いつもの朝のはずだった(1)
「……また、あの夢か」
少年はぽつりとつぶやいた。
油にまみれた作業机に突っ伏したまま、ゆるりとまぶたを開く。目元ににじむ眠気と、油汚れの黒が混ざる指先。夢と現実の境目は、今日も曖昧だった。
――あれから、何年が過ぎたのだろう。
視界に広がるのは、乱雑に広がった工具とネジ。
右手がだるげに伸び、まるで時間すら面倒がっているように道具を押しのけながら何かを探る。押しのけられたスパナがカン、と乾いた音を立て、作業机の上で軽く跳ねた。左耳に響くその振動も、今となっては日常の一部だ。
だが、少年の意識はそこにはない。
目は、ただじっと右の掌を見つめていた。油に染まり、ひび割れた小さな手。その表面を眺める視線には、年齢に不釣り合いな苦悩が滲んでいる。
――あのとき、母さんの手を……掴んでいれば。
小さな拳が、ギュッと握られる。
それを額に押し付け、息を潜めるように震えた。
短く刈られた髪が指先に触れ、わずかに揺れる。
わかっている。あの瞬間には、戻れない。
何をどうしても、過去は変わらない。
それでも、考えてしまうのだ。繰り返し、際限なく。
そして、そうして思い返すたびに――
鳥のさえずりすら遠慮しそうな、細く小さな嗚咽が、噛み締められた歯の隙間から、じわりと漏れた。
その瞬間だった。
少年の背後から、何かを嘲笑うかのような――いや、ただ熟睡しているだけの――可愛らしいいびきが響いた。
「くかぁぁぁぁぁぁ♡」
ビクッ!
少年はコメツキバッタのように反射的に跳ね起きた。完全に寝起きなのに、無駄にキレのいいリアクションである。
たぶん、泣き顔を見られたと思って焦ったのだろう。
だが、彼の体はあまりに細く、棒のよう。16歳の青年にしてはあまりにも頼りなさすぎた。
しかもそのTシャツ、ヤバい。何がヤバいって――超絶ダサい!
白地に油染み。プリントされているのは、この国のトップアイドル、アイナちゃん。
ファンの鑑? いやいや、その着古された姿はむしろアイナちゃんに土下座案件。
剥げかけのプリントで、お肌すべすべのアイナちゃんが今や完全にシワシワのババア状態。
おいコラ、推しに失礼だぞ。
そんなボロT着て「推し活」とか言ってんじゃねぇ!まずは洗濯機にかけてこい!
……まぁ、アイナちゃんに関しては一旦置こう。問題はその作業机だ。
何だあのカオス空間は。
机の上には、美少女フィギュアに猫耳(犬耳説も浮上)、カエルの置物にバナナ……バナナ?
もう意味がわからない。何がどうしてこうなった。
そして中央に鎮座しているのが――アイナちゃんのプリントされた団扇。
どうやら、こいつ……これを作っていたらしい。しかもマジで。
団扇の横には広げられた一枚の紙。びっしり書き込まれた設計図……!
……って、団扇の設計図!?どんだけ本気なんだよ!
そこには風速計算から材質選定、そしてスカートをはいた女の子たちの図解まで。
え? スカート丈? 布の種類? ……いやいやいやいや、これはもうただの変態だろ!
そう、こいつは変態だ!
このどう見てもオタクな少年は、夜通しこの変態団扇を作っていたのである!誇らしげに!なぜか!
名を、天塚タカト。
道具作りが生きがいの技術系オタク。そして、圧倒的にモテない。
そしてさっきまで夢に出ていた幼いタカト――その11年後の姿が彼なのだ。
そんな彼の体が、ギィィィ……と油が切れたロボットのようにぎこちなく背後を振り返る。
いったいその先に何があるのか。
たぶん、ろくなもんじゃないだろうwww
「ビン子のやつ。また、俺のベッドで寝やがって!」
タカトが振り向くと、そこには彼の“最後の砦”……という名のヘタレたベッドが転がっていた。
そのベッドの上では――
13歳くらいの女の子が、無防備すぎる姿でぐっすり夢の中。いや、無防備にもほどがある。
この少女、名はビン子。
姓はない。ただのビン子である。
……で、当然ながらタカトとの血縁は一切ナシ。兄妹でもなければ、従妹でもなければ、義理もへったくれもない。完全なる他人である。
そんな他人なふたりは、ごく普通に肥をし、ごく普通以下の貧困を謳歌していました。でも……ただひとつ違っていたのは、
それは――
\ビン子様は、魔女……ではなく神様だったのですッ!/
(「奥様は魔女」のナレーション的テンションで読んでね。)
……なんだとぉ!? 神様だとぉ!?
この寝相ダイナミック少女が、そんなに偉いのかッ!?
