13話 ラスト・キーワード(前半)
セッション1 指令書
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ターゲットID:DPC-G-34214
カテゴリ:DPCの生体適合に関わる遺伝子配列
レイティング:コモン
研究キーワード:『394―496―632』
場所:第52回日本バイオモニタリング学会2日目ポスターセッション
補足:該当研究とディープフォトンの関係を認識した人物が出た場合、情報秘匿および獲得のため拉致を推奨する。止むをえない場合は殺害も許可する。その場合の処理についてはDeeplayerを通じて連絡する。
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以下が『インヴィンシブル・アイ』に登録されたモデルへの案件提示です。
あなたの使命は以下の二つです。
1,ターゲットである『遺伝子配列』の特定および該当研究とニューロトリオンの関連を調査する。
2,指令を受諾して派遣された『モデル』を特定する。
以上の二つの情報をRMに送信することでシナリオ達成となります。
注意:シンジケートは『Deeplayer』を通じ学会周辺のコグニトームを監視しています。不用意なネットの使用は感知されるリスクを伴います。なお上記のデータは現時点の情報であり、モデルはこれ以降に追加される情報を活用することが考えられます。
学会という深く広大な地下迷宮で、三百を超える演題から蛍光タンパクの種類で十二題、索敵により三題にと絞り込み、ついにターゲットの存在する秘密の部屋を突き止めた。GrowGrassとColRoseをあしらった遺伝子はあと少しの所にある。
だが、俺は立ちすくんでいた。
前方にはターゲットを守る分厚い科学の壁、後方には敵兵がいる。しかも、前後を挟まれた俺の横にさっき別れたはずの高峰沙耶香《NPC》が近づいてきたのだ。
「なにがわからないのですか」
「よかった、実はちょうど君の意見が聞きたいと思ってたところだ。っと、ここじゃ発表の邪魔だな、少し離れよう」
俺は高峰沙耶香を促して少し距離を取った。斜め後ろに1メートル、決して不自然にならないように。ピアスの男は俺達にちらっと眼を向けたが、すぐにポスター前で発表者と話す外国人男に視線を戻した。さて、ここからどうすればいい?
もちろん一番安全なのはこのままここから離れることだが、それだと時間的にミッション失敗になる可能性が高い。
「それで、私の意見が聞きたいというのは?」
「それはだな……」
「どうしました?」
「いや、ちょっと意外だったからね。残業するタイプには見えなかった」
軽口で時間を稼ぐ。高峰沙耶香は形の良い眉を顰めた。
「ちょうど近くの発表を見ていたら、棒立ちの黒崎さんを見つけたのです。……先ほどは私のせいで時間をロスしましたから。無用ならそれで構いませんけど」
「なるほど。いや、うん助かる。言った通り君の助言が必要でね。ほら,何しろこの分野では素人同然だ。さっきも発表者の人を困らせたところだ」
さて、俺は何を聞きたいのだろうか。そして、それをどう聞くべきかのか。口を動かしながら、頭では密偵として『情報収支』を計算する。
今のこのきわめて複雑で危険な状況を単純化するとしたら、いわば『変則ブラックジャック』だ。二枚のカードの組み合わせで得点を競うゲーム。一枚目のカードが『生物学』で二枚目が『異能《SF》』だ。
このブラックジャックの特殊ルールは得点が一枚目と二枚目の『掛け算』であること。カードが情報であるため開示した情報が相手に伝わる点だ。
仮に勝利条件が得点100としよう、現時点の各人の得点見積もりは、
『生物学』 『異能』
俺のカードは 『3』 『10』 =30点。
モデルのカードは 『10』 『K』 =100点。
太田のカードは 『K』 =0点。
高峰のカードは 『Q』 =0点。
と言った感じか。
二枚目のカードを持っているのは俺とモデル(二人?)だけ。おそらくだが最初に索敵した金色ピアスモデルはもう“上がって”いる。任務達成後に“別のモデル”の存在を知り偵察にもどってきているように見えるからだ。
俺の仕事上、いずれのモデルであっても“上がる”ことは問題ない。問題は自分達以外に二枚目のカードを持つ人間がいることを知られることのみ。
これはいわば俺の『敗北条件』だ。これを避けるためには決して二枚目のカードの開示してはならない。俺はとにかく一枚目のカードだけを開示し、現在の「3」から「10」に引き上げる。これが俺の『勝利条件』になる。
この二つは完全に両立しうる。問題は俺の『手さばき』に不安がある点だ。一枚目のカードだけ開示するつもりでうっかり二枚目を晒していたということが起こりえる。モデルの前でそれをやれば致命的な失敗。そして太田と高峰に対しても可能な限り避けたい。
