いってきま~す(1)
遠くで鐘の音が鳴っていた。
カン、カン、カン――
それは人魔の襲来を知らせる警鐘の音。
この音が響けば、人々は「ああ、またか」と、ため息まじりに人魔の出現を悟るのだった。
その警鐘がかすかに届く、権蔵の道具屋。
どうやら、配達の準備はすでに済んでいるようだ。
店の前のあぜ道では、草を食べ終えた老馬が退屈そうに首を振っている。
やがて鼻先を道端の花へと近づけ、群れる蜜蜂たちと気まぐれに戯れはじめた。
太陽は先ほどよりもずっと高く昇り、老馬の尾が振るたび、その影は木陰の端からじりじりと押し出されてゆく。
――今日も、相変わらず暑苦しいわね……。
ビン子は空を仰ぎ、頬をつたう汗を指先でぬぐった。
さて、タカトはというと――木陰にある大きな石の上で、あぐらをかいて座っている。
「疲れたー! 疲れたー! ねぇビン子ちゃん、俺、もうクタクタだよぉ……」
まるで「俺はすごく頑張ったんだからね!」と言わんばかりに、シャツの襟元を左手でぐいっと広げ、右手で一生懸命に風をあおいでいた。
……でもね、タカト君。
あなたが運んだのは、命の石の粉末がちょこっと入った、小さな革袋ひとつだけなんですけど!
――残念!
とはいえ、そんなタカトの愚痴にも、隣のビン子はまったく耳を貸そうとしない。
この“かまってちゃん”ぶりは、いつものことなのだ。
いちいち相手にしていては、つけ上がるばかり。
背後では、警鐘がいまだ鳴りやまぬまま続いている。
そしてその音に重なるように、タカトのブツブツというつぶやきも、延々と鳴り響いていた。
ビン子は、それを振り払うように、耳にかかる黒髪をサッと後ろへとかき流す。
髪先から垂れた一筋の汗が、首筋をつたって、静かに胸の谷間へと消えていった。
……ここだけは、先ほどの街の騒乱とはまるで別世界のようだった。
ビン子は、それを払いのけるように、耳にかかる黒髪をサッと後ろへとかき流した。
その髪先から垂れた一筋の汗が、首筋をつたって静かに胸の谷間へと消えていく。
……どうやら、ここは先ほどの街の騒乱とは、別世界のようだ。
「あの鐘の音……どうやら、街に人魔が出おったようじゃな」
まるでタイミングを見計らったかのように、権蔵が店から姿を現し、二人に声をかけた。
「いいか、お前ら! もし人魔に遭ったら、荷物なんぞ放ってすぐに逃げるんじゃ! 人魔症なんぞにかかったら、えらいことになるからな!」
「大丈夫よ。アホは人魔症にかからないんだから」
ビン子はそっけなく返しながら、権蔵から納品書を受け取った。
……そう。
人魔症にはちょっとした“特徴”がある。
知能の低い動植物ほど、この病に対する抵抗力が強いのだ。
そのため、人魔症は“人にしか感染しない”と、広く知られていた。
「誰がアホやねん!」
ビン子の一言に、タカトがすかさず食いついた。
おや? まさか自分のことをアホだと認識しているのだろうか?
それはそれで、たいへん素晴らしい!
自分がアホであると気づくところから、人は成長していくものなのだよ、タカト君。
「アホはお前だ! ビン子!」
タカトはビン子を指さし、なぜか得意げに大笑いした。
いや……やっぱり、こいつは自覚ゼロだわ。
「いやいや……アホはアンタでしょ」
「そうじゃ、アホはお前じゃ……」
ビン子と権蔵が、冷めた目でタカトを見ながら、ぴしりと同時に指を差した。
「え? 後ろに誰かおるん?」
タカトはキョロキョロと振り返る。どうやら本気で“別の誰か”がいると思っているらしい。
……
……
「「お前しかおらんじゃろが!」」
お前には幽霊でも見えるのか!
天気のいいこんな日には、幽霊なんぞ出てきても暑さで即成仏するわ!
拳をぎゅっと握りしめながら、ビン子と権蔵は怒りを必死に堪えていた。
――ああ、ほんとうっとおしい!
ここまで能天気だと、真夏の太陽よりタチが悪い!
幽霊がいるはずだと信じて、木陰や石の下をひたすら探し回ったタカト。だが、当然ながら何も見つかるはずもなく、不貞腐れた顔で荷馬車の御者台によじ登った。
――俺はアホちゃう! アッフォや!
A.F.O! それは「オール・フォー・ワン」――略してアフォ!
どこぞのヒーローアニメで、裏社会を牛耳る究極悪のごとく……
この世のすべての女を独り占めする、エロエロ大王なのである!
ワハハハハ! 全てはオッパイのためにあるッ!!
「……なに言ってんのよ、ほんとにもう」
すでに呆れを通り越して、もはや何も感じなくなったビン子は、肩にかけたカバンを軽く持ち直し、そのまま無言でタカトの横に腰を下ろした。
どうやら、タカトの“心の声”はまたしても、口からダダ漏れだったようである。
――アハハハハ、もしかして聞こえてた……?
俺ってアホやぁぁぁ! ホンマもんのアホやぁぁぁ!
いざ出発、というタイミングで、荷馬車に乗り込もうとしていたビン子に、権蔵が慌てて声をかけた。
「おーい、ビン子。これ、忘れとるぞ」
そう言って手渡されたのは、融合加工技術で作られた眼色改変用コンタクト。いわゆる、カラーコンタクトだ。
ビン子はそれを受け取ると、小さな容器のキャップを丁寧に開ける。
「……あ、忘れてた。助かるわ。ありがとう」
ビン子が指先でつまんだ眼色改変コンタクトを、タカトはじっと見つめていた。
「それにしてもさ、そのカラコン、何度見てもスゲェ技術だよな。じいちゃんが作ったのか?」
「まあ、そうとも言えるし……そうじゃないとも言えるかな」
「どっちだよ、それ!」
タカトが笑いながらツッコむと、権蔵は肩をすくめて答えた。
「作ったのはワシじゃが、その原理は『クロト』様から教えてもらったんじゃよ」
クロト……融合加工院の主任技術者にして、第二の門の騎士でもある天才だ。
「すっげぇぇぇぇぇ! じいちゃん、クロト様と知り合いなのかよ!? 俺も会いたい! 今すぐ会いたい! 会わせてくれ! 頼むってばぁ!」
タカトは子どものようにじたばた暴れながら訴える。それを、権蔵は心底うんざりした目で見つめた。
「たしか、今でもクロト様は道具コンテストの審査員をやっておるはずじゃが……」
「よっしゃ! じゃあ俺も出る! 道具コンテストに出て満点とって、クロト様に認められてやる!」
「……いや、お前の作品は確実に0点じゃ。というか、そもそも参加資格すら満たしておらんわ……」




