 ――イヤ……タカトをとらないで……


 ビン子の中に芽生えた得体の知れない恐怖。

 その感情の奔流が、彼女の手にある枕を突き動かした。

 思いの丈を乗せて、彼女は全力でそれをタカトの顔面へと投げつけたのだった。


「いてぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」


 鼻を押さえながらタカトは叫んだ。声はやけにクリアだったが、本人は本気で痛い。

 鼻先はまるで、赤鼻のトナカイ。いや、むしろ冬のコンビニ前で売られているサンタ装飾のクオリティに迫る勢いだった。


 ……が、出血は――ない!

 そう、これは奇跡! 勝利宣言! 

 「まだだ、まだ終わらんッ!」とばかりに、タカトは鼻を押さえながら立ち上がった。


 心の中で自分に鼓舞をかける。

 ――鼻血が出ていない。つまり俺は無傷。俺はまだ、イケてる男……!


 ――ということで、反撃開始である。

 反り返った背中をグキッと元に戻すと、タカトは虚空に向かって手を伸ばした。

 彼の脳内ではデュエルディスクが展開しており、すでにBGMは最終決戦仕様だ。


 「俺のターン! ドローッ!」


 そして彼が引いた一枚の“カード”――それは禁断のセリフだった。

 この一言を発したが最後、目の前の少女は確実に怒る。だが、タカトは叫んだ。


 「断じて、お前のような”ド貧乳”は、俺が探し求めている伝説のオッパイではないッッ!!」


 時が止まった。


 そう、彼の眼前に立つビン子にとって、それは最悪のトリガーワード。

 彼女の胸は、平均的どころか、比喩抜きで「まな板」に分類されるレベル。

 どれほど寄せても、盛っても、風が吹けば消える幻。


 ――つまり、これは禁句中の禁句。

 なぜなら、ビン子は普段から巨乳の女性に謎の対抗心を燃やしており、その火種にガソリンをぶっかけるようなセリフを、今まさに、タカトは口にしたのだった。


 当然だが――いや、むしろ必然として、ビン子の堪忍袋はブチッと音を立てて切れた。


 ぶっちーーーーーん!


 というか切れるというレベルではない。

 袋ごと四次元空間で爆散したと言っても過言ではない。跡形もなく、ピースも回収不能。


 なぜなら、タカトは『貧乳』に『ド』をつけた。

 言ってはいけないその一言に、わざわざ増量オプションをつけて届けたのだ。


 ――タカト、覚悟はいいか。成仏しろ。


 ビン子、即・反撃。

 身体がまるでバネ仕掛けのように跳ね上がり、ベッドの上から跳躍一閃!


 その姿は、荒川静香もびっくりの逆・イナバウアー・怒りMAXバージョン。

 ただし演技点ではなく攻撃力重視。


 「朝っぱらから、下劣なこと叫ぶなアホウ!」


 怒号とともに振り下ろされるハリセン! 空中を鋭い弧でぶった斬るッ!


 ビシっ!


 頭に命中! 見事な会心の一撃!!

 タカトの首はカクンと折れ、目線が急降下。彼の視界に映ったのは、床に転がる小さな銀色の物体。


 ――あ、団扇のネジ……こんなとこにあったのか……

 などと余計な発見をしている場合ではない。


 ビン子は腕を組み、仁王立ちのまま上から見下ろしていた。顔はトマトも真っ青なほど赤い。


 「これは貧乳じゃない。発育途中だっつってんでしょ! 言い直せ!」


 「いてて……叩きすぎだっつの! わーった、分かったってばよ! 発育途中な! 発育途! 中っ!」


 渋々ながら片目をつぶり、頭をさすりながら降伏宣言を出すタカト。

 もちろん納得などしていない。ただの戦術的撤退である。


 これは戦略的なロジカルディフェンス。負けたわけじゃない。


 ……だが。


 ……だがしかし。


 ――なんか腹立つッッ!!!


 どうにもこうにもイケてる自尊心が黙っていない。

 ここで黙って終わっては、己の中の“男の魂”がぷるぷる震えて泣いてしまう。

 もうこの際、理由なんてどうでもいい。

 ビン子に謝らせれば俺の勝ち! それが俺の正義!

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