7話 脚本会議 (2/2)
十八世紀末のロンドン、シャーロックホームズが活躍した時代のオペラハウスの一室。次の脚本について話し合うには雰囲気たっぷりの空間だ。その空気を読まずに、僕は監督の意見に反対した。次は助監督の意見だ。
「ここにある『生体情報』というのは採取した血液から得られるデータですよね。微量であっても血液からは多くのデータを得られます。『研究資料323578』の内容から推測できないでしょうか」
沙耶香は落ち着いた言葉でルルに問うた。表情から友人を心配していることはうかがえる。だが、期待通り冷静に役目を果たそうとしているようだ。
「323578の内容にはアクセスできない。実際に動いているモデルにも知らされていないんだ。ただ、最近情報が更新されたことがタイムスタンプからわかる。学会から二日後だ」
「学会後ということは、Voltのニューロトリオン感受性ドメイン、NSDの可能性はないでしょうか」
確かにシンジケートにあの情報は渡った。それが使われてもおかしくない。でも、古城舞奈の話じゃ、女子運動部員からのサンプル採取は半月前から始まっている。
「サンプル採取の件数を、日付で展開してみよう」
ホログラムの百以上の点が打たれた『地図』が『グラフ』に変化した。横軸が日付、縦軸がサンプル数だ。大きな谷を持つ二つの山の形だ。財団がVoltの情報を入手した学会二日目から『研究資料32357』が更新された翌日までの三日間、グラフが低くなり、その後またグラフが上に上がっていく。
「モデルへの通知は随時、選定基準はブラックボックス。途中で基準が修正されても実行する者にとっては関係ないからね。セッション1のターゲットにVoltが選択されたこと自体が、更新前の323578に関連していた可能性がある」
つまり、最初の山と二つ目の山ではターゲットを決める基準が修正されている。当然、二つ目の山の方が重要ということになる。そして古城舞奈は当然二つ目の山だ。
雲行きが少し怪しくなった。だが、二の山だって四十人近い。
「今の観点でもう一度インビジブル・アイズを探ってみよう。情報キーとしてNSDの配列を追加、プロトコルは分子シミュレーションを考慮して…………よし出た」
32357:『Xp21.3』『3q28.4』『12q14.2』
「染色体地図の位置ですね。例えば一番目は『X染色体の短腕の真ん中付近』を指します」
インビジブル・アイズに三つの意味不明の記号が追加された。沙耶香が間髪入れずに答えた。同時に上が短いX字型の染色体像が表示され、その右上の中央の領域がマークされた。
「つまりモデル候補の選別基準はゲノム配列か。血液サンプル、血球からゲノムDNAを取り出して調べている。三つの遺伝子かな」
「確実とは言えませんが、その可能性が高いです」
前回散々苦労した探索が、シナリオ開始前にここまで進んだ。うちのチームのSIGINTとOSINT、優秀すぎないか? 圧倒されつつ、凡人らしく素朴な疑問を口にする。
「ここまでわかってるならなんで襲撃なんて乱暴なことをしてるんだ? 遺伝子データなんていくらでもあるんじゃないのか?」
「それは誤解だね。現在全ゲノム配列が解読されているのは全人類の二パーセント程度だ、その多くが若年層だ。そのほかにも遺伝子診断を受けた人間は多いが、それは特定の遺伝子、またはセットだ。それに、DPを扱う資質は遺伝子だけでは決まらない」
「モデルの資質の遺伝率はどれくらいなんでしょうか?」
「少なくともこれまでは低い。そもそもモデルの能力は知性が育つまで確定できない。現れるのはどれだけ早くても12歳だ」
「遺伝子型と表現型のギャップが大きいのですね」
「そういうことだね」
「…………どういうことだ?」
二人に任せて結果だけ聞きたい。SEAMチーム、それも超優秀な、に放り込まれた凡人の気持ちってこんなのか。Mを目指す人間の多くが早期に離脱する理由が分かった気がする。
「生物個体の“性質”と“遺伝子”の関係です。一つの遺伝子によって決まる性質なら遺伝子型と完全に一致します。遺伝子情報だけで個体の性質が予測できるということです。例としては血友病や鎌形赤血球症のような特定の遺伝病です。ただこれはむしろ例外です。個体の性質や能力は一般的に複数の遺伝子が関わります。比較的単純な性質である『身長』に関わる遺伝子だけでこれだけあります」
