4話 キャラクター(前半)
見えない聞こえない匂わない、何も感じない。未経験の経験にパニックを起こそうにも、叫ぶ口もなければ振り回す手足もない。ただ虚空に寄る辺もなく浮かんでいる輪郭のない意識。
そんな曖昧な自己に一つの疑問が生じる。どうして何もないのに虚空に浮かんでいると感じられるのか。
徐々に“自分”がドームのような空間に存在することが認識されてくる。天井に走っている無数の細い光が見える。見えると言っても視覚経験ではない。三百六十度同時に見える視覚など人間が持っているはずがない。
やがて空間の中心におぼろげに光が浮かんできた。光は何らかの振動をしている。その振動に同調するように空間の左右の側面領域、ヘルメットなら耳の上あたりが、呼応するように明滅する。その瞬間、
「【ニューロトリオン】共鳴感度は最高値。さすがボクが見込んだ【プレイヤー】だ」
音が聞こえてきた。聞き覚えのあるその声はあの少女のもの。外側からの“干渉”により投影されたホログラム、VRルームの仮想実体として“自分”を認識した。
「GM!? いったいこれはどういうことなんだ」
「どうって? 【ルールブック】で説明した通りだよ。【キャラクターシート】が発動したってことは、ちゃんと読んだんだよね」
「ルールブック!? そうだあのテックグラスの仕業だな」
マネキンの手がのっぺらぼうの顔を撫でる。そこには当然何もない。いや待て、そもそもIDリングとペアリングしてないテックグラスでどうやって通信が繋がっているんだ?
「ちなみにボクのことはGMじゃなくてRMと呼んでほしい。呼びにくいならルルでいいよ」
「ルールマスター? いや、そんなことよりも、そうだ、ここはどこなんだ。なんで君の声が聞こえる。僕は今どうなってるんだ」
「どこも何も君の脳の中だよ。この会話は君の脳にインストールしたプレイヤースキル【キャラクターシート】の機能の一つだ」
「キャラクターシートがプレイヤースキル?? それってさっきの。いや、そんな馬鹿な。だってあれはそういう世界設定だろ」
確かにTRPGではプレイヤーとGMはキャラクターシートを挟んで意思疎通していると言えなくもない。キャラクターシートを認識している僕はキャラクターではなくプレイヤーであり、GMである彼女とプレイヤーとして話している。それはさっきまで読んでいた『Rules of the Deeplayer』のルールブックそのものだ。
「ああ、君の脳幹は通常通り呼吸や心臓の動きを管理しているから安心してほしい」
「全然安心できない。それって……君が僕の脳をいじったってことじゃないか」
「それは違う。ニューロトリオンが干渉するのはあくまで君の脳内のニューロトリオンだ。この【リンク】はボクの脳のニューロトリオンと君の脳のニューロトリオンの共鳴なんだ。つまり、僕からの声を聴いているのは君自身の意識だ。君が普段、外界の空気の振動を声として認識しているのと基本的には変わらない。ちなみにボクに届くのも君が意識的に発話していることだけだよ。…………今の「家チキください」はどういう意味だい?」
とても信じられないし信用できない。ただ、会話を続けるうちに少しだけ冷静になってきた。理屈は全く分からないけど、こんなことが出来る相手に下手に逆らえない。それこそ脳を破壊されるかもしれない。
「さっきから出てくる『ニューロトリオン』だけど。ルールブックに書いてあった【ニューロトリオン】なのか?」
慎重に確認する。疑問は山のようにある。でも、最大の疑問がこれだ。
「そう。コンピュータや人間の脳が発生する【ニューロトリオン】だよ」
「…………つまりニューロトリオンは実在していて。いま僕の脳はそれを感じ取れる状態になっている。そしてそれはキャラクターシートの機能」
「そういうこと。脳は外界の情報を直接得てはいない。例えば君の目の前にリンゴがあるとする。このリンゴは物理的実体として現実に存在している。そして君の意識は、そう認識している。でも、君がリンゴに“感じている”情報のほとんどは実体として存在しない。例えばリンゴの『赤色』はリンゴの表面から出るある波長の光を、その波長を検知する神経細胞が検出して、そこから生じた脳の神経活動パターンだ。それを君の意識が『赤色』と“解釈”したに過ぎない。赤色は物理的には存在しないんだ。実際、赤と青が入れ替わったとしても、それが全世界の人類で同時に起こったなら、何の支障もきたさないだろう。味や香り痛み、実は重さや遠近みたいな物理量に近い物すらそうだ。つまり、君が認識している外界とは、実際には脳のスクリーンに映し出された解釈だ」
「言ってることが分からない」
「そうだね。もしも君が網膜が検知した情報をそのまま認識出来たら、君はリンゴが机の上ではなく網膜に存在すると感じないとおかしいだろ」
