5話 シナリオ開始
外の景色が斜めに流れ始めた。高架道路から降りていく視界が徐々に狭まる。都心の地形的特徴、林立する高層ビルが監獄の鉄格子に見えるのは錯覚だろうか。
燃料電池モーターの滑らかな振動に揺られる無人バスの最後列。僕、いや俺は自分は何者かという“非”哲学的疑問について考えていた。
早朝6:00時、大学前を出た無人高速バスに乗り込んだ僕はテックグラスの端にチケットを確認した。名義『白野康之』。いつもの僕の名前だ。
高速道路を南下するバスは利根川、中川を越え、一時間半で都内に入った。東京には何度も来たことがある。最終目的地である都心の広大な公園にも二度訪れたことがある。一度目は動物園で、もう一度は博物館だったか。だけど、これから始まるのは観光じゃない。
昨夜遅くまで及んだRMとの会話を思い出す。
…………
「『Rules of Deeplayer(RoD)』における【キャラクター】はプレイヤーの脳内に作られるもう一つの意識だ。君はこの意識を通じてニューロトリオンを【スキル】として使う能力を得る」
「キャラクター“として”スキルを使う。なるほど本当にTRPGだな。んっ? 待ってくれ。今使ってる【キャラクターシート】もニューロトリオンで動いているんだよな。何が違うんだ?」
「【キャラクターシート】はあくまで【プレイヤー】がRoDをプレイするための基本機能だ。例えばGMとの通信やキャラクターの作成、レベルアップなんかの管理をする。一方、キャラクタースキルはいわゆるスキルで様々な能力を君に与える。ただしあくまでキャラクターとして使う必要がある」
「なんでそんな回りくどいことをするんだ?」
「ニューロトリオンは人間の脳の高次活動、意識と密接に関係している話をしただろ。その意識のレベルが高いほど脳が生み出すニューロトリオンは強力になるし、その制御の精度も上がる」
「つまり、キャラクターを自分だと思い込めばそのキャラクターの持つ能力を強く使えるってことか。それなら誰でもスキルが使えることにならないか? ニューロトリオンは自前なんだろ」
「確かに人間なら多かれ少なかれニューロトリオンを発生している。でも、そのままじゃ使えない。ニューロトリオンを使う『フレーム』が【キャラクター】だ。さっきの五感の喪失は君の脳のニューロトリオンにキャラクターシートをプリントしたと思ってほしい」
「つまり、この【キャラクターシート】を所持する人間だけが、現実世界をRoDとしてプレイする“プレイヤー”というわけか」
変身というイメージはあっていたな。聞けば聞くほどTRPG、しかもロールプレイ超重視。これがただのTRPGシステムだったらどんなに良かったか。
「キャラクターの属性は?」
「【基本能力】は君自身だ。またいわゆる『職業』もない。キャラクターの力はスキルの選択と運用で決まる」
「そっちのタイプか。難易度高いな。スキルって具体的にどんなことが出来るんだ」
「まず脳を通じて自己の強化。【思考を加速】したり【五感を強化拡張】したり【筋肉を限界を超えて稼働】したりする。もう一つが遠隔効果。周囲に一定以上のニューロトリオンが存在している空間ならそれを共鳴させることで電磁場や重力場の操作もできる」
本当に魔法、いや世界観的に異能というべきだろうか。全く現実感がないが実際いまテレパシーもどきを使ってるんだよ。
「ルールブックにスキルリストがあるから開いてみて。キャラクターシートを持つプレイヤーにはさっきの続きが読める」
両手を開くとバインダー風のルールブックが視認された。実際に見ているのではなく、網膜のニューロトリオンが見せているらしい。なるほど、これが“本物”のルールブックというわけだ。
「とれるスキルと一度に発動できるスキルはレベルに依存するのか。ちなみにボクのレベルは?」
「レベル1だね」
「…………そうだと思ったよ」
レベル1で選択できるのはレベル0とレベル1のスキルだけ。同時発動は合計がレベルまでのようだから、レベル0とレベル1は共存できるけど、レベル1のスキルを複数使うことはできない。
「なんにしてもスキルの選択が勝負か……。ちなみにテストシナリオはどんなものなんだ?」