沙耶香の言葉と共に、アルファベットの記号で構成された回路図のような物がホログラムに提示される。どうやら成長ホルモンに関わる遺伝子らしい。何十個とある。
「それに加えて環境の影響です。成長期の栄養状態が最終的な身長に影響します」
身長が伸びる時期は決まっている。その時に飢えていたら成長できるはずがない。僕がこれからどれだけカルシウムをとってももう背は伸びない。
「それに加えて平均よりも身長が高いことを予測するのと、突出して高い一人を予測するのは難易度が全く違います。環境が同じと仮定したら、遺伝子情報から統計的に平均よりも高い身長を持つ集団をかなりの高確率で予測できます。ですが、例えば日本人で190センチを超える個人をピンポイントで的中させることはほぼ不可能です」
「ましてやニューロトリオンは脳が関係する。身長とは比べ物にならない。実は、脳に関わる性質としてIQはかなり遺伝率が高い。つまり遺伝子に左右される。でも、ニューロトリオンの資質はそれだけではダメだ。総合教育スコアでSEAMを選別するのだって、上位一パーセントを予測できるだけだろ。あれと似ている」
一万人からスコアで選ばれた百人。その中でトップ数人を競うのはやらせてみるしかない。これがSEAMだ。最初の選別にすら残らない身としては関係ない話だけど。
「それに環境や経験が関わるということは時間がかかるということでもある。知能ですら遺伝子の寄与がはっきり分かるのは成人以降なんだ。IQは平面知性に近い指標だけど。意識はそれを組み合わせた立体知性だ。つまり、生まれた時に予想できない。まあIQと相関はするけどね。君みたいに」
「いや、僕は平凡だぞ」
そういうと二人はきょとんとした。
「君は自分の知能テストの数字も知らないのか。ボクたちと話が通じる時点でもう普通じゃないんだよ」
「…………話を先に進めよう」
仮に僕が上位数パーセントだとしても、目の前にいるのは一万人に一人とかそう言うのだ。そして、SEAM世界が求めるのはそういう超越した才能だけ。残りはその他大勢だ。だからこそ、才能格差ではなく、才能超格差なのだから。
「とにかく、モデルの資質は意識と関わる複雑なものだ。しかも実験が難しい。それでも、ランダムで選べば百万人に一人なのを、一万人に一人に絞り込むくらいのことはできている。それでもヤスユキのような特異な資質を取り逃す」
「ゲノム情報は比較的入手しやすい情報です。もしも一万人に一人を千人に一人にできるだけでも効率は大分違いますね。精度の向上は試みられるでしょう。今回もその一環でしょうか」
「おそらくそうだろう。いくら選別が難しくても、彼らはモデルの活動から日々データを蓄積させている」
「でも、脳の中のニューロトリオンか、それには気が付いていないんだよな」
「シンジケートは原理は知らない。だけど、関係ないんだ。膨大なデータがあれば、その中からパターンを見つけ出すだけだ。完全である必要もない。敵である他のシンジケートよりも一パーセントでも精度が上がれば、それだけ有利になる」
データを集め予測モデルを改善していく、シンジケートのやり方はスタンダードだとルルは言った。金と力と膨大なコンピューティングパワーを持つ者の横綱相撲というわけだ。
「もちろん、実際にどんな遺伝子を調査しているのかわからなければ確かなことは言えないけどね。サヤカはさっきの染色体上の位置と言ったよね。関わりそうな遺伝子を特定できないかな」
「染色体地図上の一範囲には数十の遺伝子が存在します。しかもそれに数十倍の非コード領域つまりタンパク質に翻訳される以外の働きを持つ配列もありますから」
沙耶香の指が空を叩く。X染色体の一部が拡大され、数十個の遺伝子らしき略号がリスト化される。
「念のため聞くけど、これやって大丈夫なんだろうな」
「これ自体は公的なデータベースです。生物学の研究者なら日常的におこなう作業ですから」
「もちろん、サヤカのコグニトームアクセスは偽装しているよ。君が言った役割分担だろうに」
当たり前のように答えが返ってくる。確かにSIGINTとOSINTだ。想定したよりもはるかに強力で、HUMINTの出番がないくらいだ。
「とにかく今の分析を前提に採取されたサンプルの行き場所を推定してみよう」