「…………クオリアとかいうやつ、か?」
「そう脳科学の最大の難問である意識の問題を構成する柱の一つ、クオリアだ。じゃあ光の波長ではなく【ニューロトリオン】を認識するクオリアを獲得したら?」
「ニューロトリオンを感じる」
「そういうこと。訓練によって超音波が聞こえるようになったとでも思ってくれればいい」
とんでもなく哲学的なことを言われている。それが理解できるのは先ほど読んだTRPG『Rules of Deeplayer』の世界設定そのものだからだ。そしてその世界観の中で際立っていた特徴は……。
「つまり僕が受け取ったのはTRPGのルールブックじゃなくて、現実の『ルールブック』ってことなのか」
「理解してくれたみたいだね。その通り、そして君はテストプレイを承知した。だよね」
「答えはYesだ。ロールプレイなら任せてくれ」確かにルールブックのページを進めた。だけど、誰が世界設定が現実だったなんて誰が想像する。
「…………今からでも断りたいっていったらどうなる? 確かに僕はキャラクターシート? の導入も承諾した。だけど、今の僕は突然閉じ込められたようなものだ。こうなるって事前に教えてもらっていない。これは、……フェアじゃないと思う。君がGM、いやRMで僕がプレイヤーだというのなら、信頼関係がないとゲームは上手くいかない。違うかな」
慎重に言葉を選んで話しかけた。気分は高難易度の『説得ロール』だ。
「なるほど。君がそう思うのは無理もないかもしれない。まず、通常ネットワークを使った場合【ルールブック】の存在がシンジケートに感知される可能性があったから、最低限の説明にしたことを理解して欲しい。もう一つ、君の感覚意識の喪失はキャラクターシート導入のための一時的なものだ。感覚はあと数分で回復するはずだよ」
本当なら朗報だ。手が戻ればテックグラスを外すことも出来る。少なくともそれまでは時間稼ぎに徹しよう。現状維持のまま状況が過ぎ去るのを待つ。現実の僕の処世術だ。そう考えないとそれこそ『正気』が削れてしまう。
「あと、断るのは賢い選択じゃないと思う。君はいずれシンジケートにマークされる。ルールブックは君にとってもシンジケートへの唯一の対抗手段だ」
何とか冷静になろうとしている僕に恐ろしい言葉が告げられた。
【シンジケート】。ルールブックに書いてあったディープフォトン(ニューロトリオン)技術を独占する秘密結社だったか。あまりにゲームじみた設定で陰謀論というのも馬鹿馬鹿しい。だけど、ニューロトリオンが存在してそれを用いれば今みたいなテレパシーが出来るとしたら?
簡単に想像するだけでも、世界中の情報を監視しつつ自分たち同士は秘密の通信手段を持つ組織ということだ。
「僕がシンジケートにマークされるなんてこと、どうして君に分かるんだ?」
「シンジケートのデータベース『不可視の双眸』に君のIDが登録されているんだ。そうだね、これを説明するには最初にボク自身のことを説明するのが先だね」
「コンピュータが生み出したA.I.とか言わないよな」
目の前の、いや脳の中に作られた非現実を否定するため、あえて非現実を被せた。
「それが出来るならシンジケートはコンピューターから大量のニューロトリオンを得て目的を達成しているだろうね。でも、まったく外れというわけじゃないか。ボクは本当の意味でのデジタル・ネイティブなんだ」
「デジタル・ネイティブ? 今の時代皆そうだろ」
「もっと厳密な意味だよ。ボクはプログラミング言語で育てられた。人間の言葉を覚える時期にその代わりにプログラミング言語を取得したと言えばわかりやすいかな。『A.I.の質的限界』が越えられないなら、逆に人間を完全にコンピュータに適応させようという実験の被験者の一人、それが僕だ」
「そんな無茶苦茶な……」
コンピュータによる人間の初期教育は失敗した。スコアが産出されるまで九年間は古典的スタイルで教育が行われるのはそれが理由だったはずだ。
「統計的には失敗だった。集められた三百人の子供ほぼ全員が五歳までに精神異常をきたした。でも人間には多様性があってね。臨界期を超えた三個体が残った。その内の一人がボク。ちなみにこの実験に資金を提供したのがシンジケートの元になった組織だ。そしてシンジケートに引き取られたボクは獲得したプログラミング能力で彼らに貢献したというわけだ。君のIDが登録されているデータベース『インヴィジブル・アイズ』がその成果の一つだよ。ディープフォトンによりコグニトームを裏側から監視する、シンジケートの根幹システムの一つだ」
軽やかな口調で告げられる重い過去。だが、その話は彼女がこんなとんでもないことが出来る理由の一端を説明していた。
2022年1月22日:
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