3話 ルールブック
本日投稿分の4/4です。
翌日、僕は朝から何度もテックグラス上を接近してくる二重円を確認していた。TRPGプレイヤーにとって新しいルールブックに触れる時ほどワクワクすることはない。
世界設定、キャラクター作成、装備やアイテムのリスト。ルールブックに書かれているのは単なるデータの集合ではない。多種多様なデータは頭の中で組み合わさって一つの架空の世界を構築し、その世界における自分を作り出す。文字通り無限の可能性を生み出す元なのだ。
ましてや今僕の元に近づいてきているのはまだ世に出ていない自作システムだ。期待するなという方が無理だ。今どきデータではなく実物で送られるというのが気になるが、些細な問題だ。
昼過ぎ、予定通りの時間に窓がノックされる。ドローンの強化炭素繊維アームから受け取った。小包を破りながら机に急ぐ。厳重な包装を解くと現れたのはトランプ大の薄い金属製のケースだった。表には狐面のマークが浮き彫りされている。彼女がGMの時に付けていた仮面と同じものだ。
ケースを開くと二つのくぼみに透明な物体が入っていた。
「テックグラス?」
アルファベットのCに似た模様が透ける楕円形は僕の角膜にかぶさっている物と同じだ。
「この中にデータが入ってるってことか。でもなんでわざわざ?」
テックグラスにキャラクターシートを表示する機能はTRPGなら必須だが、それ自身がテックグラスに入っているというのは聞いたことがない。大体、テックグラスは基本単なるディスプレイだ。
「他には何もないよな。着けてみるしかないか」
ケースの記号を視認、医療グレードであることを確認する。自前のグラスを外し、送られてきたそれを装着する。度数を知っているようにぴったりだった。二度瞬きをして起動する。
集中線模様が回転、虹彩のパターンマッチングが完了した。IDリングとリンクしてないのに個人情報関係の処理が行われた? 微かな違和感を覚えるなか、ぼんやりとした文字らしき表示が現れる。
――ある日送られてきた『Rules of the Deeplayer(以下RoD)』の【ルールブック】により。あなたは【ニューロトリオン能力】を獲得します。ニューロトリオンは脳の高次活動により発生する粒子で、他の素粒子の情報を書き換えることで、直近未来に干渉する力を発揮します――
やがて、紫がかったテキストがはっきりと認識された。
――【ニューロトリオン】の発見は今から約十五年前の全球認知網塔の建設時に遡ります。コグニトーム専用に設計された最先端チップにおいて、消費する電力量と発生する熱量にギャップが観測されたのです。これは計算過程で電気エネルギーの一部が光子ではなく検知不可能な粒子に変換されたことを意味します。この未知の粒子こそ【ニューロトリオン】です――
これはっ! …………うん、間違いなくTRPGの『ルールブック』だな。海外製に多い語り掛け調の文で書かれているのは『Rules of Deeplayer』の『世界設定』に違いない。
現実とは違う、未知のエネルギーがある世界は定番だ。ただ、TRPGシステムそのものである『ルールブック』が当の世界内に実在するのは聞いたことがない設定だ。メタというべきか。GMの言っていたロールプレイ重視のシステムとどうつながるのだろう……。
ワクワクしながら視線で文章をロールする。
――ニューロトリオンは科学界では否定されました。粒子加速器に用いられる超高精度検出器でチップを調べても未知の粒子の発生が再現されなかったのです。これはニューロトリオンが中性かつ質量がゼロに近く、通常状態では他の素粒子と相互作用しない上に、発生確率は高度で複雑な計算によってのみ上昇するためです――
――つまりチップ単独で作動しているときはニューロトリオンが生成確率は極めて少なく、検出可能性は事実上ゼロです。一方、同チップを大規模に集積し、一つのシステムとして同期的に稼働させる条件では高い確率で発生します。これはタワーが【ニューロトリオン発生炉】であることを意味します――
コグニトームとタワーが出てきた。つまり舞台は現代だな。予想通り『ニューロトリオン』というのがRoDの世界設定の根幹だ。やたらと専門用語が多いが、おそらくファンタジーの魔力のような物だろう。
ちょっと心配なのはコグニトーム関連の陰謀論はコグニトームの圧倒的な信頼と実績によってリアリティーを失いがちなことだ。
――ニューロトリオンの存在に気が付いた集団がいます。【シンジケート】というSEAMの秘密結社です。彼らはタワーの生み出すニューロトリオンを『ディープ・フォトン』と呼び秘かに研究を進め【ディープフォトン・コア(DPC)】を開発しました――
――【DPC】は人間の脳に埋め込まれ、被験者に【ディープ・アルゴリズム】と呼ばれる能力を与えます。その人間は【モデル】と呼ばれ、シンジケートは彼らをもってディープ・フォトン技術の開発、秘匿、奪取を行っています――