NPCがうっかり得点100を越えると事態が緊迫するのだ。この件のレイティングがコモンからレアに上がり、Deeplayerによる監視から敵の行動強度まですべてが上昇する。つまり、この後の脱出の難易度が上がる。最悪の場合家にもどる前に『戦闘パート』が発生する。
この場合、一番警戒すべきは太田だ。科学能力で太田が高峰に劣っていたとしても、彼女は『Volt』について世界で一番詳しく、何より実物を抑えている。クリティカルでも出さない限り大丈夫だと思うが用心に越したことはない。
ならば俺がカードを開示するのは高峰沙耶香がベストということになる。彼女なら俺が素人同然であることにも疑問を持たない。ただし、リスクをなるべく小さくするために話を『一枚目』に留めなければいけないのは同じだ。
「少し複雑なんだが。俺が分からないのはあそこの動画の神経細胞が赤い蛍光を発する仕組みなんだ。多分、俺がGeVIsとFRETという生物学の技術を理解していないことが原因だ」
少しだけ声を落とし、あくまで研究の話として質問する。幸い問題の整理はできている。ただし「なんでColRoseの励起波長がないんだ?」なんて言って、それがモデルの耳に届くとまずい。相手の聴覚が人間と同じである保証はない。
「なるほど、確かに黒崎さんの知識では理解できないでしょう。正しい問題認識です」
高峰沙耶香はポスターを横目でちらっと見て言った。馬鹿にするというよりも感心したような顔だ。俺の質問に違和感を持ってないのは結構。
「この場合はそうですね。GeVIsよりも先にFRETを説明しましょう。簡単に言えば『ColRose《RFP》』を励起させているのは同じ分子内にある『GrowGrass《GFP》』です」
「どういうことだ?」
「この実験でVoltの『GrowGrass』は紫外線レーザーで励起され緑色蛍光を発生します」
「ああ、最初からある緑の蛍光がそれだ」
「そうです。でも、見てください。中央のニューロンが赤くなった時、最初の緑色の蛍光が消えているのです」
「………………考えてみればそうだな」
動画を見る。中央の二つ以外の周囲の細胞は緑の光のまま。そして一瞬赤く光った細胞も、すぐに緑にもどる。同じレーザーが赤く光る細胞にも当たっているはずだ。GrowGrassの緑とColRoseの赤の蛍光が同時に発生すれば『黄色』に見えるはずだ。それが赤い蛍光だけということは、ColRoseが発光しているだけではなく、GrowGrassの光が消えているということだ。
「つまり発火中のニューロンではGrowGrassの発する496nmの蛍光エネルギーが失われています。これがポイントです」
「GrowGrassの蛍光が行方不明」
俺は高峰沙耶香の説明をなぞる。そして、自分の疑問に当てはめていく。
「………………待てよ。そういえば『GrowGrass』の蛍光波長とColRoseの励起波長が近いな。まさかGrowGrassの蛍光がColRoseを励起する、とか?」
半信半疑でそう答えた。『GrowGrass』の蛍光波長は【496】でColRoseの励起波長は『506』だ。その差10nm。そして、蛍光は数値を中心に山型の分布をする。つまり、GrowGrassの発する緑蛍光の範囲に、ColRoseの励起光が含まれる。
「おおむね正解です。正確には共鳴によるGrowGrassからColRoseへのエネルギーの移転です。緑色の蛍光ではなくGrowGrassのエネルギーがColRoseに吸収されるイメージですね。これが蛍光《F》・共鳴《R》エネルギー《E》転移《T》です」
つまりVoltという一つのタンパク質で二つの蛍光タンパク間の蛍光エネルギーが移動して、光の色を緑から赤にを切り替える。つまり、
紫外線レーザー《396》 → GrowGrass《496》 → ColRose → 赤色蛍光《632》。
「いや、しかしそれなら全ての細胞が赤く光らないとおかしくないか? なんで電流が発生した時だけ赤くなるんだ?」
「FRETは二つの蛍光タンパクの距離が極めて近いときしか生じないからです。それが『GeVIs』の説明になります。構造模型を見てください。GrowGrassとColRoseの間に別のドメインが挟まっていますよね」
高峰沙耶香はVoltの中央の灰色の筒を指した。細胞膜の中に浮かんでいるその遺伝子には『VSD』という記号が書かれている。二つの蛍光タンパクに気を取られてすっかり忘れていた。GrowGrassでもColRoseでもなくこの地味な台座《VSD》が重要だというのか。
「Voltage Sensitive domain。つまり膜電位感受性ドメインです」