プロローグ②
「逃がすか!」
魔人の視線が鋭く正行から逸れた。
まるで、最後の希望を絶対に見逃さないとでも言わんばかりの必死な焦りがその目に宿っている。
地面を踏みしめる魔人の足が力強く蹴り込み、走り去るナヅナを追おうと深く地を抉り取る。
その一歩一歩が、ナヅナの胸に抱かれたタカトを絶対に手に入れたいという渇望を雄弁に語っていた。
しかし、魔人の鋭い爪を、正行は剣の腹で必死に受け止めた。
押し寄せる圧倒的な力に、身体はぎりぎりのところで耐えている。
だが、これほどまでに体格差のある相手と力比べを続けることは、もはや無謀以外の何物でもなかった。
剣を支える右ひじの肉が、麻紐が裂けるような嫌な音を立てて切れていく。
激痛が全身を貫き、覚悟を決めたはずの正行の顔を容赦なく歪ませた。
それでも必死に耐える彼の筋肉は、今にも崩れ落ちそうだった。
だが、あと一時……あと一瞬!
正行の気迫が剣に込められ、必死に押し返す。
足の指が地面に深く食い込み、痛みで裂けていくのも構わない。
剣は悲鳴を上げて軋み続けるが、それでも体は徐々に押し返されていく。
そして、正行が最後の力を振り絞って剣を押し込んだその瞬間――
限界を迎えた剣が、無情にも砕け散った。
右ひじの支えを失い、力なく魔人の腕へと崩れ落ちていく。
何が起きたのか理解できずに、視線はゆっくりと、しかし確実に地面へと落ちていく。
そして、自分の胸に深く突き刺さった魔人の腕を捉えた瞬間、正行は──己の運命を悟った。
口から吐き出される大量の血。
背中を貫く白い爪。
その爪先からは深紅のしずくがポトリポトリと滴り落ちる。
まるで邪魔者を見下すかのような緑の視線は、赤きしずくを垂らす右腕を無造作に引き戻した。
その須臾の後、正行の体に大きく空いた穴から噴き出される大量の血。
タカトは、その凄惨な光景を目にしてしまった。
ナヅナの足が、駄目だと分かっていながらも振り返ってしまっていたのだ。
まだ宙を舞う剣の破片が、月明かりの中で激しく煌めく。
その冷たい月光が、吹き上がる正行の血によってゆっくりと赤黒く染め上げられていくように見えた。
「アナタァァァァッァ!」
ナヅナの絶叫が、死の気配に満ちた静寂を引き裂いた。。
正行は本能的に足を踏み出し、倒れゆく己の身体をどうにか支えた。
しかし、その身にはすでに、最愛の妻の面影を振り返る力すら残されていなかった。
それでもなお、正行は、今にも断たれようとする意識を強引に引き戻し、最後の気力を振り絞る。
「分かっていたことだ……自分が為すべきことを果たせ」
その一言は鋼のように硬く、迷いを打ち砕く力を宿していた。
ナヅナの瞳が揺れ、瞬間、彼女は己を取り戻す。
だが――夫の命が、今まさに目の前で尽きようとしている。
駆け寄りたい。
その身体を、この腕で抱き締めたい。
せめて最後に、名前を呼びたい。
ただ、それだけでいい。ただ、あなたと――叫びたい。
溢れ出す感情が、ナヅナの胸を軋ませる。
そのすべてを飲み込むかのような嗚咽が、彼女の喉を震わせた。
それでもナヅナは、涙に濡れそうになる眼差しを強く閉じ、込み上げる想いを、胸の奥深くへと押し込めた。
「お願い! カエデ、走って!」
ナヅナは我を忘れて立ち尽くす娘の手を容赦なく引き寄せた。
その力には、もはや母としての柔らかな情愛は残されていなかった。
目に宿るのは、ただ定められた何かをなさなければならないという、冷徹なまでの覚悟と使命感である。
カエデの小さな身体が引きずられるように動いた。
だが、ナヅナの心はすでに限界の淵にあった。
愛する夫の死が目前に迫る現実を受け入れる暇など与えてくれなかったのだ。
その時、魔人の腕が静かに動いた。
異形の手が正行の肩を確実に捉え、次の瞬間には一切の躊躇なく、その肉を引き裂いた。
骨と筋が断ち切られる鈍い音が空気を裂き、直後、鮮血が凄まじい勢いで迸った。
噴き出した血潮は、魔人の顔を容赦なく濡らした。
赤黒い液は毛並みに絡みつき、額から顎へと重たく滴っていく。
その異形の顔に浮かぶ深緑の双眸が、血の帳に包まれながら、なおいっそう強く、禍々しく輝いた。
その輝きには、冷酷さや勝利の悦びといった色はなかった。
ただ――満たされぬ渇きと、狂おしいまでの執着のみが宿っていた。
唇が動いた。
その声は低く、震えていた。
怒りでも、嘲笑でもない。
祈るような切実さと、何かを求め続けた魂の震えがそこにあった。
「我が愛しきソフィアの贄となれ……!」
それが、かつて愛した者――ソフィアへと捧げられる供物であるのならば、
命を奪うという行為すら、この魔人にとっては聖なる意味を持った。
血の海に沈もうとも、想いだけは滅びない。
その一念だけが、今の彼を突き動かしていた。
次の瞬間、大きな口が正行の頭に食らいつくと、ミシミシと嫌な音を立てその頭蓋骨をかみ砕いたのである。
その音はナヅナの胸を鋭い絶望となって貫いた。
まるで全身の血が凍りつくような感覚。
恐怖でも、悲しみでもない。それは、完全な喪失を前にした絶対の無力感であった。
それでも、ナヅナは振り返らない。
叫びも涙も、今は許されない。
彼の死を無にしないために、彼が命を賭して守ろうとしたものを生かすために。
今はただ……彼女は前を見据えた。己の背を決して振り返ることもなく。