6話 エリートの祭典(前半)
受付の端末に無言でリングをかざす。持ち主の気も知らずあっさり認証された。髪の毛をアップにした女性から透明ケースに入ったカードを受け取った。
「会場ではこの名札を付けてください。中のチップには演題の目録も記録されています」
「ああ、ありがとう」
名札は当然『黒崎亨』だ。横に書かれた職業は『フリージャーナリスト』。偽装身分も反映済みだ。現代舞台のTRPGなら最も使い勝手がいい肩書の一つで、映画なら好奇心丸出しで危険に首を突っ込み真っ先に死ぬ役回りだ。今の状況がどちらに近いか考えないことにする。
この世界における黒崎亨は『ブラックジャーナリスト』という設定だ。
初めてのシステムなら一番得意な密偵系を選ぶのは必然だ。現代舞台のTRPGで密偵と言えば第一候補が探偵、情報収集特化ならジャーナリスト。技術覇権競争となると産業スパイ、世界の運命にまでことが及ぶことを考えれば公安警察や内閣調査室長職員みたいな諜報職的な要素もありうる。
現実の探偵は職業としては滅びた。組織に関わる偽造はRMの負担が大きいのだという。まあ、準備期間なしでロールプレイできる自信はないし、派手な立ち回りなどごめんだ。
そこで考えたのが『(ブラック)ジャーナリスト』だ。世の中の隠された情報を集め、それを金に換えるジャーナリストだ。これならまだイメージしやすい。
表向きはフリージャーナリストとして経済関係の取材をしているが、実際には依頼を受けてシンジケートの不法研究の情報を集めることで報酬を得ている。そういうカバーシナリオになっている。
スキルの選択は情報収集、正体の隠蔽、防御に偏ってる。スキルがあっても現実で戦闘ロールプレイなんてできる気がしない。というか、最優先事項は敵の目に触れないことだ。
受付の女性の視線から逃げるようにして、エスカレーター下の人目につかない席に移動する。
参加証のホログラムコードをテックグラスに読み込む。まずはこのイベントの概要を掴まなければいけない。読み込まれたのは看板と同じカラフルなデザインの『学会要旨集』だ。目次には「開催の辞」「演題目録」「スケジュール」「会場図」と項目が並ぶ。
高度に知的な遠足のしおりだな。最初は主催者の挨拶だ。大学教授、企業の技術顧問、さらに日本科学技術会議の参与。どれが一番偉いのかわからない肩書インフレの壮年男の写真の横に横書きの文章が並ぶ。
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一般的にはバイオイメージング(BI)と呼ばれる本分野の基礎に日本人研究者が極めて重要な貢献をしたことは皆さんご存知の通りです。今から約七十年前の下村博士によるGFPの発見は、現在のバイオイメージングの基盤として……。
…………
特に近年の注目分野としては細胞内シグナル伝達の一分子レベルの解明、ガンの不均一性の視覚化、神経活動のリアルタイムモニタリングなどがあげられ……。
…………
本学会はバイオモニタリング技術とそれを用いた生命現象の解明に向けた進歩を研究者、企業、そして本分野の将来を担う学生と共有することを目的として設立されました。特に若い皆さんは大いに刺激を受け、積極的に議論に参加していただくことを期待します。
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専門用語を使わないと死ぬのかこいつは。参加者の中では若い方だと思うが、お呼びではないということだけはわかった。
次は『演題目録』。学会で発表される研究のリストらしい。三日間で総数1000以上、二日目の今日だけで340の研究が発表されるようだ。これ一つ一つが新しい科学的発見なのか? 道理で世の中がどんどん発展するはずだ。
それはともかくこの中の一つが俺の、そして敵であるシンジケートのターゲットということになる。試しに001番を選択してみる。三段落ほどの英文が表示され、瞬きの間に日本語に翻訳された。
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BMPシグナル伝達は多細胞動物の発生過程で共通して重要なモルフォゲンですが。その濃度勾配のリアルタイムでの変動については、受容体の逆勾配やリン酸化Madの細胞内のターンオーバーなど複雑な……。
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一段落が終わらないうちにポップアップを消した。さっきの「ご挨拶」は少なくとも最初と最後は意味が分かったが、これは最初の一文から全力で拒否してくる。専門用語以外を使ったら死ぬ勢いだ。002番、003番と見たが状況は同じだった。ダメ押しで100番を見てみるが、数式は日本語訳されないのであきらめた。
考えてみれば『バイオモニタリング』が何なのかわからない。いや、そもそも学会が何をするところなのかもよく知らない。この状態で何を“取材”できるだろうか。全く知らない場所で全く経験ない職業を演じるのはTRPGなら当たり前だけど、リアルだと途方に暮れる。
ちなみにルールブックのスキルリストに知識系は一つもない。「RM、【知識スキル(生物学)】でロールしたい。目標値は幾つだ?」は出来ないのだ。現実の学会でリアルINTの素振りは無茶振り過ぎる。
暗澹たる気持ちでページを進めると『会場案内図』がでた。MAP確認のつもりで一通り巡ってみよう。足で稼ぐというやつだ。この専門用語の塊を見てるよりはましだ。
◇ ◇
「流石は学術集会様といったところか」
黒い液面から立ち上る白い湯気がため息で吹き飛んだ。
一時間後、チカチカする目と頭を抱え、僕は喫茶店に座っていた。知的な遠足もとい登山の疲れだ。完全に遭難した状況、知的な高山病も発症している。
ちなみに逃げ込んだここも憩いの場ではない。ビルとホールの間にあるこの喫茶店、客の会話は専門家同士のそれなのだ。飲食店でハエや鼠、あげく大腸菌の話をするのは営業妨害じゃないらしい。
真っ黒な液体を見つめながら、さっきまでの薄暗い部屋の光景を反芻する。
照明の落ちた会議室で発表者がスクリーンに映し出した映像を説明。座席の何十人かの聴衆が聞く。形式は大学の講義と変わらないし、話しているのも同じような立場の人間だ。だが、大学の講義は専門家が素人に教えるのものだが、ここで行われているのは専門家が専門家にぶつけるものだ。
映し出される画像や動画は表の看板のように一見きれいだ。赤、緑、青に光る細胞、組織、線虫だのハエだの実験動物。とにかくキラキラでカラフルな写真や動画が次々に映し出される。頭に光ファイバーを何本も突き刺したまま迷路を走るネズミはちょっと気持ち悪かったけど。
科学というと数字とかグラフばかりだと思っていたが、やたらと視覚的なのは意外だった。写真や動画の後に、数字やグラフも山ほど出てきたけど……。
つまり、一時間かけてわかったのは、この学会はとにかく生き物を光らせる研究を発表する場であること。どうやらその為に使われるのが『蛍光タンパク』だということだ。ご挨拶にあった「日本人が発見したGFP」ってやつだ。高校の理科資料集で見たのを思い出した。光るクラゲの何がすごいのかと思った記憶しかない。
「この中からたった一つの遺伝子を見つけ出せ? 無理だろ」
テックグラスにルルからの依頼書を表示する。
2022年1月25日:
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