――シンジケートの最終目的はメンバーの超人化、俗に『人類半神化』と呼ばれるテクノロジーにより人間以上の存在を目指すものです。これが成功すればシンジケートとそれ以外の人間の間には、寿命や能力に本質的な差が生じます――
世界の裏に潜む悪の秘密組織の登場だ。やっぱりこの方向になるか。丁寧に考えられている感じはあるけど……。
――ニューロトリオンは高度で複雑な計算により発生する。つまり、地球上にはもう一つ大量のニューロトリオンを発生させる存在があります。つまり、私達人間の脳です。脳はコンピュータよりもはるかに高確率で高エネルギーのニューロトリオンを生み出します――
――実際、シンジケートのDPCも脳のニューロトリオンのエネルギーを芯にコンピュータの生み出すニューロトリオン(彼らの言葉で言うディープフォトン)を駆動する仕組みです。ただし脳のニューロトリオンについてはシンジケートもまだほとんど理解できていません――
――この『Rules of the Deeplayer』ルールブックは脳が生み出すニューロトリオンを脳の自身、つまりあなたの意識を通じて制御することで、潜在的にはDPC以上の力を引き出します。つまり、あなたはシンジケートに対抗できる力を持つのです――
『世界設定』はここまでか。ジャンルは現代異能物で特徴は『ルールブック』がゲーム世界に実在していること。そのルールブックがプレイヤーに異能的な力を与えること。
…………ああそうか。ちょっとわかって来たぞ。ややこしい説明を横に置けば、要するに現実に存在するプレイヤーと架空世界の境界をあいまいにするための仕掛けなんじゃないのか。
RoDの根幹設定である【ニューロトリオン】と現実社会の基盤である『コグニトーム』を繋げる。言わば現実世界に異能が実在して、それを用いる『ルールブック』も存在する。そういう構造だ。つまり、現実世界の僕がそのままRoD世界の中にいるわけだ。
もしそうなら、ロールプレイ重視というゲームコンセプトにぴったりと言える。
だが、そうなるとやはり心配なのは世界設定だ。この設定は現実世界に“本当”にニューロトリオンやシンジケートが存在すると思えるくらいのリアリティーが必要だ。そこまでの説得力は舞台が現実を模してるだけに……。
いや、予断を持つのはやめよう。この設定を生かしたキャラクターシステムがあればいいんだ。
RoDのキャラクターはニューロトリオンを使う意識を脳内に生み出すだったか。TRPG世界の中にプレイヤーが存在するということはキャラクターというよりも“変身”に近い感じか。
期待半分、不安半分の気持ちでスクロールを進める。
――これからあなたの脳に【ニューロトリオン】を制御するための意識を作成します。まずプレイヤーであるあなたの脳に【キャラクターシート】を導入する必要があります――
――ここまでの説明を理解した上で【ルールブック】のテストを承諾するなら、次に現れる【ニューロトリオンコード】でキャラクターシートを取得してください――
――注意:キャラクターシートの起動は室内で座るか横臥した状態で行ってください。一時的にあなたの感覚処理能力に負荷がかかりますので、体勢を崩すリスクがあります――
まあ、ルールブックが実在するならキャラクターシートも実在するよな。最後の注意、あくまで現実世界という体を崩さないのは徹底している。
ここまで来てキャラクターシステムを見ずにおけるわけがない。何よりテストプレイヤーとして見込まれた以上、最後まで付き合うに決まっている。
「答えはYesだ。ロールプレイなら任せてくれ」
気分を入れるため椅子に背中を預け腕置きをぎゅっと握った後、眼球でページをめくった。現れたのは円の中に円を組み込んだような模様、アナログ時計の中身、あるいは曼荼羅アート的な模様だ。見ていると模様が回転する。錯視図? なんでわざわざ……。
―Cogito ergo sum―
疑問を解決する前に、模様の上に七色に光る文字が浮かび上がった。
『コギト・エルゴ・スム』かな。ええっと、思い出した「我思うゆえに我あり」だ。プレイヤーが『キャラクターシート』を呼び出すキーワードってところか。うん、TRPGにぴったりの標語だ。
そう考えたのが正常な世界での最後だった。僕はその言葉が網膜ではなく、脳の中に直接認識されたことを認識しなかった。
鼻からコーヒーの香りが引き、舌に残っていた苦味が消えた。肌に当たる空気が乾いて感じたと思ったら耳の奥がツーンとなって周囲の音が失われた。最後まで残っていた視界が色を失い、やがてスイッチを切ったように黒一色に染まった。
僕の意識は現実から切り離され、自らの中に沈んでいった。
2022年1月21日:
次の投稿は明日です。
土日の投稿で導入は終わる予定です。