そんなことはナッシング!!(即答)
なぜなら、この神様、記憶を失って何の力もないのです。。
つまり、ただの女の子。いや、神様っていうより、むしろ貧乏を呼び寄せる“貧乏神”そのものかもしれない。
そう、タカトとビン子の暮らしは、もはや“貧乏”の域を超えて“伝説”に足を突っ込んでいた。
それはもう、「赤貧」なんて生ぬるい。
堂々たる「キング・オブ・貧乏」。
人類貧困選手権があったら、メダル狙えるレベルなのだ。
ベッドで横たわるビン子は、どうやら昨夜のどこかで睡魔に敗北し、そのまま沈没したらしい。
白いシーツの上に仰向けで寝るビン子の黒髪は、扇状に広がり、まるで夜の闇が少女を包み込んでいるようだった。
光を吸い込むその髪の中で、透けるような白肌が浮き上がる。
ワイシャツのボタンが一つ外れているのは、偶然か、それとも誰かの陰謀か。
しかも、無造作に着ているワイシャツの裾からは、光に透けたなめらかな太ももが覗いているではないか!
――ちょ、えっ、やば、えっちすぎない?(語彙力どこいった)
タカトは思わず目をそらす。が、次の瞬間、ちらっとだけ視線が戻ってしまう。理性、敗北寸前。
――いやいやいやいや……ビン子は妹みたいな存在だろ!
一緒に遊んだし、腹も鳴らし合ったし、パンの耳を分け合った仲だぞ!?
そんな子に、そんな目を向けていいわけが――!
――でも、だ。最近ちょっとだけ背も伸びてきて、なんかこう、腰とか、丸くなってきたというか……
やめんかアホーーーッ!!!
脳内の理性がフルパワーで赤信号を連打している。けれどその一方で、タカトの胸の内には別の感情もあった。
この子は、どこから来て、なぜここにいるのか。何もかもを忘れて、ただそこにいるだけのビン子を誰が守るというのだ。
――俺しかいない。
そう、これは欲望ではない。使命である。守護者としての覚悟。そうだ、これはきっと性なる感情!、もとい、聖なる感情なのだ。たぶん。たぶん。きっと。おそらく。
――だからちょっと見てしまうのは仕方ないよね、という結論で今日もタカトは自分を誤魔化すのだった。
そんなタカトの心を見透かすかのように、窓から朝日が差し込んできた。
いや、差し込むなんてやさしいもんじゃない。
バチィッ!と顔面直撃である。光のフルスイングである。
「まぶしっ……!」
タカトの目の下には、徹夜明けを物語る立派なクマが鎮座していた。そのクマめがけて、太陽は躊躇なく光のムチを振り下ろす。
まるで、「さあ起きろぉぉ!」と、眠気に必死でしがみついてる彼を叩き起こす残虐トレーナー。
この朝日、愛がない。もはや太陽による拷問である。
(頼むから、空気読んでくれ……)
タカトはそんな希望的観測を抱きながら、うらめしそうに窓の外をにらんだ。
だが、そこに広がっていたのは――圧倒的な緑!
山、森、木、木、木! あと、ちょっと木。
そう、360度どこを見ても森しかない。視界、オール緑。地味に目にもやさしい。
文明? そんなものはとっくに置き去りである。
街はどこ? 人は? コンビニ!? ……ない!
なぜなら、ここは“融合国”のハズレにある、誰も来ないガチ森のど真ん中。
しかも!
──この国には、異世界と異世界をつなぐ「門」があるという。
なにそれ急にファンタジー!?
いや、そういう話なんです。ハイ。
「えっ、そういう設定だったの?」って顔してますね? 分かってます。
でもこっちだって唐突に始まってびっくりしてますから。
とりあえず今は、「そういうものなんだな~」って受け止めてください。お願いします。
そんな窓辺には、昨晩ビン子が読んでいたと思しき恋愛小説が一冊。
開きっぱなしのページの上で、使われなかったヘアブラシと髪ひもが肩を寄せ合い、風に吹かれながらそよそよと揺れている。
まるで──「この小説、イイネ押し忘れて寝てんじゃねーぞ」と本気でカクヨムにログインしようとしてるような姿だった。
そんな爽やかな風が室内を通り抜けるたびに、ビン子の長いまつげがかすかに震える。
差し込む朝日が、粒となって彼女の透き通るような肌に散らばっては、きらきらと反射していた。
……控えめに言っても、美しい。
その姿はまるで、ベッドに舞い降りた清らかな女神。
しかし。
その神々しい唇の端から――ぬるりと、よだれ。
え? よだれ?
いや、いくらなんでも……女神様ですよ? この世の理を超越した尊き存在ですよ?
でも、現実はそんな幻想を全力で裏切ってくる。
寝顔は幸せそうである。
もしかすると、夢の中で豪華なフルコースでも食べているのかもしれない。
──うん、きっとそうだ。そういうことにしておこう。
だって、その証拠に……よだれが、枕の上で“ビン子特製スープ”を煮込んでいるのだから。