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プロローグ④

 タカトの小さな身体が、崖下へと落下していく。

 咄嗟に彼は右手を伸ばした。

 母の手を求め、必死に空を掴もうとする。

 だが、その手は届かない。

 淡く色づきはじめた暁の空が、冷たく広がるばかりだった。

 そして次の瞬間、空を切るその掌の先に映ったのは――

 魔人の腕に首を吊り上げられた、ナヅナの姿だった。


 落下を続けるタカトの体は、やがて崖の途中に繁る木々に衝突した。

 折れた枝が次々と飛び散り、その勢いのまま、彼は地面を覆う深い緑の藪へと突っ込んでいった。

 その上空、かつて母が立っていた断崖の縁は、もはや視界の霞む彼方にある。

 それほどの高さだった。

 誰もが、幼き命が助かるはずがないと考えるだろう。

 あの獅子の面を持つ魔人でさえも。

 ――だが、ナヅナだけは違った。

 タカトは必ず生き延びる。

 彼女は、最後の瞬間まで、それを信じていたのだ。


 その茂みに、一人の女が足音も荒く駆け寄ってきた。


 金色の髪、そして金色の双眸を持つ女――。

 金の眼は、神の証。

 すなわち、この女は神である。


 なぜこの場に、なぜこの瞬間に神がいたのか――その理由はひとまず置いておこう。

 だが、その問いを後回しにしてもなお余りある現実が、今ここにあった。


 女神は茂みを懸命にかき分け枝葉を荒々しく裂き進んでいく。

 その目は、深き緑の奥に沈んだ小さな命を確かに捉えていた。


 ようやくタカトの身体を見つけ出すと迷いなくその腕を掴み引き上げる。

 だがその四肢は不自然に折れ曲がり力なく垂れていた。

 一目で、幾本もの骨が砕けていることが明白であった。


 ゲボォ――。

 血と共にこみ上げたのは、まだ消化されぬ胃液の熱と、命が削られる音だった。

 幼い喉から絞り出されるように噴き出した鮮血は、かすかに痙攣する唇を染め、白い頬を伝って地に滴る。

 タカトの脇腹は、もはや“裂けた”という表現では足りなかった。

 剥き出しになった筋肉の奥、深く抉られた傷口からは臓腑が顔を覗かせている。

 内臓の一部が、脈動しながらわずかに震えていた――生きている証が、そこにあった。

 しかしその証も、いまや風前の灯である。

 肌は急速に血の気を失い、雪のように白くなっていく。

 四肢にはまるで力が入らず、意識の光はかすれ、瞬きの間にも深い闇が忍び寄っていた。

 命が尽きようとしていた。

 今この瞬間にも、その小さな胸の奥から、魂が音もなく抜け落ちようとしている。

 息は浅く、かすかに漏れる呼気は、もはや生きる意志よりも苦痛の名残に近かった。


 女神はタカトの小さな体を膝に抱え、その裂けた脇腹に両手を押し当てた。

 はみ出した腸が指先に触れるたび、震える手に力がこもる。

 どうにか命を繋ぎとめようと、ひたすらに傷口を塞ごうとした。

 だが、止まる気配はなかった。

 押さえる手の隙間から、熱を帯びた鮮血が絶え間なくあふれ出す。

 血は女神の指を伝い、手首から肘へ、そして彼女がまとう純白の衣を容赦なく染めていった。

 紅に染まった衣は、まるで彼女の無力をあざ笑うかのようだった。

 神であるはずの自分が、この幼い命一つ救えない――その事実が、心に冷たい刃となって突き刺さる。


 タカトの身体は、冷えを増していく。

 その小さな首を支える腕から、女神自身の体温も確かに奪われつつあった。


 死はすぐそこにいた。ただ、黙って寄り添うように――。

 

 その気配は音もなく忍び寄り、肌を撫でる風のように冷たく、確かだった。

 その瞬間、女神の胸中には、どうしようもない無力感が広がっていく。

 それはゆっくりと膨れ上がり、やがて、これまで感じたことのない恐怖へと姿を変えていった。


 それはまるで、死神が静かにタカトの名を呼び、腕の中の命を引き取ろうとするかのようにも思えた。

 冷えきった空気が、確実に女神の心を締めつけていく。


 ――だめ……!


 女神は、死の気配を払いのけるように、強くタカトを抱きしめた。

 己の温もりと祈りで、その命を包み込もうとする。


 ふと、タカトの目がかすかに開いていることに気づいた。

 女神はその顔をそっと近づけ震える声で語りかける。


「この身がどうなろうと……あなたを救ってみせます……もう二度と……あなたを失いはしない……ア……」


 その声と共にタカトの左頬に触れたのは女神のやわらかな胸。

 それは、冷えゆく小さな命を、最後のぬくもりでそっと包むかのようだった。



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