1話 創造経済
2022年1月19日:
本日投稿の2/4です。
「…………令和初期、GDPの10倍を超えていた政府債務は現在一倍以下にまで減少。これに伴い20パーセントに達していた消費税は廃止されました。これは十五年前から始まった経済の大革新の成果による…………」
最後列からもわかる右肩上がりの世界が瞳の中で滲む。
「この改革は大きく分けて二つです。一つは金融の完全電子化により効率性と透明性を伴った経済活動および税制の基盤が成立したこと」
円形講義室の中央に浮かぶ地球義。表面を流れる黄金の川からギラギラの飛沫が網膜に散るのが煩わしい。
「もう一つは経済活動の主役が特許権や著作権など知的財産権に移ったことです。現在、無形財産の創造及び取引から生まれる富は、モノやサービスをはるかに凌駕するに至っています」
右耳から左耳に抜ける言葉を欠伸でかみ殺した。
脳は自分には関係ない情報には極めて冷淡だ。半轍明けであればなおさら。
昨夜のセッションは楽しかったな。まさかあそこで彼が裏切るとは。おかげで終わった後しばらくはキャラから戻ってこれなかった。予想外の展開こそあのゲームの醍醐味だ。次のセッションが待ちきれない。プレイヤーが俺だけになってしまったけどGMはシナリオ調整をどうするつもりだろうか。
「この創造経済の基盤が【全球承認網】と呼ばれるID管理システムであることは皆さんもご存知でしょう。今や人間をはじめありとあらゆるものにIDが付与され、その関係がデータベース化されています」
いっそもう寝てしまおう。経済学講師と彼の横のホログラムを瞼で追い出そうとした時、映し出された立体映像が一変した。左手のIDリングを掲げる講師の隣に天を突く塔が現れた。
東京湾から突き出すその塔は世界経済の中心の一つだ。湾深部に発見されたマグマだまりの地熱を中央に通し、発電と同時に周囲の空気を引き寄せる最先端の地熱蒸気機関。その周囲を囲む百層を超えるドーナツ型の各階には、日本の人口を超えるCPUが24時間休むことなく働く。
圧倒的な“同期された計算能力”が世界中を飛び交うIDのネットワークを管理する。同規格の12のタワーが相互監視することで、決して改竄できない各種IDリストを実現するのだ。
発生する税収は直接だけで国家予算の10パーセント、間接的なものを合わせると70パーセントを超える。文字通り日本の柱だ。タワーの一つを誘致したことで、日本は先進国集団からの脱落を辛うじて逃れたという。
「コグニトーム誕生時は「人工知能の爆発的進歩が人類を滅ぼす」というフェイクが最高潮に達した時期でした。ですが皮肉にもその後『A.I.の質的限界』が次々と明らかになりました。どれだけ大量のデータをどれだけ高速で処理しても、我々人類が持つ『真の知性』は生まれなかったのです。この原因は現在も諸説ありますが、人間の脳が『意識』を生み出すメカニズム、現代科学の最大の未解決問題と密接にかかわるというのが多くの専門家の意見が一致するところです」
「これは創造経済において特に重要なのがSEAMと呼ばれる高度技能人材であることとも完全に一致します」
SEA。つまり科学者、技術者、創作者。理論の発見、工学の発明、魅力的な絵、音楽、文章の創作を行う才能ある個人。それら才能を持つ人間を組み合わせたチームの管理者。創造的な仕事は人間にしかできない。
コグニトームを用いて価値ある何かを作り出し、コグニトームを通じて全世界120億人市場から収入を獲得する。現代の資本主義を支えるのはコンピュータが自動化したID管理を活用できるこれら優れた人間の働きだ。
コンピュータが人間の才能を助けるデジタルユートピア。文字通り“人類の輝かしい勝利”というわけだ。ただし、SEAMは合計しても人口の1パーセントを超えない。
要するに勝ったのは人類の上位1%。突出した才能がコグニトームにより圧倒的な生産性を獲得した結果、優れた程度の才能は高度な仕事から追い出される。人類の勝利は才能超格差社会の色を纏う。
そう”輝かしい人類”の勝利だ。突出した才能のない僕には無縁の世界だ。
文句があるわけじゃない。創造経済に参加したければすればいいのだから。コグニトーム・リソースと呼ばれる計算資源の配分は実績によるが、個人がちょっと挑戦する程度は保証される。隠れた才能やどうしても実現したい夢があるなら、挑戦することが出来る。
もちろん才能もないのにあちら側に挑む熱意は僕にはない。公正に才能が評価される社会とは、才能が平等に与えられないことを常に知らされる社会だ。大体、あっちは過酷な競争社会だ。“普通の仕事”の数十倍の自殺率がその証拠だ。
