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いつもの朝のはずだった(2)

 タカトはビン子に声をかけた。


「起きろ、ビン子。朝だぞ!」


「……ムニュムニュ……それは私のエビフリャイ……」


 まだ起きる気配すらないビン子の寝言に、タカトの眉がピクリと跳ねた。


 ――寝言か! くそっ……!


 だが次の瞬間、タカトの口元がニヤリとゆがむ。

 油と煤にまみれた腕がそろりとビン子の顔へ伸びていき、黒ずんだ指先が彼女の鼻と口を、まるでバランスゲームのパーツでもつまむようにそっと挟んだ。


 うぐぐ……!


 息ができず、ビン子の顔がみるみる赤くふくらんでいく。

 それを見たタカトは、笑いを必死にこらえていたが――


「ぷぷ……」


 膨らんだ頬っぺたから、時おり小さな笑いが漏れ出す。


 一方、ビン子の顔面はほぼ風船。

 眠気で閉じた目を、パンパンに膨らんだ頬の肉がぐいっと押しつぶしている。

 先ほどまで“女神様”と讃えていたご尊顔は、いまや立派な横綱フェイスである。


「フンガァァ――ッ!!」


 突然、ビン子の張り手がタカトの下アゴをクリーンヒット!


「エビフライ! とったどぉぉぉぉ!」


 高らかな勝利宣言とともに、空へと突き上げられる横綱の掌底!


「我が生涯に一片の食い残し無し!」


 バチィンッ!


 その手の勢いを受けて、タカトの下アゴが白い唾液を引きながら飛んでいく。

 それに追従するように、タカト本体も見事な放物線を描いて宙を舞った。


「……1! 2! 3! カンカンカン! 試合終了ぉぉぉっ!」


 勝者・横綱ビン子!

 彼女の枕元で、目覚まし時計がタイミングばっちりにけたたましく鳴り響く。


 ビン子は誇らしげに腕を突き上げると、そのまま大きく伸びをした。


「もぉ〜! 死ぬかと思ったじゃない!」


 金色の瞳にはうっすらと涙。

 ついさっきまで“勝者”だったとは思えない、しおらしい抗議である。


 その横では、いまだ停止ボタンを押されぬ目覚まし時計がガタガタと騒ぎ続けていた。


「ガッチュさ〜ん! いやぁ、いい勝負でしたね〜! タカト選手、完全に何もさせてもらえませんでした〜!」


 ――とっつぁん……俺は……負けたのか……。


 タカトはふらつく足をなんとか踏ん張り、グラつく膝に力を込めて立ち上がる。


「って、誰が実況許したァァッ!」


 そのまま目覚まし時計をワンステップで掴み、勢いよく壁に投げつけた!


「そうですね〜、ビン子選手の圧倒的な美しさによる、完膚なきまでの――」


 ガッツーン!


 壁に衝突した瞬間、時計の音声はテレビの電源がプツンと切れたかのように、きっちり沈黙した。


 タカトは静かに言った。


「実況は、静かに消えるもんだ……」


 しかし一体、誰が目覚まし時計をあんな実況音声に設定したのか。

 タカトがギロリと視線を向けると、ベッドの上でビン子が得意げににやりと笑っていた。


「……お前か、ビン子!」


 タカトが指を突き出す。


「俺の大好きなアイナちゃんの『タカトくん! 大好き! 大好きよぉぉぉぉ!』の音声はどこ行った!」


「え? あんなのキモかったから、速攻で消したわよ」


「な、なん……だと……!?」


 タカトの手刀がビン子の頭にクリーンヒット!


「いっったぁぁぁいっ!」


「貴様ァ! あの音声を作るのに、俺がどれだけ夜なべして編集したと思ってるんだ!」


「だから言ってるでしょ。あんな、おっぱいしか価値のない変態アイドルの音声なんて──」


「バカ野郎! アイナちゃんは歌って踊れる国宝級アイドルだぞ!」


「じゃ、じゃあ……私が代わりに録ってあげるわよ……『タカト……大好き。本当に大好きよぉぉぉぉ!』……って」


 ……シーン。


 タカトの白目がスーッと細くなり、氷点下の視線をビン子に向ける。


「お前……アホだろ……」


 ――しまったぁぁぁ! 私としたことが、ついついいらぬことを口走ってしまった。

 ビン子は顔を真っ赤にしてうつむいた。

 うぅぅー


 そんなビン子は、少し涙目でぷくっと頬をふくらませながら、ベッドの上であぐらをかいていた。

 むすっと腕を組んだ姿は、まるで世界一可愛い怒れるお地蔵様。


 窓から吹き込んだ風が、足を押さえる腕のすき間を通り抜けて、シャツの前立てをふんわりと膨らませる。

 その瞬間、ビン子はハッと肩をすくめ、慌てて両腕で胸をガード。くるりと体をひねり、じと目でタカトを睨みつけた。


「……ちょっと。今、襲おうとしたでしょ?」

「は? 誰がそんな罰ゲームみたいなことするかよ」


 タカトは言葉で否定する一方、その手は無意識のうちに何かを包み込むように宙をもぞもぞと動かし、指先はまるで干からびたタコの足。

 その顔はというと、目尻がとろんと下がり、口元には気の抜けたうすら笑い。

 どう見てもアウトな表情で、一筋のよだれが口角からつぅーっと垂れていた。


「俺はな……こう、もっとこう……包容力があって、ふわっとしてて……あのお姉さんみたいな……」


 ――そう。あのお姉さんだ……

 それまで、彼の目は、理性を失った猿のようにだらしなく歪んでいた。

 だが――ふと脳裏に、ひとつの記憶が差し込む。すると、瞳からふざけた光がすっと消えた。


 左手が先ほどまで不埒な妄想に耽っていた右手に静かに別れを告げた。

 「もう用済みだ」とでも言いたげに。

 そしてその手は、ゆっくりと自らの左頬へと触れる。

 どこか遠くを見るような眼差しのまま、過去の断片を手繰るように、彼は記憶の奥へと沈んでいった。


 ――あれは、確かにあった情景だった。


 幼き日の記憶。

 五歳のタカトを抱きかかえていた一人の女――彼の記憶に残る“お姉さん”。

 金色の瞳をした彼女は、泣いていた。


 瞳から流れる涙は止まることなく、その長い金髪とともに、血に濡れた幼子の顔へと触れていた。

 その膝の上で、タカトの視界は揺らぎ、滲んでいく。


 「血が……止まらない……体が冷たい……どうしたらいいの……どうすれば……」


 震える声でそう叫ぶ彼女の姿は、幼心にも強烈に焼き付いていた。

 焦点を失いかけた視界の先――

 崖の向こうに、かすかに見えていたのは、母が最後に笑った場所だった。


 ――そうだ。あのとき、自分は確かに落とされたのだ。


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