「舞台は東京の上野公園にある公共施設で行われるイベント。基本誰でも参加可能なものだよ。最初に言ったように偵察ミッションだ」
バインダーの最後にテストシナリオと書かれたページが追加された。
「つまり『都市探索』か……」
「まずはキャラクターの名前と表向きの立場を決めてほしい」
ほんとTRPGのキャラクターを作る時と同じ手順だな。
…………
『第四環状線、八番口です』
合成音声のアナウンスに現実にもどる。RMに指定された『Deeplayer』の死角帯に入った。テックグラス左目に見える不可視の円形コードを認識。脳内に『―Cogito ergo sum―』が現れる。視界が一瞬灰色になった。
無人バスのチケットの名義が白野康之から『黒崎亨』に変化した。
公共交通機関で偽造ID。本来ならこれだけで大事件だ。万が一にもないことだが、今このバスが事故を起こしたら被害者名簿には黒崎亨の名前が出るだろう。最悪、身元不明者の共同墓地に刻まれる名前にもなりかねない。全球承認網の管理はそれくらい絶対だ。
ちなみに変化はIDだけではない。マスクを外した顔は、いつもよりも五歳ほど老けて見える。ワックスで髪の毛を上げたヘアスタイルも相まって二十半ばの僕の顔だ。
レベル0のスキル【偽装ID】と【年齢操作】が発動した。ちなみにID偽装は僕のニューロトリオンを使ってRMがデータベース、『インヴィジブル・アイズ』だったか、を操作して実行している。
おかげでシナリオ中、RMはそちらに掛り切りになり、連絡はとれない。心細い話だが文句は言えない。自分でない自分であることは僕にとって命綱だ。ロールプレイという意味ではなく、現実的に。
シンジケートのシステムを逆用してID偽装が出来るということは、裏を返せばシンジケートは世界のほとんどの人間の行動を追えるということだ。目を付けられた時点でアウトだ。
とにかく、今からが本当のシナリオスタートというわけだな。
「……公園国際会議場入り口前です」
人工音声が目的地への到着を告げた。リングをかざしてバスを降りた。テックグラスに浮かぶアイコンの一つ目が灰色になった。
時刻は朝8:30。場所は東京都上野公園駅近くのバス停。周囲を行きかう多くの人。何の異常もない金曜日の午前の風景だ。少なくともバスごと海外行きタンカーに積み込まれたり、地下施設に運び込まれたりといった導入にはなっていない。
リュックに入れたカロリーフレンズとミネラルウオーターをあざ笑うように、バス停の横には無人コンビニがある。
ただし、それがこれから始まるシナリオの難易度を示しているわけではない。ARに浮かぶ二つ目のアイコンを見る。今から行くイベントのチケットだ。
都心であることを忘れさせるような広い緑の空間に入る。不忍池を見下ろすように建つ台形のビルに向かう。『上野国際会議場』は去年出来たばかりのピカピカの施設で、ビルと隣のホール会場からなる。
同じ方向に歩く周囲の人間を観察する。背広にネクタイを締めた中年男性。スーツとパンプスの女性。カジュアルなポロシャツの初老男性。かと思うとダメージドジーンズにTシャツの若者やワンピースの二十歳くらいの女性もいる。おへそを出したタンクトップの外国人女性と、まくり上げた逞しい肩にタトゥーの入ったハーフパンツの外人男性も見えた。
年齢、性別、服装に国籍まで全く統一感がない。強いて共通点を挙げるなら、多くがカバンではなくリュックサックであることくらいか。参加費さえ払えばだれでも参加可能。潜入“自体”には何の苦労もない。
カラフルな水玉模様のアーチ看板の下を通ってビルに入った。エントランスはホテルフロントのような空間で、正面奥に受付カウンターがある。カウンター前には先ほどと同じ看板がある。よく見ると看板の右の緑の水玉はクラゲ、左の赤はイソギンチャクに見える。実にファンシーなイラストだ。
看板に偽りない親しみやすいイベントならどれだけいいかと思いながら、二つのファンタジックな動物に挟まれたイベント名を見る。
『第68回日本バイオモニタリング学会』
そう、『学会』である。つまり周囲にいるカオスな連中はSEAMのサイエンティストやその卵たちということだ。
(明らかにくそシナリオっぽいんだよなぁ)