SEAMの各分野はさらに専門的に細分化され、各分野で千人に一人の才能が鎬を削る。流行の変化が激しいアーティスト系は特にきついらしい。「毎日同じことをする仕事なんて地獄と思っていたけど、毎日新しいことをする仕事はもっと地獄だった」という言葉を残し自殺した有名イラストレーターのニュースを見たのは高校二年だったか。大好きなTRPGルールブックの表紙を描いた人だったので衝撃だった。
同時に才能ある人間の感覚が理解できなかったのも確かだった。仮に仕事が無くなっても、過去の知的資産から人並み以上の収入が入ってくるだろうに、そう思うのは僕が凡人である何よりの証拠だろう。
要するに僕は99パーセントであり、99%は決して悪くないのだ。殺されるわけでも奴隷になるわけでもない。医療や教育といった基本社会権利は保証される。無理してあちらに挑む理由などない。
個人IDが悪化しない程度に学業や普通の仕事をこなし、残りは趣味に没頭するのが一番賢い生き方だ。挑戦なら架空の世界でするのが凡人のトレンドだ。
講師の姿をまぶたでシャットダウンした。二秒後、テックグラスがオンになり、眼球に張り付いたレンズから暗幕に灰白色のテキストが現れる。新システムのルールブックの発売、追加資料集の発表など、ニュースが並んでいく。
タイトルをスクロールする。興味あるものが見つからない。動きを止めた眼球を感知して、瞼の裏の文字が段々と背景に消えて行く。手紙のアイコンが出現した。薄いアイコンに狐のマークを認識した途端、闇に落ちかけた意識が覚醒した。
メッセージを読み、グラス上でいつもの手続きをする。僕の要望はIDリングを通じてタワーに届き、全てを取り計らってくれる。
「本日の講義はここまで。来週はタワーに設置されている球面半導体について説明します」
講義が終わるや、僕は足早に講義室を出た。
自転車のロックをリングで解除。大学正門を出てホログラム・サイクリングロードに入る。ゲートの向こうには自動運転車が整然と走る。人間が運転する車を追い出したことで自動運転が達成された。ハンドルが付いている車はレース場か自衛隊基地にしかない。
無人コンビニに入り、リングをかざして講義中に注文していた飲食物を受け取る。
店舗を出る。緑色の桜並木の河川敷を走り抜け、五階建てのマンションに入った。横の階段を駆け上がり、二階端の208号室をリングで開錠。ユニットバストイレとキッチンに挟まれた短い廊下の奥に六畳半の洋室が現れる。
壁に張り付いた蜘蛛型ロボが人間の帰宅に反応してゆっくりと巣にもどる。靴を脱ぎ棄て、まな板にサンドイッチを載せる。缶コーヒーだけを手にリビングに入った。
ブースデスクに座り、ヘッドホンとマイク付きのバイザーをかぶる。外光が無くなり、バイザーからの無線給電がオンになる。拡張現実モードから仮想現実モードに移行した。
ワイヤーフレームと化した世界に椅子に座った僕の仮想実体が現れる。目の前に表示されたドアを相対座標モードで通過する。VRを絶対座標で移動したら無警戒で現実にぶつかる。仮想空間の没入感はそれくらいリアルだ。
個人IDと紐づけられたゲートをくぐる。無機質な灰色の壁に囲まれた空間。中央にぽつんと存在するテーブルだけ。僕が椅子ごとテーブルについたと同時に、向かいに狐面をかぶった少女が現れた。
「今日が最後のセッション。そして君が最後のプレイヤーだ、ぜひとも生き残って欲しい」
「全力を尽くすよGM。もっとも最後はダイスの女神さま次第だけどな」
手探りで現実のコーヒーのスクリューキャップを引く。焦げた香りが口の中に充満するのを合図に、架空のキャラクターを頭の中に思い浮かべる。
現実世界における進路選択は人生に大きな影響を及ぼす。どんな挑戦をしてもいい環境が与えられても、才能という指標も必ずこれをやりたいという熱意もなしに、どう未来を選べと言うのか。
だからこそ、リスクなしで自由に選択できる仮想世界は大人気だ。息をのむような美しいグラフィックのオープンワールドRPG、プロを頂点に多くの人間が競い合うFPS。現実と遜色ない、いやそれ以上の体験がVR内にはいくらでも存在する。
ただし、僕のお気に入りはもっとずっと地味でアナログチックな娯楽だ。VRRPGの適度に調整された冒険にも、e-sportタイトルのような人間同士の競争もしっくりこなかった。
コンピュータゲームすら存在していない時代に誕生し、現在のVRゲームの中でも最大ジャンルであるRPGの原型となったそのゲームは、『ルール』を元に人間と人間の想像力が作り上げる究極の『ごっこ遊び』。
テーブルトーク・ロールプレイング・ゲーム、略してTRPG。それは僕が自分以上に自分を感じられる場所だ。